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滝の白糸(2) [読書]

 古典とは何か。そりゃ要するに、良いものが時代を超えて、消えずに残っているもの。駄作はすぐに淘汰される。良いものはいつまでも残る。古典的な名著を専門に扱ってるのが岩波文庫だ。儲けを度外視して、良いものを残そうとするその姿勢は結構好きだ。ただ、だからといってそんなに読んでるわけではないけど。(笑)

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 さて、滝の白糸は、水芸の太夫として金沢に興業していたが、そのほかにも猿芝居、娘かるわざ、剣の刃渡り、盲人相撲、手無し娘、子供の玉乗り、などの見せ物小屋がたくさんあった。ここでは当時の芸能とか娯楽とかいったものののあり方がよくわかる。テレビやラジオのなどのマスメディアのなかった当時は、芸能はライブしかなかったわけで、人々はライブステージを楽しみにしていたのであろう。剣の刃渡りとか、猿芝居なんていうのは、現在でも通用しそうなものであるが、盲人相撲、手無し娘などというのは、身体に障害のある人を利用した見せ物である。現在ではこういうものはまず、見ることはなかろうが、当時の障害者はこのような生き方しかできなかったのであろう。悲しい時代である。

 さて、これら数ある見せ物の中で滝の白糸の水芸は、もっとも人気のあるもので、美しく、芸も人間離れしたすばらしいものであった。彼女の素性と芸を描写した場面がある。

 滝の白糸は越後国新潟の産にして、その地特有の麗質を備へたるが上に、その手練の水芸は、殆ど人間業を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。されば到る所大入り叶はざるなきが故に、四方の金主は渠を争いて、ついに例なき莫大の給金を払ふに到れり。渠は親もあらず、同胞もあらず、情夫とてもあらざれば、一切の収入は尽くこれを我が身ひとつに費やすべく、加ふるに、闊達豪放の気は、この余裕あるがために益々膨張して、十金を獲れば、廿金を散ずべき勢を以て、得るままに撒き散らせり。これ一つには、金銭を得るの難きを渠は知らざりし故なり。
(中略)
 静静歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結かけて、脂粉こまやかに桃花の媚をよそほい、朱鷺色ちりめんの単衣に銀糸の浪の刺繍ある水色絽のかみしもを着けたり。渠はしとやかに舞台好きところに進みて、一礼を施せば、待ち構へたりし見物は声声にわめきぬ。
 「いよう、待ってました大明神様!」
 「あでやかあでやか!」
 「ようよう金沢荒らし!」
 「ここな命取り!」
 やんやの声のうちに渠は静かに面をもたげて、情を含みて浅笑せり。口上は扇を挙げて一咳し、
 「東西! お目通りに控へさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸に御座りまする。おめみえ相済みますれば、早速ながら本芸に取りかからせまする。最初こてしらべとして御覧に入れまするは露に蝶の狂ひをかたどりまして『花野の曙』ありゃ来た、よいよいよいさて。」
 さて、太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手にとりて、右手には黄白二面の扇子を開き、や、と声かけて入れ違いに投げ上ぐれば、露を争ふ蝶二つ、縦横上下においつおわれつ、雫もこぼさず翼も休めず、太夫の手にもととまらで、空に文織る錬磨の手術、今ぢゃ今ぢゃと(後略)

 興業の場面で、滝の白糸が登場し、観客が声をかける場面などは、現代の人気歌手のライブステージ等となんら変わりはない。つまり、滝の白糸は今風に言えば、いわゆる「スター」だったわけであり、美しく、芸も達者となれは人気はあがり、これを興業する人は争って彼女を契約を結んだ。

(つづく)
次回、欣也と白糸の再会。


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