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平家物語を読みたい(11) 平忠度の歌 [読書]

 さて、木曽義仲が北陸で平家軍を破り、いよいよ京の都へ迫ってきた。義仲の知略により、比叡山は義仲方につくことになり、平家方が義仲の軍に対抗できる見通しはなくなった。ここで平家方のリーダー宗盛(むねもり)(注1)は、都を捨てて、西方へ落ち延びることを決意する。

 7巻の「主上都落」「維盛都落」「忠度都落」「経正都落」「一門都落」「福原落」などの章には、一族が混乱しながら都を出て行く様子が描かれているが、この記事で取り上げたいエピソードは「忠度都落」である。平忠度(たいらのただのり)という人は、忠盛の6番目の男子(注2)で、清盛の弟である。あちこちの戦でリーダー格を担った人だったが、武士としてだけでなく歌人としても名を為した人だった。

 忠度は、都落ちをした後で、思い直して都にまた戻ってきた。そして歌の師匠であった藤原俊成(としなり)(注3)を訪ねた。忠度は自分の歌を書いた巻物を俊成に手渡し、「今後、歌集を編むことがあったときに、この中の自分の作品の中で良い物があったら、ぜひ載せて欲しい」と頼んだ。俊成は忠度の気持ちを汲み取り、この頼みを快諾した。(注4)

 一旦都を立って、また戻ってきたという、このときの忠度の心の迷いは、いかばかりであったろうか。そもそも都落ちをするときに、自分の歌を書いた巻物をもって出かけることが、どれほど歌に打ち込んでいたかを物語っている。そして都を出たあとも「この歌と共に討ち死にするべきか、それとも世に残すべきか」とか「師匠のところに預けてくればよかった」とか逡巡している様子が思い浮かぶのである。潔さを旨とすべき武士としては、いささか格好悪いけれども、とにかく忠度は都に戻って師匠に巻物を預け、ようやく迷いを断ち切って味方に合流した。

 その後、忠度は一ノ谷の合戦で戦死する。討った側の侍は、この人物が誰であるか、最初はわからなかったけれども、箙(注5)に、文が結び付けられていて、それを解いてみると歌が一首書かれてあった。

行き暮れて木の下かげを宿とせば 花やこよひの主ならまし 忠度
(旅の途中で日が暮れて桜の木の下陰に宿るならば、桜の花が今夜の主となり、もてなしてくれるであろうか)

 この歌により、討たれた人が忠度であることがわかった。このことを知った侍たちは、敵も味方もみな、その才能を惜しみ悲しんだという。

 この歌、僕のような素人でも素直に感動できる、実に美しい歌だと思う。。一ノ谷の合戦があったのは1184年3月20日。ちょうど桜の花の咲く季節だった。



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(注1)清盛の長男の重盛は父より先に亡くなり、次男の基盛も早世していたから、この時点で平家一族のリーダーは三男の宗盛だった。

(注2)平家物語は、平清盛の父親の忠盛が手柄を立てて殿上人になるところから始まる。以下は第一巻の「鱸(すずき)」という章に書かれている話である。当時、忠盛には、愛人がいて、この人は、鳥羽法皇の御所に勤める女房だった。ある日、忠盛がその女房のところで一晩過ごして、翌朝、扇の忘れ物をした。その扇には月が描かれていた。他の女房たちが「これは一体誰のものかしら」と冷やかしたところ、その女房(愛人)は、
「雲井よりただもりきたる月なれば おぼろげにてはいはじとぞ思ふ」
(雲間から、ただ漏れてきた月だから、いいかげんなことではその出所を言うまいと思う)
という歌を詠んだ。「ただ漏りきたる」と「忠盛きたる」をかけている。5・7・5・7・7のリズムに乗せることは素人でもやろうと思えばできるが、この掛け言葉っていうのは、よほど熟練していなければなかなかできないのではないだろうか。忠度は、この女房の産んだ子供だという。つまり忠度が歌の名手だというのは血筋であると言いたいのだろう。

(注3)藤原俊成(「しゅんぜい」とも読む)・・・公家であり歌人

(注4)藤原俊成が後の世で千載和歌集を編んだとき、忠度の巻物の中から、次の一首を選んで載せた。
「さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」
しかし勅撰和歌集(天皇の命により編纂する和歌集)であったため、朝敵となった平家の名前を入れることが出来ず、「詠み人知らず」としての掲載となった。

(注5)箙(えびら)・・・矢を入れておく筒のこと

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