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平家物語を読みたい(12) 敦盛の最期 [読書]

 都落ちした平家の一族は、太宰府(現在の福岡県太宰府市)に拠点を築こうとしたが、地元の侍達がみな源氏方になっていて追い出されてしまい、結局四国の屋島(現在の香川県高松市)に落ち着くことになった。

 一方、義仲は、京の都を占領して一時期大きな権力を握ったが、やりたい放題で清盛の時代よりひどいことになり、鎌倉の頼朝が義経を派遣して、義仲は討伐されてしまった。頼朝は京を制圧したことになり、ここから義経が大活躍することになるが、この辺の事情は過去に何度もドラマや映画のクライマックスになっているので、知っている人は多いと思われる。

 義経軍が義仲を滅ぼしたあと、平家が滅びるところまで、小さいのを除いて代表的な合戦は一ノ谷、屋島、壇ノ浦と続く。今回書きたいのは一ノ谷の合戦のエピソードになる。なお、一ノ谷は現在の兵庫県神戸市須磨区というところで、明石海峡大橋の東側の大阪湾に面している。平家の拠点がここに一つあった。(注1)

 義経軍は、いわゆる「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の挟撃作戦により平家を追い詰め、海上に逃れるしかなくなった平家の侍たちは、海に浮かぶ船(注2)に退却しようとしていた。これを追跡する源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)という侍が、馬で海に進んでいく平家の侍の一人に「敵に後ろを見せるのか。引き返してこい」と呼びかけた。

 相手は呼びかけ通り戻って来た。組み付いて馬から落ち、そのまま直実が首を取ろうとして顔を見ると、自分の息子くらいの若者だった。直実が名前を尋ねたところ、若者は名乗らずに、「首をとって人に聞いてみれば、みんな知っているだろう」と答えた。直実はこの若者に情がうつり、助けようとしたが、源氏方の味方が後ろから来てしまった。

「助けたいが味方が来てしまった。人の手にかけるくらいなら自分が討つ」
「いいから早く首をとれ」

 直実は仕方なく、この若者の首をとった。若者は笛を腰に差していた。あとで聞いたところ、この若者は経盛(清盛の2つ下の弟)の息子の敦盛だった。笛の名手で、持っていた笛は、小枝(さえだ)という名品だった。直実は、その合戦の日の早朝に、城の中から風流な管弦の音が聞こえてきたのを思い出し、さては笛を吹いていたのはこの人であったか、と気づいた。直実はこのときのことで、心に深い傷を負い、これがきっかけで後に仏門に入ることになったという。

***

 明治時代に作られた文部省唱歌で、「青葉の笛」という歌がある。一ノ谷の合戦の後の、敦盛の最期と、それから、前の記事で書いた忠盛の話を唱歌にしたものだが、僕はこの歌を一緒に勉強会をやっていた姉から教わって最近知った。聞いたことのない方、YouTubeの動画で聞けるので是非聞いていただきたいと思う。(この動画がいつまで存続するかはわからないが)よくぞこれほど悲壮なメロディーを作れたものだと感心するくらい悲壮な曲である。
(下記URL)
https://youtu.be/8UShL2FwUNM


青葉の笛

一ノ谷の戦敗れ 
討たれし平家の公達哀れ
暁寒き須磨の嵐に
聞こえしはこれか
青葉の笛

更くる夜半に門を敲き
我が師に託せし言の葉哀れ
今際の際まで持ちし箙に
残れるは「花や今宵」の歌

*********

(注1)拠点があったといっても、都落ちしてから城を新築したとは思えない。協力者から提供された建物と思われる。

(注2)海に浮かぶ船・・・もともと清盛の父親の忠盛は瀬戸内で海賊退治をやっていた人だったので、平家は瀬戸内海に強い基盤(=協力者)をもっていた。船でこの辺を動き回ることは、もともと得意分野であって、陸上よりも海上ルートで移動することが普通のことであったと思われる。戦も終盤は海戦が多い。

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