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平家物語を読みたい(14) 重衡と千手前 [読書]

 前の記事で、一ノ谷の合戦まで来たが、ここでちょっとだけ前に戻る。1180年12月に起きた奈良の興福寺東大寺の焼き討ち事件である。以前の記事で、以仁王が反乱を起こしたときに、三井寺と興福寺が以仁王の味方についたことを書いた。(注1)その後、都では、興福寺が以仁王の味方についたのだから、平家が興福寺を攻めるに違いないとの噂がたち、それに呼応するように興福寺が蜂起した。

 興福寺は藤原氏の氏寺である。都から摂政藤原基通(もとみち)が取りなしに行ったが、興福寺は言うことを聞かず、朝廷からの使者を送っても、その髻を切って侮辱したり、首を切って晒したりした。清盛は激怒し、息子の重衡(しげひら)(注2)を大将にして、4万騎の軍勢を奈良に差し向けて興福寺を攻撃した。

 奈良に旅行した人ならわかると思うが、興福寺と東大寺はすぐ隣である。興福寺が攻められれば、東大寺も当然巻き込まれる。夜の戦闘になり、重衡はあたりの民家に火を放った。これが冬の乾燥した大気のせいであっという間に燃え広がり、興福寺も東大寺も建物はもちろん経典も仏像も全て燃えてしまった。戦禍を逃れてこれらの寺に逃げこんでいた民衆もみな焼け死んでしまい、奈良は壊滅状態となった。

* * *

 そしてその大事件から約3年後の1184年3月、一ノ谷の合戦。このとき重衡は、馬に敵の矢が当たって動けなくなり、味方の付き人も怖じ気づいて逃げてしまった。もはやこれまでと自刃しようとしていたところ、源氏方の庄四郎高家(しょうのしろうたかいえ)という侍が、重衡を説得して自刃をやめさせ、自分の馬に乗せて捕虜にしたという。

 重衡は京へ送られた。そして後白河院(注4)から平家方へ「三種の神器と人質の重衡の身柄を交換する」という取引を持ちかけることになり、重衡の使者が屋島へ送られた。しかし平家は「三種の神器を返したところで重衡が戻ってくるとは思えない」と拒絶。取引は失敗した。

 その後、重衡は鎌倉の頼朝のところに送られた。その理由は平家物語には明確に書かれていないが、想像するに「重衡は奈良の大衆から恨まれる存在であって都に置いておけば火種になるから、都から遠い鎌倉にひとまず置いて何かの取引に使おう」と考えたのではないだろうか。

 実際、頼朝は鎌倉に呼び寄せた重衡に対面し、奈良の焼き討ちについて尋問をしている。そのとき重衡は、「奈良の件は僧都を懲らしめるためにしたことであるが、最初から壊滅させるつもりでやったわけではない。しかしいずれにしても、もう自分の命運は尽きた。覚悟は出来ているから早く首を刎ねてくれ」と言った。頼朝は重衡の態度に感服し、身柄を伊豆の国の狩野介宗茂(かののすけむねもち)に預けることにした。宗茂は情け深い人で、重衡を丁重に扱った。

 宗茂は、千手前(せんじゅのまえ)という女性に重衡の世話をさせた。あるときは、湯女になって入浴の手伝いをし、あるときは宴会をして琵琶や琴を演奏したり歌を歌ったりした。重衡も、都の育ちで芸事は一通り身につけているから、千手前がただ者でないことはすぐにわかったし、千手前も「戦のことしか考えない粗野な人物かと思っていたがまことに雅な人だった」と頼朝に報告している。

・・・しかし頼朝の戦略であろうとは言え、捕虜に対してこんな歓待の仕方ってあるだろうか。宴会はまああるとしても、湯女なんてやられたら、ただ事では済まないと思うのだが。その後、壇ノ浦の合戦ですべてが終わったあと、重衡は結局奈良に連行されて斬首されることになるが、千手前はその知らせを聞いて出家し、重衡の菩提を弔ったそうである。そうしたことを考えると深い仲になっていたと考えても不自然はなかろう。(注3)

*  *  *  *  *

(注1)URLは下記。
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2020-12-02
(注2)清盛の息子は、上から重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡の5人。重衡は5男である。
(注3)このあと千手前が重衡の子(しかも男の子!)を産んだりすれば、もっと話が広がるんじゃないか、などと想像してしまった。いやいやキリがない。
(注4)平家が都落ちするとき、後白河院を一緒に連れて行くはずであったが、院はこれを事前に察知してうまく隠れてしまい、結局都に残留していた。



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