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リフレッシュ休暇(3)水漏れ事故 [雑文]

(つづき)
 さて、7月4日の下関は、関門トンネルの後、壇ノ浦の合戦で幼くして亡くなった安徳天皇が祀られている赤間神宮を参拝し、唐戸市場でアイスクリームを食べて、16:30頃にホテルにチェックインした。

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さて、話はちょっと遡る。

朝、北九州の小倉に向かう新幹線のぞみの車内で、マンションの管理会社からスマホに電話があった。広島を過ぎてもうすぐ新山口に着く頃だった。「ひぐらしさんの部屋の下の部屋で、天井から水漏れがあるので、ひぐらしさんの部屋を調べたいのだが、いつ都合がいい?」という。「今旅行中で帰宅が7月7日の夜になる予定だ」と言った。管理会社は取り急ぎ僕の部屋の水栓をとめた。

 その後、前の記事の通り、7月4日は観光したが、心配事があると楽しめない。特に気になったのは、自室で水道の蛇口から水が溢れているかも知れないということだった。可能性のあるところは2カ所あって、一つはトイレのウォシュレットを工事した配管。もうひとつは洗濯機の水をつないでいるカップリング。どちらも僕がこの部屋に入居したあとでつないだものである。この結合部が破れる可能性はないとは言えない。

 初日の日程を終えてホテルに入ったが、心配事を抱えて7月7日まで旅行するよりも、いっそのこと帰宅して原因を調べた方が良い。それともうひとつ、翌日の予定は四国の金比羅さんだったのだが、台風4号が来ていて、高知で大雨がふり、その影響で7月5日に四国へ行く路線が2カ所くらい止まりそうだった。

 ということで旅行は中止。翌日、下関を始発で出発、昼頃に帰宅した。のぞみは小倉~新横浜を4時間半で走る。このスピードは、こういうとき非常に助かる。

 新幹線の中で、管理会社に電話をして、「急遽帰宅することにしたが、部屋に入るときに何か気をつけることはないか」と聞くと、「今日、工事屋さんが下の部屋の養生に入るので、ついでにそちらに行くように状況を伝えておく」とのことだった。

 家について、調べてみたら、自分の部屋の廊下の真ん中あたりの天井から水漏れがあって、それが廊下に染み込んでいた。管理会社にその状況を知らせた。それから下の部屋に挨拶にいったら、やはり同じあたりで水漏れがあって、水受けのバケツが置いてあった。昼過ぎに工事屋さんが来た。管理人が上の部屋に知らせて水栓を止めた。やがて水漏れは止まった。

 工事屋さんが上の部屋を調べると、台所あたりの水道の配管(床下)から漏れていたらしい。工事屋さんの処置により水漏れは止まった。やっぱり旅行を切り上げて帰宅して正解だった。対応が遅れるほど、僕の部屋と下の部屋の浸水がひどくなっていたはずである。

 そのあと工事屋さんは保険請求のために、部屋の被害状況をいろいろ調べていた。廊下だけでなく、廊下の脇の物置にも、水が染みていた。やはりプロの目は素人とは違ってよく行き届くようだ。それから修理代はマンションが団体で入っている保険から出るようだが、思ったより規模の大きい修理になりそう。

 とりあえず、自分の部屋が原因でないことがわかり、ほっとしたが、確率的にみれば、僕の部屋から漏水することだってあるので、安心ばかりしてはいられない。それから、工事屋さんによると、このマンションの漏水事故は今回が初めてなのではなく、すでに2件くらい発生しているそうだ。やはり20年を越えるとこういうことが徐々に起きてくる。こういうのはマンションの弱点だと思う。

 なお、台風4号は7月5日の夜頃に温帯低気圧に変わったらしい。

(つづく)

***
 


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リフレッシュ休暇(2)下関その2 [雑文]

 下関側から門司へ伸びる関門橋。みもすそ川のバス停で降りて海に向かうと、橋は右側にある。写真を撮ろうとすると、橋に近すぎて、画角に収まりきれない。間近で見るとすごい迫力である。
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 関門海峡を渡る交通経路は、グーグルの地図で見ると、4つあることがわかる。
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 南から北へ向かって、JR在来線、高速道路、一般道路、JR新幹線の4つであるが、このうち、橋が架かっているのは、高速道路(関門橋)だけであって、残り3つは海底トンネルである。それで、この4つの経路のどれがいつ頃出来たのか調べてみたところ・・・
1)関門鉄道トンネル(JR山陽本線)・・・1944年
2)関門国道トンネル(国道2号線)・・・1958年
3)関門橋(高速道路)・・・・・・・・・1973年
4)新関門トンネル(JR山陽新幹線)・・・1975年

 ・・・ということのようだ。一番古いものが貫通したのが、なんと戦時中。一番新しい新幹線でも1975年。4つとも意外に古い時期に完成していることに驚かされた。(注1)

 さて、上記2)の関門国道トンネルは、壇ノ浦の古戦場跡のすぐ近くを通っているが、ここのトンネルには車道に平行して人道(要するに歩道)が作られていて、歩いて渡ることができるようになっている。渡ってみた。(実はこれ、結構楽しみだったんだ)

 まずエレベーターで地下に下る。
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スタート地点
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下関と門司の境目
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門司に到着。歩いてわずか10分、僕の歩く速さから換算すると距離は860 m くらいだろうか。
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 地上にでて、下関側を眺めて考えた。この距離の近さは、海というより、大きめの川である。平家がここで源氏を迎撃したのが、なんとなく理解できる。

 源氏側が、彦島に逃げ込んだ平家をどう攻めるか、と考えたときに、取り囲んで兵糧攻めにする方法もあったと思うのだが、義経はそうしなかった。(注2)直接的な攻撃をするなら、この海峡を通って彦島を目指す。平家を陸路で攻めても、どうせ海に逃げてしまうことが屋島の合戦でわかっていた。また平家方にとっては、逆にこの一番幅の狭い壇ノ浦のあたりで、なんとしても食い止めなければならなかったのだろう。

 実際にこの地にきて、トンネルを歩いて海峡を渡ってみて、サイズを実感し、戦に関わった人の感覚が少しわかった気がする。(もちろんこれは歴史の専門家ではない素人の感じた事なので、ちゃんと勉強中の方は鵜呑みにしないでいただきたい)

 ここにトンネルや橋が作られているのも納得がいく。つまり一番狭いところにトンネルを掘り、橋を架ければ、工事が楽でコストを抑えられるのだ。壇ノ浦の古戦場と、海峡を結ぶトンネルや橋が同じところにあることになんの疑問も抱かなかったが、これは単なる偶然ではなく、地形的な理由があるということである。

 下関側のエレベーターのところに紙芝居のお姉さんがいて「耳なし芳一」をやっていた。写真は、芳一の物語が終わって平家の亡霊たちが泣いている場面。
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(注1)参考情報。他の場所に目を向けると、青函トンネルも瀬戸大橋も同じく1988年に開通だそうだ。このくらいの時代になると「わりと最近だな」という感覚になるが、1970年代となると「結構昔だ」と感じる。まあ、これは感じる人の年齢による話。

(注2)兵糧攻めは、攻められる方が苦しいのはもちろんだが、攻める側にもかなりの負担がかかる。つまり、大勢の侍を長いこと待機させれば、当然食料が必要になるし、長期に及べば、せっかく源氏方についてくれた侍たちの志気の低下も問題になってくる。そう簡単でない。戦の規模がある程度小さくならないと、この戦法は使えないと思われる。

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リフレッシュ休暇(1)下関その1 [雑文]

 僕が今の会社に就職したのは1987年だった。2012年に勤続25年になり、リフレッシュ休暇をもらった。2013年に書いた「ひぐらし大旅行」というシリーズものの記事はこのときのものだった。(注1)
今年は2022年、勤続35年でまたリフレッシュ休暇をもらうことになった。(注2)

 長い休みをもらったら旅行に行きたい。でも前回と違って、今回は両親の健康が心配で、あまり長い期間の旅行にはちょっと抵抗があった。いろいろ考えた結果、日程は3泊4日の計画にした。初日は下関。壇ノ浦の古戦場を見てみたかったのだ。

 7月4日、早朝、新横浜発6:51発ののぞみ5号にのり、11:14に小倉に到着。わずか4時間半、このスピードは驚異的である。そこから山陽本線に乗って下関へ。下関の駅からバスにのって、みもすそ川(注3)というバス停で降りるとその辺一帯が壇ノ浦の古戦場として整備されている。

 早速、源義経と平知盛の像に対面した。義経の方は八艘飛び、知盛の方は碇を抱えて入水するところを造形したようだ。二人ともやたら男前である。

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 ところで、義経の八艘飛びも、知盛の碇も、平家物語の記述とは違いがある。僕は最初、これは写本による違いなのかと思っていたが、実際はそうではなく、後世の歌舞伎や能で、そのような脚色が為されたらしい。まあ、その方がドラマチックで絵になる。

 実際に平家物語でどう書かれているか、読み返してみた。まず八艘飛びの元になったと思われる場面。ここは能登守教経(のりつね)が義経を討とうと、義経の舟に飛び乗ったところ、義経が形勢不利とみて、他の舟にひらりと飛び移ったという場面である。教経は追い切れず、源氏方の侍二人を両脇に抱えて道連れにして入水した。(本文中、判官というのが義経のこと)
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 それから、知盛が入水する場面は、平家物語の本文では、鎧を二枚重ね着して(水に浮かないようにして)沈んだということになっている。(文中、新中納言というのが知盛のこと)
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 ただし碇を抱えて入水するという脚色のヒントになったらしい場面が他にある。これは教盛(のりもり)と経盛(つねもり)が入水するシーンで、この兄弟が鎧の上に碇を背負い、一緒に海に入ったと書かれている。
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 最近フジテレビで、アニメの平家物語が放送されたが、最終回では、知盛が碇を抱えるシーンがきちんと描かれていた。(AmazonのPrime Videoで今、無料で見られる)
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(つづく)

***
(注1)興味のある方、下記URLを参照
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2013-11-27

(注2)制度としては休みを勤続35年でもらうか、または停年前1年でもらうかの二者択一になっている。どちらも内容は同じなのだが、学歴によっては勤続35年に満たないまま停年になる人がいるので、それに配慮されているらしい。

(注3) みもすそ川・・・漢字では「御裳川」と書くらしいが、ひらがな表記が公式になっている。ここの町名も「下関市みもすそ川町」という。おそらく他所から観光で訪れる人が読めなくて不便なので、ひらがな表記にしたのだろう。


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