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紙で作る多面体その2 [数学]

 このブログにたまに登場するIA子という中学生時代の同級生がいる。馬が合うので、今でもたまに連絡を取り合っている。彼女は今の感覚で言えば早婚で、23歳(注1)のときに結婚し、しかもハネムーンベビーができ、第一子を産み、ママになってしまった。妊娠中に、一回クラス会があったのだが、つわりがひどくて出られないらしいという話を聞いたのを覚えている。

 そして月日は流れ、その第一子のU子ちゃんが中学生になった頃の話である。IA子のメールでU子ちゃんの夏休みの宿題の話になった。数学で「球体を作れ」という宿題が出たという。「そんなのどうやって作ればいいんだろう」と相談を受けたので、ちょっと思うところがあって、正20面体と、切頂20面体の模型を作って送ってあげた。

 しかし今思うに、あれは球体というよりも球体に近い「多面体」である。出題は「球体を作れ」であって、これに合致した答えになっていない。あれは当時どう評価されたんだろう。気になってしまって、そのことをいきなりだがIA子に聞いてみた。(ちなみに最近はメールではなくLINE)

 すると「明日娘に会うから聞いてみる」という返事。なんとU子ちゃんの結婚式を翌日に控えていたらしい。コロナのご時世だから、ガーデンパーティー形式でやったそうだ。写真や動画を送ってくれた。親戚の小さな男の子が乾杯の音頭をとるときの挨拶は、大人顔負けのスピーチでかわいいやら感心するやら。ちなみにU子ちゃんには、中学生の頃に一回だけ会ったことがあったがすっかり大人になっていた。(そりゃそうだよね。笑)

 さて、あの多面体の評価は「はっきりした評価はよく覚えていないけれど、教室にずっと飾られていたので良いものだと思っていた」とのことだった。どうやらネガティブな思い出はないらしく、安心した。

 一つ前の記事で、ドーム形の紙工作をやったが、このときにU子ちゃんのこの宿題のいきさつを思い出し、正20面体と切頂20面体をまた作りたくなってしまった。どうもボール紙で立体を作る作業ってのは、快感やら充実感がそこそこあってクセになる。

 まず正20面体。
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次に切頂20面体。
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 正20面体と切頂20面体は一見全然違う形に見えるが、実は関係がある。正20面体の頂点のとんがりを下の写真のような線に沿ってスパッと削ぎ落とすと、そこに5角形が現れ、切頂20面体になる。「頂点を切った20面体」ということで、切頂20面体。(これ、あんまり知られていないような気がするので、ちょっと書いてみた)
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 ちなみに切頂20面体は、元々あった20個の正三角形が正六角形に変わってそのまま20面、それに加えて正五角形が12面増えるので、面の数は全部で32になる。

 球体に近い多面体を考えているときに、正○面体という名前のつくもので一番球に近いのが正20面体である。そして、これを見ていると「角を落としたらもうちょっと球に近づくんじゃないかな・・・」と、誰でも考えるのではないだろうか。実際、切頂20面体はよく転がる。この形を、皮を縫い合わせて作り、中にチューブを入れて空気を入れてパンパンに張ればサッカーボールになる。

 当時、「球体を作れ」という課題を聞いたときに、このサッカーボールの形状の由来から、正20面体と切頂20面体でいいか、と安易に考えてしまったのだ。今、改めて球体を作れと言われたら、もうちょっと違うものを作ると思う。でも今はやめておく。後の楽しみにとっておこう。

(おわり)

***
(注1)この記事を新規投稿したときは20歳と書いたのだが、記事を読んだIA子から連絡が来て、結婚したのは23歳、U子ちゃんを生んだのは24歳のときだった、とのこと。記憶のズレがあった。つまりU子ちゃんの年齢は、僕の勤続年数と同じということになる。
 この年月は人間の年齢として考えると「まだまだ若い」って思うが、勤続年数として考えると定年間際だ。いろんな意味でズッシリと「重さ」を感じる。


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紙で作る多面体その1 [数学]

 今年2021年の2月、お袋がバレンタインデーにチョコレートを送ってくれた。毎年必ず送ってくれるのだが、最近、昨年だか一昨年、来なかったので、心配して電話したら、うっかり忘れていたんだそうだ。だから、チョコレートをもらえる喜びよりも、お袋の頭がまだそこそこ働いていることに安堵する。

 ちょっと高級そうな、一口チョコの詰め合わせが入っていた。その中に一つ、目を引くものがあった。
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 ダイヤモンドとかミラーボールを思わせるような、どこかで見たような形である。食べる前に写真を撮っておいた。模型を作りたくなったのである。

 しかし、なんだか、わかるような、わからないような・・・。どうなってるんだ、この形は・・・。で、つい出来心で、ネット検索してしまったのだが、この種のドーム形は、分割の仕方によって、どんな形でも作れることがわかってしまい、まあ、そりゃそうか、と納得して、それ以上は見なかった。とにかく今回は、このチョコレートの形の正体を突き止めたいわけで、まじまじと見ていたら、これは、2段階に分けて考えるとよさそうだと気づいた。

■第1ステップ
地球儀の北半球を多面体で近似することを考える。そのとき、赤道を8分割して作る場合と、16分割して作る場合を両方作ってみる。

まずは8分割。
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次に16分割。
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 これを見ると、16分割の方は北極の方が細かすぎて作りにくく、8分割の方は赤道付近が粗すぎて球体からかけ離れていることがわかる。そこで北極付近は8分割、赤道付近は16分割という折衷を作ることを思いつく。


■第2ステップ
16分割の方に、写真の通り、青い線を引いてみる。
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 この線に沿って、出っ張りを削ぎ落とすと、それがつまり、あのチョコレートの形になる。ということで作ってみたのがこれ。
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 面白いじゃないか。プラモが完成したような満足感を味わってしまい、自分の作ったものにしばし見とれてしまった。綺麗な形だ。きっとダイヤモンドのカットの形状なんかも、いかに美しくカットするか、昔からずっと研究されているのだろうと想像する。

(つづく)
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数学思い出話6(忘れられない問題) [数学]

 前の記事で、高校時代の学校指定の問題集の話をしたが、今回は、指定ではなく自主的に買った問題集の思い出である。どういう経緯で買ったのか記憶がないのだが、たぶん入学してすぐに入った運動部(注1)を1学期でやめてしまって時間ができ、そのぶん勉強時間を増やそうとして買ったのではないかと思われる。

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 旺文社の「実力アップ 数学Ⅰ問題」というもの。この中に忘れられない問題があった。いや正確に言うと「答えのグラフの形を覚えていたが、問題の式を思い出せない」という問題。・・・何を言っているのかわからないと思うのでもう少し詳しく書くことにする。

 こんな問題があったのだ。
【問題】次の方程式のグラフを描け。
(xとyの関係式)(←この式が思い出せなかった)

 正解はこんなグラフ。
正解graph2.jpg
 数式の中には絶対値記号が含まれていて、その中が正になるか、負になるかで場合分けして考えるのだが、一部は円になっていて、一部は双曲線になっている。断点で傾きが一致して、滑らかに見えるところが、なんとも不思議な雰囲気を醸し出している。

 ちなみに当時、僕が出した答え(誤答)はこんな形。
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 計算ミスをして、正解にあと少しのところで到達できなかった悔しさはあったもの、絶対値記号を使うとこんな面白いグラフがかけるのかと感動した。悔しいやら感動するやらで、このグラフの形がいつまでも印象に残り、時折思いだしたりするので、記憶に定着してしまった。

 さて月日は流れて、つい先日。「黒大数」をヤフオクで競り落としたとき、この問題集が出品されていたのを見つけた。懐かしい。この問題集の中にあのグラフの問題があった。「どんな式だっけ」と思い、いろいろと試行錯誤して再現を試みたのだが、どうしてもあのグラフにならない。それで買ってしまったというわけである。まあ、そんなに高い買い物ではなかったし。

 さて、その問題を探してみたら、あったあった。これだ。

【問題】次の方程式のグラフを描け。
【図】あのグラフの式2.jpg
 よくこんな式を思いつくな、と当時と同じようにしばし感動。なおこの式は2次式を作るのに、3次式÷1次式の形で作っているが、1次式×1次式で作ることもできる。その場合、上記のグラフの断点が無くなる。出題者はなぜそうしなかったのか・・・。(注2)そんなことをあれこれ考えるのも楽しい。

 数学の問題をおもしろいと思ったり、それをいつまでも覚えていたりするのはある種の感性であって、これを持っている自分は数学やるのに向いているのだと思う。プロの学者になるほどの能力はなかったが、それでもそれなりに楽しめる。

 例えて言うなら野球のプレイをかっこいいとか美しいとか楽しいとか思う感性である。そういう感性を持った人は子供の頃から野球が大好きで、たとえプロになれなくても、いつまでも草野球をやっているのではないだろうか。数学でもそういう人がきっといると思う。先日10月の検定会場にいたおじさんおばさんたちは、そういう人達なのかも知れない。(注3)

 ということで検定を受けて以来、頭の中に浮かんだあれこれ、モヤモヤを、とりあえず全部書いて整理がついた。あとは楽しむのみ。


***
(注1)中学校時代に体操部に入っていたが、当時の千葉の県立高校では体操部のある学校がほとんどなかった。この頃の自分は今と違って元気一杯だったので、高校でも運動部に入りたかったが、何をやるかが問題だった。結局、中学校時代の冬の球技大会でサッカーをやっていたのを思い出して、安易な気持ちでサッカー部に入ってしまったが、これが大間違い。自分に全く向いておらず1学期で挫折した。その後2年生になって柔道部に入り、こちらは何とか3年の夏まで続けた。ただ、こちらも自分に向いていたとは言い難い。

(注2)まず、3次式÷1次式の方が、一見難しそうに見える。つまり受験生をビビらせるため。それから、1次式×1次式になると、場合分けが増えて、問題が一段複雑になるので、ちょっと簡単にするため。また分母が0になる場合をきちんと除外できるかを問うため。などなど。まあ勝手な憶測だが。

(注3)筋トレでも脳トレでもなんでもやって自分を鍛える必要があるというのは、年をとるほどに感じるが、同時に何かにつけて、やるのが億劫になってくるのも事実。苦手なことに挑戦しようとしても、モチベーションを保つのが年齢的に大変だと悟った。こうなったらもう、自分に向いていること(昔から好きだったこと)をやった方がいい。世の中には40過ぎてもまだJリーグを目指しているサッカーおじさんもいるそうだ。好きだからこそできるのだろう。



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数学思い出話5(加法定理の語呂) [数学]

(前の記事からの続き)
 N本先生は我々が高2に進級するのと同時に、転勤で他の学校に異動してしまった。そして去り際に、三角関数の加法定理を教えていった。この定理は、少なくとも我々の世代では2年生で習う内容だった。それを敢えて1年生で教えたのは、「転勤したらもうこいつらに教えられないから最期の授業で教えておこう」と思ったのだろう。

【図】加法定理の図2.jpg

 N本先生はこんな語呂合わせを教えてくれた。
1)cosの覚え方は、「コスコス マイナス サインサイン」
2)tanの覚え方は、「イチマイ タンタンぶんの タンプラスタン」
と来て、最期に
3)sinの覚え方は、「しーこ ぷらっと コーシー」
「しーこという女の子がぷらっと喫茶店に入ってコーシーを飲むところを想像しろ」という。これには笑った。普通ならsin、cos、tanの順に説明するのだろうが、あえて一番インパクトの強いsinを最後にもってきて三段落ちを効かせている。これを授業で毎年やってウケていたのだろう。

 2年生になって数学の先生がかわり(注1)、授業で正式にこの定理を習ったとき(注2)、新しい先生は特に記憶方法を教えなかった。しかし、このときクラスのみんながN本先生に教わったこの語呂を思い出したようで、あちこちでクスクスと忍び笑いが聞こえたのを覚えている。

 加法定理のsinは、「咲いたコスモス コスモス咲いた」と覚えるのがどうやら王道らしいと知ったのは、ずっと後の話。こっちの方が洗練されている。でも記憶に残るにはインパクトが必要だ。その点「しーこ ぷらっと コーシー」は十分なインパクトがあった。よくぞ教えてくれたとN本先生には感謝している。僕自身、いまだにこの覚え方で覚えているのだから。

 なおネットで調べると、こういう語呂合わせはいろいろと見つかる。下ネタまであるので、興味のある方は検索されたし。でも当時はインターネットなんか無かったからこんな教科書に載っていないコツのようなことは、先生から教わることがほぼ全てだった。

******
(注1)数学思い出話2(極限とは)に登場した、イプシロンデルタ論法を教えてくれた先生。
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2020-09-05

(注2)角αの回転を表す行列をA、角βの回転を表す行列をBとしたとき、積ABを求めると、ただちにこの定理の形が現れる。技の鮮やかさに感動した。

***
【余談】
 数学ではないが、ついでに思い出したこと。元素の周期表で、原子番号1~20番(水素~カルシウム)の覚え方は、
「水兵リーベ僕の舟、名もあるシップスクラークか」
H He Li Be B C N O F Ne Na Mg Al Si P S Cl Ar K Ca
・・・というのがあって、これは中学生で習うので、割とたくさんの人に馴染みのある語呂だと思う。高3のとき、その先の、21~36(スカンジウム~クリプトン)の覚え方をクラスの誰かがどこかから習ってきて、それが面白くてクラス中に一気に広まったことがあった。

「スコッチ暴露マン、徹子にどうせ会えんが、ゲルは明日背広着る」
Sc Ti V Cr Mn Fe Co Ni Cu Zn Ga Ge As Se Br Kr
 意味不明だし、リズムもいまいちなんだが、何かユーモラスで記憶の定着がすごくいい。化学から離れてしまった僕が今でも覚えているということは、やはりそれだけ覚えやすい、良い語呂なのだと思う。当時、これを聞いてから、その先を自分で作ってみようかと思ったが、ロクなのができず諦めた。語呂合わせというのは自分で作るより、むしろ他人が作ったクセの強いやつを強烈な印象とともに、できれば笑いとともに覚えた方が効果的だと思う。


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数学思い出話4(夢に出てくる問題集) [数学]

 高校に入学すると当然のことながら、どんな科目でも学校指定の教材を買うわけだが、数学では教科書の他に数研出版の「要点と演習」という問題集が指定された。今回はこの問題集にまつわる思い出である。下の写真は、ヤフオクに出品されていたもの。(数ⅡBと数Ⅲのみゲット)

要点と演習その1.jpg

 高校に入学して最初の定期テスト(1学期の中間テスト)で、数学の成績がどうだったかというと、自分としては予想していたよりもずっと悪かった。記憶では、7割くらいしかとれていなかったと思う。中学生の頃は9割くらいが普通だったので、これはかなりショックだった。しかもさらにショックだったのは、周囲の友人たちが僕よりもだいぶ良い成績をとっていたことだった。

 この原因は間もなくわかった。指定問題集の「要点と演習」である。これをきちんとやっていたかどうかが明暗を分けた。良い成績をとった友人たちはみんな、完璧にやっていたのに、僕は油断してあんまりやっていなかった。これに載っていた問題が、多少のアレンジはあったと思うが、ほとんどそのまま出ていたのだった。いわゆる実力テストと違って定期テストというものは、だいたいそういうものだと思う。普段の地道な努力が報われるようになっているのである。

 1年生のときの数学の担当のN本先生が授業中によく言っていた。「数学というのは解き方のパターンを覚えるという意味では暗記科目だからね」と。僕はこの言葉を、当時はあまり信用していなかった。数学の苦手な人に自信を持たせるためにそんなことを言っているように見えていたのだった。

 でも今は、この言葉の意味がよくわかる。解き方のパターンを覚えるというのは、武道に例えるなら形稽古である。乱取りや試合をやる前に、形を覚えるというのは、武道の普通の考え方だと思うし、他のスポーツでも、基礎トレーニングで何度も何度も同じ体の動きの訓練を積むものだ。N本先生が、「要点と演習」をしっかり勉強しておけばちゃんと点が取れるような問題を出した理由は、とにかく「基礎訓練を怠るな」ということを生徒の頭の中に刻み込むためだったのだろう。

 昨年、数学検定の2級を受験したときの記事で、受験の動機が、”たまに見る夢” から来たことを書いた。(注1)それがまさにこの「要点と演習」の夢なのだった。この問題集には、編集上の特徴がある。見開きの左側のページに問題が4問載っていて、これが重要例題という位置づけ。右側のページに演習問題がある。

「左側4問は重要例題である」ということを、夢の中できちんと認識している。そして「重要例題なのに、何言ってるのかぜんぜんわからない。しかも入試はもうすぐだ。これはヤバいぞ」と焦っている。そして目を覚まし、受験も大学もみんな終わって社会人になっていることを思い出して安心する。(注2)

 この問題集に対して漠然とした恐れをもっていたことは確かで、だからこそ、これが夢にでる。ならば今から、この問題集を勉強して克服すれば、恐れはなくなるだろう。しかし、そうすると、この問題集の夢をもう見なくなってしまうかもしれない。それはそれで寂しい。(注3) だからこの問題集には当面、手をつけないことにした。(つまり封印)

(なお、N本先生については余談あり。つづく)

***
(注1)昨年の2級受験の記事
「数学検定2級受験体験記」
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2019-11-14

(注2)「何言ってるのかぜんぜんわからない」と書いたが、よく考えると、夢だから視覚情報が曖昧で、つまりはボンヤリして、文字なんか読めないのである。読めない問題なら、そりゃあ、わからないに決まっている。長年気づかなかったこのアホらしい事実に、実物を手にしてようやく気づいた。

(注3)問題集とにらめっこして焦る夢は、一応悪夢ではあるのだが、それなりのスリルもあって満更悪いばかりではない。無くしてしまうのは惜しい気がする。



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数学思い出話3(黒大数) [数学]

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 数学検定の準1級合格に向けて、今度こそ心を入れ替えてちゃんと勉強しようと思ったとき、やっぱり高校3年レベルなのだから、自分が高校生の時に使っていた本で勉強したいと思った。ただし、そのためには “あの時代” の参考書をなんとかして調達しなければならない。自分の手元の高校時代の教材は、授業で使っていた教科書がかろうじて残っているだけである。

 そんな話を会社の後輩にしたところ、「今の参考書でもいいんじゃないんですか?だって、昔も今もそんなに内容は変わらないでしょう?」と言われた。その通り。この考え方は全く正しい。ただ僕の場合は普通の人と違って懐古趣味がある。昔の参考書で勉強することにこだわるのは、昔を懐かしむことに大きな楽しみがあるからで、「最近の参考書を使え」となったらこれが無くなる。ここは重要で譲れない線なのだ。

 高校時代に愛用していた数学の参考書で、研文書院の「大学への数学」という本があった。通称「黒大数」と呼ばれていた。(注1)大学受験の合格体験記で評判が良かったので選んだのだが、受験参考書だったこともあり、とにかく問題が難しかった。当時はこれを数Ⅰ、数ⅡB、数Ⅲまで全部やった(と思う)。

 この黒大数をヤフオクで買えないかなと思って検索してみたら、ちょうど僕の高校時代の課程(注2)のものが数Ⅰ~数Ⅲの3冊揃いで出品されていた。しかもかなり程度がいい。早速入札した。ところが入札者が僕の他に二人いて、熾烈な争いが起きた。どんどん値がつり上がり、挫けそうになったが、ここで負けたら次にいつ出品されるかわからない。頑張ってなんとか競り落とした。(注3)

 昔勉強していて難しいと感じた問題を、今解いたらどう感じるのだろうという素朴な疑問があったが、やってみたらやっぱり難しかった。「これ本当に昔やってたのかな」って思うくらい。数学の問題は、「数Ⅰだから簡単で数Ⅲだから難しい」とか、そういうものではない。数Ⅰだろうが、なんだろうが、ひねりようによってはいくらでも難しくなるわけで、その意味ではパズルと同じである。

 数学の勉強をすることで頭脳の老化がちょっとは食い止めることができるかも知れない。毎日1問ずつでもいいから、問題を解くのを習慣にできたらいいなと思う。(でも「言うは易し行うは難し」なんだよね)

***
(注1)東京出版から出ている「大学への数学」という同じタイトルの月刊誌があり、こちらは昔も今も受験生に愛読されている。研文書院の「大学への数学」は東京出版と区別するため、表紙の色の特徴から「黒大数」と呼ばれていた。なお研文書院は2013年に廃業したようで、オークションで値段が高騰したのは、こんな事情もあるのかも知れない。

(注2)僕の高校時代は1979年(昭和54年)4月~1982年(昭和56年)3月の3年間だった。この時代の数学のカリキュラムは1973年に改訂されたものが使われていたようだ。その後、僕が高校を卒業した1982年の新年度から、また新しい内容に変わったらしい。
 カリキュラムはこのようにして、時代により見直され改訂されていくので、学習参考書の中古品を買おうとするときはタイトルだけでなく発行年も気にする必要がある。例えば「数学Ⅰ」というタイトルは、僕らの前の世代(1960年代)からすでにあって、しかも現代(2020年)に至るまでずっと、もう60年近く続いている。しかし内容は時代によって変遷がある。

(注3)あのオークションの値の上がりっぷりを見ると、もしかして世の中には、こういう時代ごとの参考書を蒐集するマニアがいるんじゃないかと思えてきた。少なくとも僕は今、そういう禁断の領域に足を踏み出すのを自制しているところである。そもそも自分には蒐集癖があるので、気をつけないと数学の勉強があらぬ方向に行ってしまうリスクがある。


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数学検定準1級受験体験記 [数学]

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 10月の終わりに数学検定の準1級を受験してきた。結果から言ってしまうと不合格。普通、何か試験を受けても不合格になったときは、あんまりブログに書きたいと思わないのだが、今回はいろいろ感じたところがあるのでネタにすることにした。

 まず1年ほど時を遡る。昨年2級を受けたときのことである。このときはぶっつけ本番で受験した。それでも試験の直後は9割くらい取れたと思い、自信満々だった。結果として合格はしたが、得点の明細が送られてきたとき、実は計算ミスだらけで、ギリギリの合格だったことを知った。これは、準1級を受けるときは、ちょっと勉強しないとまずいかな、と思っていた。実際に受けるかどうかは別として。

 2020年が明けてコロナ騒動が始まり、集会でクラスターが発生したなどというニュースを聞くようになり、あちこちでイベントの中止が相次いだ。数学検定も、もう検定そのものが実施できるかどうかという状況になり、実際、予定されていたいくつかの検定が中止になったり別の日に振り替えられたりと、大変だったようだ。

 そんな感じだったので、今年の受験はやめた方がいいかなと思っていた。しかし、それでもやっぱり気にはなっていて、9月のはじめくらいだったか、ちょうど第2波が収束してきたのを見て、申し込みのギリギリになって受験を決意。10月に入ってから、ようやく準1級の問題集(過去問)を買ってきて解き始めた。

 そこで初めて気づいた。「あれ?なんだか様子がおかしいぞ」 問題のレベルが2級のときよりも明らかに高い。普通に考えれば当たり前なんだが、僕は「高2レベルと高3レベル、出題分野がちょっと違うだけで、問題の難易度はさほど変わらない」と勝手に思い込んでいた。これはヤバいと思ったが時すでに遅し。絶望的な状態で本番を迎えることになった。

 会場の準1級の教室にはざっと70人くらいの受験生がいたが、若い人がほとんどだった。しかも男女比は半々くらい。僕を含めて5人くらいのおじさんおばさんが混ざっている。若者が受験するのは、ごく自然なこととして理解できる。力試しもあろうし、大学受験絡みもあろう。でも僕以外のおじさん、おばさんの目的は何なんだろう。(ただしインタビューするほどのことでもない)

 本番は、なんとか答案を作ったが「これじゃあ、たぶんだめだろう」というのが率直な感想。2級のときのあの自信満々な気分とはえらい違いである。3週間後にネットで速報があって結果は案の定不合格。高校卒業後40年のブランクがあって、勉強せずになんとか合格できたのは2級までだったということである。そこから先は、もう力がなくなっているんだ、やっぱりちゃんと勉強しないとだめだったんだと、しみじみ思った。まあ勉強不足だというなら勉強すればいいわけで、まだ救いはある。

 ちなみに、過去問の問題集をやった、なんていうのは勉強した内に入らない。ああいうのは既に十分に訓練を積んでいる人が出題傾向を知ろうとして仕上げにやるものだ。僕みたいな何もやっていない人があれをやっても、せいぜい問題の難しさにびっくりして終わりである。そこで実力アップするってものではない。

 それから、これは去年も感じたことだが、こういう試験を受けるときは、手書きに慣れていないと駄目である。我々が仕事で文書を作るときは、PCのキーボードのタイピングがメインになる。図面を書くのも、マウスの操作がほとんどだ。そういう人が手書きをたまにやろうとすると、力加減がわからず、やたらと力が入ってしまって手が動かない。結局手書きで問題演習をするしかない。現役の高校生は、もちろん手書きで答案を作る訓練を積んでいる。でも社会人にとっては盲点だ。

 後日、採点の明細が送られてきた。合格点に達してはいないが、平均点は取れていた。「なんだ、あの若者の中に混じって平均点がとれているなら、自分もまだ捨てたもんじゃないな」なんて思ってしまった。不合格がショックだったので、ちょっとでも慰めになるネタを欲しがっている。いやいや平均点を取るのが目的ではないのだよ。検定協会が設定した合格ラインを越えないといけないのだ。

 さあ今度こそ、心を入れ替えよう。これからどうやって勉強するか。それは別の記事に改めて書くことにしたい。

***


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数学思い出話2(極限とは) [数学]

 高校2年生のとき、友達と熱い議論をしたことがある。数学の授業で積分を習ったときのことだった。授業でこんな話を聞いた。

 xy平面上に直線y=xがある。この直線とx軸で挟まれた領域のうち、x=0~1の間の面積Sを求めよ、と言われたらどうするか。もちろん3角形の面積の公式の、底辺×高さ÷2を計算すれば、小学生でもS=1/2(=0.5)と答えは出てしまうのだが、そこを敢えて、積分法的な考え方をしてみる。

 0から1の間をn等分して、短冊をn個作り、この面積の合計を考える。短冊の上の方がギザギザの階段状になっているから、本来求めたい三角形の面積よりも大きくなる。そこで、この分割数をどんどん大きくしていったらどうなるか。

アニメ.gif

 横幅と高さがともに1/nの三角形の面積は、1/n×1/n×1/2。これがn個あるので、ギザギザの面積合計は、1/2nになる。(これは短冊の面積ではなく、短冊の先端のギザギザの面積)(注4)そうすると、短冊の面積の合計S(図の青い部分)は、S=0.5+1/2n となる。

n=10 なら、S=0.55
n=50 なら、S=0.51
n=100なら、S=0.505
n=10000(1万)ならS=0.50005
n=100000000(1億)ならS=0.500000005

・・・というふうに、どんどん計算値が0.5に近づいていく。だから分割数nをどんどん大きくしていけば面積は1/2と求まるだろう、という理屈である。

 授業が終わったあと、友人のA君が、「nをどんどん大きくしても、結局ギザギザは無くならないんだから面積は1/2にはならないよな」と言った。僕は、「いやギザギザは無くなるだろう。だってギザギザが有るというのは、nが1万とか1億とか、そういう有限の数を考えているからだ。無限大なんだからギザギザは無くなる。だから1/2になる」と、自分の理解した考えを話した。でもA君はやっぱりおかしいと言い、僕の説明に納得しなかった。

 結論が出ないので、じゃあ先生に聞いてみようということになり、担当のW先生のいる職員室に押しかけた。議論を一通り説明し、「どちらの言ってることが正しいのでしょうか」と聞いた。するとW先生は「結論から言うとA君が正しい。ギザギザは無くならない」と答えた。が~~~ん。ものすごいショックだった。「え~~? ホントですか?」と、思わず聞き返した。

 そのときW先生は、だいたい次のような説明をしてくれた。(ちょっと脚色あり)
「Pさんが地面に杭を打ち、その周りに柵を作って誰も杭に近づけないようにする。Qさんがその柵を跳び越えて中に侵入する。Pさんは、杭に近づかれないように、さらに小さな柵を作る。するとQさんはその柵も跳び越えて中に侵入してしまう。Pさんがどんなに小さな柵をつくっても、Qさんはそれを飛び越えて杭にどんどん接近してしまう。極限値とはそういうものだ」(注1)

 当時、普段から数学の成績はA君よりも僕の方が良かったし、議論しているときも、自分が正しいという自信があって、「お前、馬鹿じゃねえの?」ってくらいの勢いでしゃべっていたので、このときはショックでしばらく立ち直れなかった。その後、自分を納得させるためにいろいろ考え、結論めいたものをひねりだすのに、何日かかかったと思う。僕の出した結論は、下記のようなものだった。

「何かの値を求めるときに、四則演算で算出する場合もあるが、極限値として求める場合もある。この三角形の面積の例で言うなら、nを無限大にしたときにSが収束していく目標の値を極限操作によって “知る” ことができ、それが求める値である。目標の値は1/2であるから面積S=1/2」 ・・・この結論を出したあとは(正しいか間違っているかはさておき)頭の中が非常にすっきりした。(注2)

 今思えば、A君の説の問題点は、nを有限の値で四則演算しただけだから1/2には当然ならないのであり(そもそもA君はそこがわからんと言っていたのであり)、僕の説の問題点は、 “無限大” という具体的な数字があるように錯覚し、それを式に代入して無理矢理1/2にしていたということになる。A君の言い分は、正しい論理にあとひと押しが足らないだけだが、僕の言っていることは考え方そのものに根本的な問題があった。W先生が「A君の方が正しい」と言ったのはそういう意味だったのだろう。(注3)

 それにしてもこのことをはっきり覚えているのは、A君と議論して負けたことが、ものすごく悔しくて、何度も思い出したからである。しかし、そもそも議論というのは、正しい結論を導くためにするもので、これを勝ち負けの次元でとらえるのはガキの証拠である。その後、僕は議論するときは、努めて紳士的にするようになった。人間として一皮剥けた出来事だったと思う。


***
(注1)W先生のこの説明が、いわゆるε-δ論法とか、ε-N論法と呼ばれるものだと知ったのは、高校を卒業したあとの話。(専門性が高く高校では教えない)

(注2)僕の個人的な考えだが、A君の考え方は、「積分法による計算は近似値の計算である」と誤解するリスクがあると思う。実際にそういう誤解をしている別の友人がいたので。そういう誤解をすることに比べたら、僕の「ギザギザは無くなる」という認識の方がまだマシだろう。少なくとも真の値であることは理解しているのだから。

(注3)下記の式は、それぞれの説を数式で表したもの。
(1)・・・極限値を表した式(正しい式)
(2)・・・A君説「分割を1億にしても1/2にならないではないか」
(3)・・・ひぐらし説「1億とかそんな有限の数じゃないよ。∞だよ」
数式2.jpg

(注4) 2021年3月14日追記
 この1/2nというのは、ギザギザの所だけの計算になっているが、読んだ人から「短冊の面積として求めないとわかりにくい」という指摘があったので追記する。
短冊は、1番目からn番目まで、全部でn個ある。
全ての短冊は、幅は同じで1/n
高さは、1番目が1/n、2番目が 2/n 、3番目が 3/n ・・・・n番目がn/n(=1)
だから面積は、
追記 短冊の面積.jpg


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数学思い出話(二次方程式とかラプラス変換とか) [数学]

(リベンジを待つ書物たち)

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***
 平家物語の記事で、余談扱いにしようかと思った話があったのだが、歴史の話から完全に離れてしまうので、独立させた方がいいと思って別記事にした。構造化思考の続きの数学にまつわる思い出話である。コロナ禍で引き籠もり生活をしていると、いろいろなことを考えてしまうもので。

***
 中3のときの数学の授業で二次方程式の解き方を習った。
A)因数分解による解き方
B)平方完成による解き方
C)解の公式による解き方
 3通りの解き方を一通り説明したK先生が、この3つの中でどれが好きか、とクラスのみんなに聞いた。すると解の公式に手を挙げた人が大多数だった。僕は平方完成に手を挙げたが、これに手を挙げたのは僕の他に1人か2人だった。

 二次方程式の解法の理論のベースになっているのは平方完成という式変形の技術であり、解の公式はこの理論の結論として出てくるものである。理論がわかっていれば公式を記憶する必要はないが、記憶すれば時短につながる。それから因数分解による方法は上記2つとは別系統の理論で、綺麗に分解できればそれが一番シンプルだが、そうでなければ使えない。これら3つはそもそも好き嫌いの問題ではなく、状況に応じて臨機応変に使い分けるものである。K先生のあのアンケートの意図はなんだったのだろう。

 僕は公式の丸暗記が論理の空白(ブラックボックス)に見えて気持ち悪かったので、習いたての頃はいちいち平方完成して解いていた。一方、公式が一番人気だったのは、式に係数を当てはめるだけ、という手軽さが受けたのだと思う。この人達は論理のブラックボックス化をこの時すでに受け入れていたことになる。というか数学が苦手な場合はそうせざるを得なかったということもあろう。

 さて、時は流れて・・・。(高校は省略)大学に入って専門科目が忙しくなった3年生の頃の話である。僕の専攻は機械工学で、そのときは、自動制御理論の授業で、微分方程式を解くのに使われる「ラプラス変換」という方法を習っていた。

 これは、微分方程式に ”ある変換” を施して、微分や積分を、掛け算、割り算に変えてしまう方法である。掛け算、割り算の方程式なら簡単に解ける。そうやって解いたら、今度は ”逆変換” してもとに戻す。するとあら不思議、微分方程式が解けている。単なる演算だと割り切れば話は簡単で、先人の知恵とはすごいものだと感心する。

 これはもともと、イギリスのヘビサイドという電気技師が発見した方法(1880年頃)で、最初は「ヘビサイドの演算子法」と呼ばれていたが、なぜそうやると解けるのかを発見者自身がきちんと説明できず、「なんかよくわかんねーけど解けるならいいじゃん」というものだったらしい。

 厳密さを欠くことを指摘されたときのヘビサイドは「私は消化のプロセスを知らないからと言って食事をしないわけではない」と答えたそうだ。(名言だ。かっこいい。)その後、この方法論は研究が進み、ヘビサイドの時代より100年も前にラプラスが書いた論文の研究により厳密に証明され、「ラプラス変換」として広く定着した。(注1)

 かくして消化のプロセスを知らない人でも、食事を安心してできるようになったわけだが、これを数学的に厳密に理解しようとすると、かなり難解な領域に踏み込まなければならなくなる。機械工学科の教育カリキュラムはそこに時間をかけないようになっていた。つまり応用方法は学んだが、数学的な理論を学ぶことはなかった。ちょうど中3のときの授業で、二次方程式の解の公式の結果だけ示し、途中経過の説明を一切省いてしまうことに相当する。

 大学で理工系の学問を専攻しようとする学生は普通、高校までの数学で、ブラックボックスが残っていることはない。残っていたら厳しい受験戦争を戦えない。みんな真面目に勉強して隙を作らないようにする。つまり、”わからないことをわからないままにしておく”という思考方法に慣れていない。

 そこへもってきて、ラプラス変換である。教える側は結果だけ使わせようとするが、学生は、高校を卒業するまで上記したように教育されているから、全部クリアにしようとする。僕自身がそうだったし、友人たちもみんな「なんだこれは」と戸惑っていた。僕は一度、独学でここを攻略しようとチャレンジしたこともあったが、前提として知らなければならないことが多すぎて諦めた。とてもやってられない。当時の仲間がこれをやろうとしても、ほとんどが立ち往生して進めなくなっていたのではなかろうか。

 そのときのある先生の指導がかっこよかった。ズバリ「わからないことがあるなら、それを構造化しておきなさい」・・・この一言がすべてを物語っている。普通の人なら「わからないことがあるなら、しっかり勉強しなさい」というだろうが、もはやそういうレベルの話ではないのだ。ただ、この言葉の意味を僕が大学生の頃にきちんと理解していたとは言い難い。「ラプラス変換てわけわかんね~~」とずっとモヤモヤしていた。まあ卒業に必要な単位はなんとか取れたけど。

 先生がもっと直接的に「ラプラス変換は数学的厳密さを求めず結果だけ使え」と言わなかったのは、「勉強するのは自由だから余力があれば勉強してみよ」という含みを残していたのだろう。僕は卒業してから、一度思い出して勉強してみようとしたがやっぱりだめだった。それ以来ずっとブラックボックスのままである。(いや、ここをブラックボックスのままにしておくのは機械系専攻の人間としては普通なんだが)

 コロナ騒動でお盆休みに引きこもり生活をしていたら、かつて挫折したことが懐かしくなってしまい、昔買い集めた文献を書棚から引っ張り出してパラパラとめくってみた。そしたら完全に理解するだけの自信はないが、今度はブラックボックスがどこなのかを特定して、しかもそれをかなり小さくまとめられそうな気がしてきた。

 今は「わけわかんねえ」とか「挫折した」とか、そんな説明しかできないが、今度は「ここがわからないけどそれ以外はわかる」と言えそうな気がする。それができたらそれはすごい進歩だ。またちょっとチャレンジしたいな、なんて思い始めたところである。こういう前向きな考え事が出来るなら、引きこもり生活も悪くはないと思う。

***
(注1)自動車とか家電製品を見ればわかるとおり、我々が仕組みを知らないまま使っているものは山ほどある。だったらラプラス変換だって、仕組みを知らない人が道具として割り切って使ってもおかしいことはない。ただ正体が解明される前に、何の疑いもなく使うっていうのはやはりリスクがあると思う。ヘビサイドはよほど自信があったということなのだろうか。

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