定年で考えたこと [雑文]
2023年5月末で定年になった。6月からは再雇用して貰って、引き続き同じ会社で働いている。年金が支給されるのは65歳なので、うちの会社では再雇用でプラス5年働く人は多い。よその会社のことは知らないが、たぶん似たようなものなのだろう。
定年になるとお金のことを考える機会が増える。よく聞く話で、「老後資金は、公的年金の他に2000万円必要です」という説。この説の根拠をあまりよく知らなかったので、いつもお世話になっている生命保険のお姉さんに聞いてみた。
この話は令和元年6月の金融庁の報告書(注1)が元になっているらしい。内容としては、夫婦二人の世帯で年金暮らしをしたときに毎月5万円の赤字が生じ、これが30年続くと1800万円になる。だから約2000万円用意しておいた方がよい、というものらしい。
ならば、たとえば赤字が7万円出る人は30年累積すれば2520万円になるわけで、2000万円では足りないということになる。一方65歳から30年たてば95歳だから、そろそろお迎えが来る頃であって「30年」という数字は妥当だと思われる。いずれにせよ自分が年金をいくらもらえるのか、いくらの赤字がでるのか、何歳まで生きるのか、といった数字は個人によってばらつきがでるものなので、そういう見積を一人一人がすべきものなのだ。意味がわかれば漠然とした不安はなくなる。
さて。少し話は変わるが、電車の中だったかネットの広告だったか忘れたが、「DIE WITH ZERO」(注2)という本があることを知った。このタイトルは日本語にすれば「ゼロで死ね」と言う意味なのだが、読んでみて大変考えさせられ刺激を受けた。一言で言うなら「死ぬまでにお金を計画的に使い切って人生を楽しめ」ということだ。
で、そのように言われたときにいろいろな疑問がわくもので、まずは「お金をみんな使ってしまって、そのあとで病気になったらどうするんだ、万一のときのために蓄えておかなきゃ駄目だろう」という疑問、あるいは「お金があれば子供のために残しておいてあげられるではないか」という疑問、などなど。この本は、そうした疑問のひとつひとつに丁寧に答えている。要するに漠然と蓄え、漠然と使い、漠然と残すのではなく、これらすべてに計画性を持てということなのだ。従来型の価値観を書き換えるだけの、きちんとした説得力のある考え方だと思った。
その中でひとつ大いに刺激になったのは、お金を使うタイミングを誤るな、という話。若いときにしか出来ないことというのがある。例えば海外旅行とかスポーツのような体力を使うことは、あまり年をとってしまうと出来なくなってしまう。今60歳で出来ることが、70歳、80歳、90歳になってからはたして出来るのか、という視点が必要になってくる。
寿命が尽きるときに冥土に持って行けるのは、お金ではなく思い出である。そして思い出は経験をしないと得られない。お金を使えば経験できたはずのことが、お金を大切にし過ぎるとできなくなってしまう。死を迎えるときに、いろいろなことを思い出して、楽しい人生だったと思うのか。お金をたくさん持っているのに、あれをすれば良かった、これをすれば良かったと悔やむのか。
「人生で一度は富士山に登りたい」とか「一度でいいから国技館に行って相撲を観戦したい」とか「若い頃からの憧れだったハーレーダビッドソンのバイクに乗りたい」とか。身近な人と話をしていれば、こんな話はいくらも出てくるものだ。振り返って自分のことを考えたとき、僕だって定年になったらあれをやりたいこれもやりたいと、考えていたことはたくさんある。でもそこに優先度をつけなければならないことを自覚していなかった。人に言われてみれば「そりゃそうだ」と思うようなことも、いざ自分がその立場に立ってみないと実感できないことがあるものだ。
さあ、では自分のやりたいことのうちの「どれ」を先ずやるのか。まあ「あのへん」だろうな。なんて定年から8ヶ月を経た今、考えている。・・・と言うか、もう8ヶ月も経ってしまった。ぼやぼやしている場合ではない。時間が経過する速さがどんどん速くなっていく。このスピードは恐ろしいくらいだ。
***
(注1)金融庁 金融審議会 市場ワーキンググループ報告書「高齢社会における資産形成・管理」 この報告書は公表されているので、検索すれば閲覧できる。
(注2)ビル・パーキンス著 小島修訳 「DIE WITH ZERO」 ダイヤモンド社
定年になるとお金のことを考える機会が増える。よく聞く話で、「老後資金は、公的年金の他に2000万円必要です」という説。この説の根拠をあまりよく知らなかったので、いつもお世話になっている生命保険のお姉さんに聞いてみた。
この話は令和元年6月の金融庁の報告書(注1)が元になっているらしい。内容としては、夫婦二人の世帯で年金暮らしをしたときに毎月5万円の赤字が生じ、これが30年続くと1800万円になる。だから約2000万円用意しておいた方がよい、というものらしい。
ならば、たとえば赤字が7万円出る人は30年累積すれば2520万円になるわけで、2000万円では足りないということになる。一方65歳から30年たてば95歳だから、そろそろお迎えが来る頃であって「30年」という数字は妥当だと思われる。いずれにせよ自分が年金をいくらもらえるのか、いくらの赤字がでるのか、何歳まで生きるのか、といった数字は個人によってばらつきがでるものなので、そういう見積を一人一人がすべきものなのだ。意味がわかれば漠然とした不安はなくなる。
さて。少し話は変わるが、電車の中だったかネットの広告だったか忘れたが、「DIE WITH ZERO」(注2)という本があることを知った。このタイトルは日本語にすれば「ゼロで死ね」と言う意味なのだが、読んでみて大変考えさせられ刺激を受けた。一言で言うなら「死ぬまでにお金を計画的に使い切って人生を楽しめ」ということだ。
で、そのように言われたときにいろいろな疑問がわくもので、まずは「お金をみんな使ってしまって、そのあとで病気になったらどうするんだ、万一のときのために蓄えておかなきゃ駄目だろう」という疑問、あるいは「お金があれば子供のために残しておいてあげられるではないか」という疑問、などなど。この本は、そうした疑問のひとつひとつに丁寧に答えている。要するに漠然と蓄え、漠然と使い、漠然と残すのではなく、これらすべてに計画性を持てということなのだ。従来型の価値観を書き換えるだけの、きちんとした説得力のある考え方だと思った。
その中でひとつ大いに刺激になったのは、お金を使うタイミングを誤るな、という話。若いときにしか出来ないことというのがある。例えば海外旅行とかスポーツのような体力を使うことは、あまり年をとってしまうと出来なくなってしまう。今60歳で出来ることが、70歳、80歳、90歳になってからはたして出来るのか、という視点が必要になってくる。
寿命が尽きるときに冥土に持って行けるのは、お金ではなく思い出である。そして思い出は経験をしないと得られない。お金を使えば経験できたはずのことが、お金を大切にし過ぎるとできなくなってしまう。死を迎えるときに、いろいろなことを思い出して、楽しい人生だったと思うのか。お金をたくさん持っているのに、あれをすれば良かった、これをすれば良かったと悔やむのか。
「人生で一度は富士山に登りたい」とか「一度でいいから国技館に行って相撲を観戦したい」とか「若い頃からの憧れだったハーレーダビッドソンのバイクに乗りたい」とか。身近な人と話をしていれば、こんな話はいくらも出てくるものだ。振り返って自分のことを考えたとき、僕だって定年になったらあれをやりたいこれもやりたいと、考えていたことはたくさんある。でもそこに優先度をつけなければならないことを自覚していなかった。人に言われてみれば「そりゃそうだ」と思うようなことも、いざ自分がその立場に立ってみないと実感できないことがあるものだ。
さあ、では自分のやりたいことのうちの「どれ」を先ずやるのか。まあ「あのへん」だろうな。なんて定年から8ヶ月を経た今、考えている。・・・と言うか、もう8ヶ月も経ってしまった。ぼやぼやしている場合ではない。時間が経過する速さがどんどん速くなっていく。このスピードは恐ろしいくらいだ。
***
(注1)金融庁 金融審議会 市場ワーキンググループ報告書「高齢社会における資産形成・管理」 この報告書は公表されているので、検索すれば閲覧できる。
(注2)ビル・パーキンス著 小島修訳 「DIE WITH ZERO」 ダイヤモンド社
マンションのリフォームその2 [雑文]
(つづき)
2年くらい前だったか、近くの部屋の人がリフォームでユニットバスを交換したことがあり、その工事を請け負った業者が僕の部屋にも、「交換しませんか」と売り込みに来たことがあった。セールスマンは「マンションも20年過ぎると、配管からの漏水が起りがちになります。そうならない内にいかがでしょうか」と言う。「私は一人暮らしですから一般家庭に比べて使用頻度が低いからそんなに傷まないと思いますよ」と言ったら、「いや、銅管は使用頻度よりも経年で傷むんですよ」と言っていた。
そのときは「そんなものかなあ」と思って、適当にやり過ごしてしまったが、今回、こういうことが起きてみて、あのセールスマンの言っていたことは正しかったんだな、と思った。あの売り込みのあと、僕はぼんやりと「定年になったら退職金を使ってリフォームしようか」と考えていたのだった。僕の定年は2023年5月だ。というわけで、これを4ヶ月前倒しにして、やることにした。
ちなみにこの「ついでに管を交換する」という考えは、管理会社の工事部の人も賛成で「これから先、漏れるか漏れないかは賭けであり、『漏れませんように』と祈りながら生活するより、最新の技術で信頼性の上がった管材に交換した方がよい」との考えだった。
そういうわけで、工事屋さんが、「では最寄りのTOTOのショールームにいって仕様を決めてきてください」というので、厚木のショールームに行った。いままでこういうところに行く機会がなく、今回初めて行ったが、実に楽しいところだった。トイレ、洗面台、キッチンなど家庭の水回り機器を、実際に見て選ぶことができる。説明員の対応も大変わかりやすかった。
仕様が決まり、工事は2023年が明けて1月10日~31日の約3週間。この期間は家具をかたづけないといけないので、最寄りの東横インに仮住まいをすることになった。とは言っても、仕事が終わってホテルに直行では何もすることがない。幸いにして書斎だけには入れるようにしておいたので、普通に帰宅し、寝るときだけホテルに行く生活をすることにした。日中は工事屋さんが工事をし、夕方、作業が終わった頃に僕が帰宅するので、工事の進捗がよくわかって面白かったし、床下の配管やら、ユニットバスの裏側の構造など大変勉強になった。
工事は予定通り終わった。漏水のあった、僕の上のフロアの人との示談書の取り交わしも無事に終わった。入居して何が一番嬉しかったって、漏水事故のおかげで、図らずもリフォームが出来てしまい、家がきれいになったこと。それから、管の交換とユニットバスは自分の持ち出しで工事したが、新しい浴室は実に快適で、毎日風呂に入るのが楽しみで仕方がない。僕はもともと、風呂なんか、体が汚れるから仕方なしに入っているだけで、できることなら入らずに済ませたいと思っていた。それがいまでは、入浴剤を入れて温泉気分に浸って入るのが楽しみになっている。
ということで、きれいになった浴室をお見せしたい。(壁や床を見せてもさほど面白い絵にならないので)
まず全景。
それから、この最新素材の床。乾燥が速く、足を踏み入れると冷たくないし、しかも柔らかい。「ほっカラリ床」という物だそうだ。特に、乾燥が速いのは非常によい。風呂を使っていないときに、浴室に入ることってよくあるが、そのときに、いちいち足を濡らすことがない。なお、傷つきやすい弱点があるそうで、風呂椅子など床に置く物は、足の尖ったものを置かないなどの注意が必要になる。それさえ守っていれば、実に快適である。
それから、排水口に独自の工夫がある。ヘアキャッチャーというもので、中央のまるい窪みに抜け毛が入り、これが水流で転がって毛玉ができる。丸くなった毛の固まりは水の流れで洗われているので、汚くならない。垢もほとんど溜まらない。毛玉が大きくなったら、ポイっと捨てればよい。大変良いアイデアだ。発明した人に拍手を送りたい。(注1)
(注1)僕の場合、男性で髪が短いこともあり、あまり毛玉が大きく成長してくれない。でもTOTOのショールームで見せてもらった毛玉のサンプルは、直径3~4センチくらいの球形だった。このサンプルはもしかしたら、長い髪の女性が3人くらいで生活している家庭(母親と娘2人とか)のものではなかろうか、などと余計な想像をしたりする。(笑)
2年くらい前だったか、近くの部屋の人がリフォームでユニットバスを交換したことがあり、その工事を請け負った業者が僕の部屋にも、「交換しませんか」と売り込みに来たことがあった。セールスマンは「マンションも20年過ぎると、配管からの漏水が起りがちになります。そうならない内にいかがでしょうか」と言う。「私は一人暮らしですから一般家庭に比べて使用頻度が低いからそんなに傷まないと思いますよ」と言ったら、「いや、銅管は使用頻度よりも経年で傷むんですよ」と言っていた。
そのときは「そんなものかなあ」と思って、適当にやり過ごしてしまったが、今回、こういうことが起きてみて、あのセールスマンの言っていたことは正しかったんだな、と思った。あの売り込みのあと、僕はぼんやりと「定年になったら退職金を使ってリフォームしようか」と考えていたのだった。僕の定年は2023年5月だ。というわけで、これを4ヶ月前倒しにして、やることにした。
ちなみにこの「ついでに管を交換する」という考えは、管理会社の工事部の人も賛成で「これから先、漏れるか漏れないかは賭けであり、『漏れませんように』と祈りながら生活するより、最新の技術で信頼性の上がった管材に交換した方がよい」との考えだった。
そういうわけで、工事屋さんが、「では最寄りのTOTOのショールームにいって仕様を決めてきてください」というので、厚木のショールームに行った。いままでこういうところに行く機会がなく、今回初めて行ったが、実に楽しいところだった。トイレ、洗面台、キッチンなど家庭の水回り機器を、実際に見て選ぶことができる。説明員の対応も大変わかりやすかった。
仕様が決まり、工事は2023年が明けて1月10日~31日の約3週間。この期間は家具をかたづけないといけないので、最寄りの東横インに仮住まいをすることになった。とは言っても、仕事が終わってホテルに直行では何もすることがない。幸いにして書斎だけには入れるようにしておいたので、普通に帰宅し、寝るときだけホテルに行く生活をすることにした。日中は工事屋さんが工事をし、夕方、作業が終わった頃に僕が帰宅するので、工事の進捗がよくわかって面白かったし、床下の配管やら、ユニットバスの裏側の構造など大変勉強になった。
工事は予定通り終わった。漏水のあった、僕の上のフロアの人との示談書の取り交わしも無事に終わった。入居して何が一番嬉しかったって、漏水事故のおかげで、図らずもリフォームが出来てしまい、家がきれいになったこと。それから、管の交換とユニットバスは自分の持ち出しで工事したが、新しい浴室は実に快適で、毎日風呂に入るのが楽しみで仕方がない。僕はもともと、風呂なんか、体が汚れるから仕方なしに入っているだけで、できることなら入らずに済ませたいと思っていた。それがいまでは、入浴剤を入れて温泉気分に浸って入るのが楽しみになっている。
ということで、きれいになった浴室をお見せしたい。(壁や床を見せてもさほど面白い絵にならないので)
まず全景。
それから、この最新素材の床。乾燥が速く、足を踏み入れると冷たくないし、しかも柔らかい。「ほっカラリ床」という物だそうだ。特に、乾燥が速いのは非常によい。風呂を使っていないときに、浴室に入ることってよくあるが、そのときに、いちいち足を濡らすことがない。なお、傷つきやすい弱点があるそうで、風呂椅子など床に置く物は、足の尖ったものを置かないなどの注意が必要になる。それさえ守っていれば、実に快適である。
それから、排水口に独自の工夫がある。ヘアキャッチャーというもので、中央のまるい窪みに抜け毛が入り、これが水流で転がって毛玉ができる。丸くなった毛の固まりは水の流れで洗われているので、汚くならない。垢もほとんど溜まらない。毛玉が大きくなったら、ポイっと捨てればよい。大変良いアイデアだ。発明した人に拍手を送りたい。(注1)
(注1)僕の場合、男性で髪が短いこともあり、あまり毛玉が大きく成長してくれない。でもTOTOのショールームで見せてもらった毛玉のサンプルは、直径3~4センチくらいの球形だった。このサンプルはもしかしたら、長い髪の女性が3人くらいで生活している家庭(母親と娘2人とか)のものではなかろうか、などと余計な想像をしたりする。(笑)
マンションのリフォーム [雑文]
最近、ブログの更新が滞っているが、どうしても書いておかないといけないことがあって、半年前から気になっていた。というのは、1年前(2022年7月)に起きた漏水事故(注1)の対応のリフォームが、今年2023年1月末に終了したのだった。
そもそも、マンションには、占有部と共有部というのがあって、共有部(ベランダとか廊下など)のトラブル対応は、全体の保険で対応するのが原則である。しかし今回起った事故は占有部(室内)なので、本来ならば個人が入っている損害保険を使って修理対応するというのがふつうだ。
しかし同じくらいの時期に同じような事故が、僕の案件の前に、3件ほど起きていた。つまりこのマンションも建ってからそれなりの年月が経ったということである。しかもそのうちの一件が損害保険に入っていないという、なんとも不用心な人だったらしい。支払いで揉め事が起るというのは不幸なことだし銅管の寿命(注2)は、ここの住人全体が共通して抱えるリスクだということもあり、マンション全体の保険で対応することになった。
管理会社の工事部が、リフォーム業者に見積もりを依頼し、その金額を保険会社に提示したところ、それを少し削られて、そこから交渉が始まって・・・とやっているうちに、結構な時間がかかってしまったようだ。その間、待っている方は、ずいぶんと気を揉んだ。
見積もりが出たのが10月末で、値段は○○○(3ケタ)万円。これを「現金で受け取る」(注3)か、それとも「現金の授受なしで工事をする」か、どちらかを選べということだったので、迷わず工事を選んだ。そしてその打ち合わせを11月中旬にやったとき、ひとつ相談をした。
今回の見積もりは、被害のあったところを修繕する工事(主にフローリングと壁紙の張り替え)のためのものである。それ以外は入っていない。しかし銅管の漏れがあちこちで起きているということは、次は自分のところで漏れが起きるかもしれない。そうなれば下の階の人がまた被害にあうことになる。そこで「今回、床を張り替えるならば、その機会に床下を這っている管をすべて新しくしてもらえないか。追加料金はどのくらいかかるのだろうか」と相談した。
すると、「温水管がつながっているのは、キッチン、洗面台、洗濯スペース、浴室の4つである。このうち最初の3つは、床を剥がすだけで工事できるが、浴室はユニットバスの壁を剥がさないとできない。壁を剥がすとはつまり壊すことである。結局、管の総交換をするなら、ユニットバスの交換までやらないと意味が無い」との見解をもらった。そのためにだいたいいくらくらいかかるのかも教えてもらった。・・・ということでしばらく考え込んでしまった。(つづく)
*****
(注1)リフレッシュ休暇(3)水漏れ事故
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2022-07-20
4階の部屋から漏れて、3階の僕の部屋を通って、下の階まで浸水した。
(注2)水の管は鉄管、お湯の管は銅管、というのが、このマンションが新築された1999年当時のごく一般的な工法だったらしい。しかし、この銅管が経年で破れてしまう事故が、世の中全体で多く、その後改良され、今ではより寿命の長い樹脂製の管が主流になっているという。
(注3)管理会社の工事部に依頼せず、それ以外の好きな工事業者に頼みたい場合に「現金で受け取る」を選択するようだ。
そもそも、マンションには、占有部と共有部というのがあって、共有部(ベランダとか廊下など)のトラブル対応は、全体の保険で対応するのが原則である。しかし今回起った事故は占有部(室内)なので、本来ならば個人が入っている損害保険を使って修理対応するというのがふつうだ。
しかし同じくらいの時期に同じような事故が、僕の案件の前に、3件ほど起きていた。つまりこのマンションも建ってからそれなりの年月が経ったということである。しかもそのうちの一件が損害保険に入っていないという、なんとも不用心な人だったらしい。支払いで揉め事が起るというのは不幸なことだし銅管の寿命(注2)は、ここの住人全体が共通して抱えるリスクだということもあり、マンション全体の保険で対応することになった。
管理会社の工事部が、リフォーム業者に見積もりを依頼し、その金額を保険会社に提示したところ、それを少し削られて、そこから交渉が始まって・・・とやっているうちに、結構な時間がかかってしまったようだ。その間、待っている方は、ずいぶんと気を揉んだ。
見積もりが出たのが10月末で、値段は○○○(3ケタ)万円。これを「現金で受け取る」(注3)か、それとも「現金の授受なしで工事をする」か、どちらかを選べということだったので、迷わず工事を選んだ。そしてその打ち合わせを11月中旬にやったとき、ひとつ相談をした。
今回の見積もりは、被害のあったところを修繕する工事(主にフローリングと壁紙の張り替え)のためのものである。それ以外は入っていない。しかし銅管の漏れがあちこちで起きているということは、次は自分のところで漏れが起きるかもしれない。そうなれば下の階の人がまた被害にあうことになる。そこで「今回、床を張り替えるならば、その機会に床下を這っている管をすべて新しくしてもらえないか。追加料金はどのくらいかかるのだろうか」と相談した。
すると、「温水管がつながっているのは、キッチン、洗面台、洗濯スペース、浴室の4つである。このうち最初の3つは、床を剥がすだけで工事できるが、浴室はユニットバスの壁を剥がさないとできない。壁を剥がすとはつまり壊すことである。結局、管の総交換をするなら、ユニットバスの交換までやらないと意味が無い」との見解をもらった。そのためにだいたいいくらくらいかかるのかも教えてもらった。・・・ということでしばらく考え込んでしまった。(つづく)
*****
(注1)リフレッシュ休暇(3)水漏れ事故
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2022-07-20
4階の部屋から漏れて、3階の僕の部屋を通って、下の階まで浸水した。
(注2)水の管は鉄管、お湯の管は銅管、というのが、このマンションが新築された1999年当時のごく一般的な工法だったらしい。しかし、この銅管が経年で破れてしまう事故が、世の中全体で多く、その後改良され、今ではより寿命の長い樹脂製の管が主流になっているという。
(注3)管理会社の工事部に依頼せず、それ以外の好きな工事業者に頼みたい場合に「現金で受け取る」を選択するようだ。
姪の結婚式その2(余談) [雑文]
(つづき)
姪は、披露宴の席札を透明レジンの埋め込みで作ってくれた。招待客ひとりひとりの個性に合わせて、中にあしらう物を変えてある。これを35人分、すべて違うデザインで作ったというから大した物だ。心のこもったもてなしに感謝したい。
下は姉のもの。メインの皿の上のナプキンの上に置いてあった。
そしてこちらは僕のもの。機械設計のエンジニアということで歯車がちりばめられている。確かに機械をシンボリックにとらえようとすれば、思い浮かぶのはガチャガチャ動く歯車機構だ。
***
結婚式とか披露宴は、10年位前に会社の後輩に呼ばれて出たのが最後で、それ以来無かった。今回久々に出て、ひとつ気づいたというか、うすうす気づいていたが改めて認識したことがある。それは招待客たちが使っているカメラのことで、余談としてこのことをちょっと書いておきたい。(姪の結婚の話から、だいぶ離れるが、関連記事として)
下の写真はウエディングケーキのカットのシーンだが、周りの人が使っているカメラが写っている。一番右の人はプロのカメラマンで、デジタル一眼レフ。一番左にいる女性も形からデジタル一眼レフとわかる。中央寄りの女性ふたりはスマホを使っている。スマホを使うのが現在の一番一般的なやり方のようだ。
かく言う僕は、コンパクトデジカメ(注1)。現代の流行に照らして見ると、これが一番マイナーだと思われる。(笑)よい写真をきちんと撮ろうと思ったら、一眼レフのようなよいレンズのものを使う。そうでなければ、以前はコンパクトカメラだったのだが、これが今、スマホになっている。もう、コンパクトカメラを使う人はほとんど見かけない。
中学生の頃に天文少年だった僕は、天体写真の撮影に憧れて、それ用の一眼レフカメラに興味をもった。でも中学生の小遣いで買えるようなものではなく、実際に入手することができたのは、大学を卒業して就職した年の1987年だった。これを使って、ずいぶんいろいろな写真を撮った。
言うまでもないかも知れないが、この当時のカメラはフィルム式だった。かつての写真産業というのは、カメラを作るメーカーがあり、フィルムを作るメーカーがあり、そういう機材を販売するカメラ屋があり、撮影したフィルムを現像したり、プリントしたり、さらに焼き増ししたりする店があり・・・というふうに業界が分業して1セットでビジネスになっていた。(注2)
しかし1995年カシオがデジタルカメラを売り出した頃から潮目が変わった。最初の頃は解像度が悪くて話にならないと思っていたが、これがどんどん良くなり、しまいには携帯電話が写真撮影の機能を持つようになった。これがスマホに受け継がれて、現在のこの状況である。上に書いたビジネスの構造が根本的に変わってしまった。というよりほとんど消滅してしまったと言った方が正確だ。
こういうのは時代の流れだと言えばそれまでなのだが、ちょっと切なさを感じる。昔、カメラは時計と並んで精密機械の代表格だった。(注3)ことにカメラには「いじる楽しさ」があった。でも今はそれがない。精密機械ではなく電子機器になってしまった。
自分が機械のエンジニアになったのは、簡単にいうとメカニズムが大好きだったからだが、機械というものは、進化すればするほどガチャガチャ動くところがなくなり、機械らしさがなくなるという変な矛盾を抱えている。しかし、それが進化の方向なら嘆いてもしょうがない。これから先もせいぜい、懐古趣味に浸るのを楽しみにしよう。
*****
(注1)コンパクトデジカメの他にデジタルの一眼レフも持っているが、少なくとも僕の撮影では、スナップ写真レベルだとコンパクトと一眼レフの差が顕著に現れないことに気づいて、それ以来コンパクトだけ使っている。レンズには周辺のゆがみがほとんど無く、光学ズームで20倍使える。しかも掌サイズ。だったらコンパクトの方がいい。ただしプラモを作ってこのブログに載せていた頃は、一眼レフを使っていた。マクロレンズを使えて、小さな部品の撮影で圧倒的に有利なので。
(注2)ヨドバシカメラとかビックカメラとかは、今では、すっかり家電量販店になっているが発祥はその名の通りカメラ屋だった。YouTubeで懐かしいCMを見つけたのでひとつ紹介する。1985年のヨドバシのCMで、一眼レフとコンパクトカメラをずらっと並べてアピールしている。
https://www.youtube.com/watch?v=Xmwh7UBZt_w
一眼レフは、最近はプロか、そうでなければ写真に特別な思い入れのあるごく一部のアマチュアの物になった。コニカとミノルタは合併して、今は写真産業からは撤退した。僕の好きだったペンタックスはリコーに吸収されてしまった。昔から残っているカメラメーカーも、もう写真を主力にしていない。
フィルムも同様で、かつて日本市場にあった富士、コニカ、コダックのうち、残っているのは富士だけだ。(よく生き残ったと思う)コダック(アメリカ)は一回倒産してそのあと再生して別の業種になったらしい。
(注3)カメラが精密機械であった所以はシャッターと、フィルムの巻き上げ機構で、これが連動していた。つまり二重露出を防ぐため、フィルムを送らなければ次のシャッターが切れないようになっていたし、シャッターを押さなければ巻き上げができないようになっていた。1回フィルムを装填してシャッターを切る回数は、36枚撮りフィルムでも、せいぜい40回。でもカメラの愛好家というのは、フィルムを入れずに空シャッターを切り、巻いてまた空シャッターを切る、という「いじる」習性がある。こういうのを入れたら、この機構の動作回数は膨大なものになる。それに耐えられるような設計をしなければならないわけで、そこには設計ノウハウがぎっしり詰まっていたに違いない。でも電子機器になったらこれが全く不要になってしまう。昔、必死で開発したカメラメーカーのエンジニアたちの気持ちを考えると切なくなる。
姪は、披露宴の席札を透明レジンの埋め込みで作ってくれた。招待客ひとりひとりの個性に合わせて、中にあしらう物を変えてある。これを35人分、すべて違うデザインで作ったというから大した物だ。心のこもったもてなしに感謝したい。
下は姉のもの。メインの皿の上のナプキンの上に置いてあった。
そしてこちらは僕のもの。機械設計のエンジニアということで歯車がちりばめられている。確かに機械をシンボリックにとらえようとすれば、思い浮かぶのはガチャガチャ動く歯車機構だ。
***
結婚式とか披露宴は、10年位前に会社の後輩に呼ばれて出たのが最後で、それ以来無かった。今回久々に出て、ひとつ気づいたというか、うすうす気づいていたが改めて認識したことがある。それは招待客たちが使っているカメラのことで、余談としてこのことをちょっと書いておきたい。(姪の結婚の話から、だいぶ離れるが、関連記事として)
下の写真はウエディングケーキのカットのシーンだが、周りの人が使っているカメラが写っている。一番右の人はプロのカメラマンで、デジタル一眼レフ。一番左にいる女性も形からデジタル一眼レフとわかる。中央寄りの女性ふたりはスマホを使っている。スマホを使うのが現在の一番一般的なやり方のようだ。
かく言う僕は、コンパクトデジカメ(注1)。現代の流行に照らして見ると、これが一番マイナーだと思われる。(笑)よい写真をきちんと撮ろうと思ったら、一眼レフのようなよいレンズのものを使う。そうでなければ、以前はコンパクトカメラだったのだが、これが今、スマホになっている。もう、コンパクトカメラを使う人はほとんど見かけない。
中学生の頃に天文少年だった僕は、天体写真の撮影に憧れて、それ用の一眼レフカメラに興味をもった。でも中学生の小遣いで買えるようなものではなく、実際に入手することができたのは、大学を卒業して就職した年の1987年だった。これを使って、ずいぶんいろいろな写真を撮った。
言うまでもないかも知れないが、この当時のカメラはフィルム式だった。かつての写真産業というのは、カメラを作るメーカーがあり、フィルムを作るメーカーがあり、そういう機材を販売するカメラ屋があり、撮影したフィルムを現像したり、プリントしたり、さらに焼き増ししたりする店があり・・・というふうに業界が分業して1セットでビジネスになっていた。(注2)
しかし1995年カシオがデジタルカメラを売り出した頃から潮目が変わった。最初の頃は解像度が悪くて話にならないと思っていたが、これがどんどん良くなり、しまいには携帯電話が写真撮影の機能を持つようになった。これがスマホに受け継がれて、現在のこの状況である。上に書いたビジネスの構造が根本的に変わってしまった。というよりほとんど消滅してしまったと言った方が正確だ。
こういうのは時代の流れだと言えばそれまでなのだが、ちょっと切なさを感じる。昔、カメラは時計と並んで精密機械の代表格だった。(注3)ことにカメラには「いじる楽しさ」があった。でも今はそれがない。精密機械ではなく電子機器になってしまった。
自分が機械のエンジニアになったのは、簡単にいうとメカニズムが大好きだったからだが、機械というものは、進化すればするほどガチャガチャ動くところがなくなり、機械らしさがなくなるという変な矛盾を抱えている。しかし、それが進化の方向なら嘆いてもしょうがない。これから先もせいぜい、懐古趣味に浸るのを楽しみにしよう。
*****
(注1)コンパクトデジカメの他にデジタルの一眼レフも持っているが、少なくとも僕の撮影では、スナップ写真レベルだとコンパクトと一眼レフの差が顕著に現れないことに気づいて、それ以来コンパクトだけ使っている。レンズには周辺のゆがみがほとんど無く、光学ズームで20倍使える。しかも掌サイズ。だったらコンパクトの方がいい。ただしプラモを作ってこのブログに載せていた頃は、一眼レフを使っていた。マクロレンズを使えて、小さな部品の撮影で圧倒的に有利なので。
(注2)ヨドバシカメラとかビックカメラとかは、今では、すっかり家電量販店になっているが発祥はその名の通りカメラ屋だった。YouTubeで懐かしいCMを見つけたのでひとつ紹介する。1985年のヨドバシのCMで、一眼レフとコンパクトカメラをずらっと並べてアピールしている。
https://www.youtube.com/watch?v=Xmwh7UBZt_w
一眼レフは、最近はプロか、そうでなければ写真に特別な思い入れのあるごく一部のアマチュアの物になった。コニカとミノルタは合併して、今は写真産業からは撤退した。僕の好きだったペンタックスはリコーに吸収されてしまった。昔から残っているカメラメーカーも、もう写真を主力にしていない。
フィルムも同様で、かつて日本市場にあった富士、コニカ、コダックのうち、残っているのは富士だけだ。(よく生き残ったと思う)コダック(アメリカ)は一回倒産してそのあと再生して別の業種になったらしい。
(注3)カメラが精密機械であった所以はシャッターと、フィルムの巻き上げ機構で、これが連動していた。つまり二重露出を防ぐため、フィルムを送らなければ次のシャッターが切れないようになっていたし、シャッターを押さなければ巻き上げができないようになっていた。1回フィルムを装填してシャッターを切る回数は、36枚撮りフィルムでも、せいぜい40回。でもカメラの愛好家というのは、フィルムを入れずに空シャッターを切り、巻いてまた空シャッターを切る、という「いじる」習性がある。こういうのを入れたら、この機構の動作回数は膨大なものになる。それに耐えられるような設計をしなければならないわけで、そこには設計ノウハウがぎっしり詰まっていたに違いない。でも電子機器になったらこれが全く不要になってしまう。昔、必死で開発したカメラメーカーのエンジニアたちの気持ちを考えると切なくなる。
姪の結婚式その1 [雑文]
10月22日に、姪の結婚式と披露宴があった。こぢんまりとした式場で、参列者もごく親しい人だけに絞った小さなものだったが、爽やかで非常に雰囲気がよく、楽しい時間を過ごすことができた。新郎も大変人柄の良い人で、こういう人と一緒になれば末永く幸せになれるだろうと安心した。姪が僕の撮影した写真を「ぜひブログに載せてくれ」という。「モザイクなしでそのまま載せてもいいか」と念のためにきいたら「いいよ」というので、そのまま載せる。
姪というのは、姉の子である。姉には子供が二人いて、上が男の子、下が女の子。僕が就職して千葉の実家から神奈川に引っ越したのが1987年だった。甥と姪が生まれたのは、その後だったから、会うのはGWと盆と正月だけだった。それでも、それなりに思い出っていうのはあるものだ。今回は姪が主役なので、姪の思い出をちょっとだけ書いてみようと思う。とは言え、なんだか親馬鹿みたいになってしまいそうなので一つだけ。
姪が小学校の低学年の頃だったと思う。一緒に風呂に入ったときに、ためしに、自分の左右の手の親指の先、中指の先をそれぞれ当てて輪を作り、姪の腹周りを囲んでみた。そしたら、その輪の中に胴がすっぽり入ってしまった。子供の体ってこんなに細いのかとびっくりした。
冷静に考えてみれば、子供は生まれたばかりのサイズからスタートして少しずつ大きくなるわけだから、指で作った輪のサイズよりも胴の方が細い時代があるのは、別段不思議なことではない。でも、僕の場合、自分の子供がいないので、子供の体のサイズというものを実感する機会がなかった。だから、結構印象的な出来事だったのである。
さて。その後、姪は順調に(=健康的に)成長し、一時はだいぶ太った時期もあったようだが、今回ウエディングドレスを着るに当たってジムに通い、1年半かけてなんと約15kgの減量に成功したという。凄い成果だ。かくいう僕も、実は式の3週間前、数年前に作った礼服を着てみたところ、胴回りがパンパンで、ギリギリだったので、3週間かけてダイエットをし、胴回りで数センチ(ベルトの目にして3つ分)の縮小に成功、披露宴のご馳走を余裕で食べられるところまで痩せた(注1)。こういう行事は適度な緊張感が生まれて、いいものだ。
(つづく)
***
(注1)3週間でやったこと。食生活を魚中心にした。それから外食や赤ちょうちんをやめて完全に自炊にして量をコントロール。それからこんにゃくとダイコンだけのおでんを作り置きしておいて、腹が減ったときは、これを食べてしのいだ。体重は3kgくらいしか減らなかったが、腹周りの脂肪がクタクタに柔らかくなり、ベルトを締め付けやすくなった。ベルトの目が詰まったのは、これのせいだと思われる。脂肪が柔らかくなるのは痩せ始めの兆候なのだそうだ。
姪というのは、姉の子である。姉には子供が二人いて、上が男の子、下が女の子。僕が就職して千葉の実家から神奈川に引っ越したのが1987年だった。甥と姪が生まれたのは、その後だったから、会うのはGWと盆と正月だけだった。それでも、それなりに思い出っていうのはあるものだ。今回は姪が主役なので、姪の思い出をちょっとだけ書いてみようと思う。とは言え、なんだか親馬鹿みたいになってしまいそうなので一つだけ。
姪が小学校の低学年の頃だったと思う。一緒に風呂に入ったときに、ためしに、自分の左右の手の親指の先、中指の先をそれぞれ当てて輪を作り、姪の腹周りを囲んでみた。そしたら、その輪の中に胴がすっぽり入ってしまった。子供の体ってこんなに細いのかとびっくりした。
冷静に考えてみれば、子供は生まれたばかりのサイズからスタートして少しずつ大きくなるわけだから、指で作った輪のサイズよりも胴の方が細い時代があるのは、別段不思議なことではない。でも、僕の場合、自分の子供がいないので、子供の体のサイズというものを実感する機会がなかった。だから、結構印象的な出来事だったのである。
さて。その後、姪は順調に(=健康的に)成長し、一時はだいぶ太った時期もあったようだが、今回ウエディングドレスを着るに当たってジムに通い、1年半かけてなんと約15kgの減量に成功したという。凄い成果だ。かくいう僕も、実は式の3週間前、数年前に作った礼服を着てみたところ、胴回りがパンパンで、ギリギリだったので、3週間かけてダイエットをし、胴回りで数センチ(ベルトの目にして3つ分)の縮小に成功、披露宴のご馳走を余裕で食べられるところまで痩せた(注1)。こういう行事は適度な緊張感が生まれて、いいものだ。
(つづく)
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(注1)3週間でやったこと。食生活を魚中心にした。それから外食や赤ちょうちんをやめて完全に自炊にして量をコントロール。それからこんにゃくとダイコンだけのおでんを作り置きしておいて、腹が減ったときは、これを食べてしのいだ。体重は3kgくらいしか減らなかったが、腹周りの脂肪がクタクタに柔らかくなり、ベルトを締め付けやすくなった。ベルトの目が詰まったのは、これのせいだと思われる。脂肪が柔らかくなるのは痩せ始めの兆候なのだそうだ。
リフレッシュ休暇(3)水漏れ事故 [雑文]
(つづき)
さて、7月4日の下関は、関門トンネルの後、壇ノ浦の合戦で幼くして亡くなった安徳天皇が祀られている赤間神宮を参拝し、唐戸市場でアイスクリームを食べて、16:30頃にホテルにチェックインした。
さて、話はちょっと遡る。
朝、北九州の小倉に向かう新幹線のぞみの車内で、マンションの管理会社からスマホに電話があった。広島を過ぎてもうすぐ新山口に着く頃だった。「ひぐらしさんの部屋の下の部屋で、天井から水漏れがあるので、ひぐらしさんの部屋を調べたいのだが、いつ都合がいい?」という。「今旅行中で帰宅が7月7日の夜になる予定だ」と言った。管理会社は取り急ぎ僕の部屋の水栓をとめた。
その後、前の記事の通り、7月4日は観光したが、心配事があると楽しめない。特に気になったのは、自室で水道の蛇口から水が溢れているかも知れないということだった。可能性のあるところは2カ所あって、一つはトイレのウォシュレットを工事した配管。もうひとつは洗濯機の水をつないでいるカップリング。どちらも僕がこの部屋に入居したあとでつないだものである。この結合部が破れる可能性はないとは言えない。
初日の日程を終えてホテルに入ったが、心配事を抱えて7月7日まで旅行するよりも、いっそのこと帰宅して原因を調べた方が良い。それともうひとつ、翌日の予定は四国の金比羅さんだったのだが、台風4号が来ていて、高知で大雨がふり、その影響で7月5日に四国へ行く路線が2カ所くらい止まりそうだった。
ということで旅行は中止。翌日、下関を始発で出発、昼頃に帰宅した。のぞみは小倉~新横浜を4時間半で走る。このスピードは、こういうとき非常に助かる。
新幹線の中で、管理会社に電話をして、「急遽帰宅することにしたが、部屋に入るときに何か気をつけることはないか」と聞くと、「今日、工事屋さんが下の部屋の養生に入るので、ついでにそちらに行くように状況を伝えておく」とのことだった。
家について、調べてみたら、自分の部屋の廊下の真ん中あたりの天井から水漏れがあって、それが廊下に染み込んでいた。管理会社にその状況を知らせた。それから下の部屋に挨拶にいったら、やはり同じあたりで水漏れがあって、水受けのバケツが置いてあった。昼過ぎに工事屋さんが来た。管理人が上の部屋に知らせて水栓を止めた。やがて水漏れは止まった。
工事屋さんが上の部屋を調べると、台所あたりの水道の配管(床下)から漏れていたらしい。工事屋さんの処置により水漏れは止まった。やっぱり旅行を切り上げて帰宅して正解だった。対応が遅れるほど、僕の部屋と下の部屋の浸水がひどくなっていたはずである。
そのあと工事屋さんは保険請求のために、部屋の被害状況をいろいろ調べていた。廊下だけでなく、廊下の脇の物置にも、水が染みていた。やはりプロの目は素人とは違ってよく行き届くようだ。それから修理代はマンションが団体で入っている保険から出るようだが、思ったより規模の大きい修理になりそう。
とりあえず、自分の部屋が原因でないことがわかり、ほっとしたが、確率的にみれば、僕の部屋から漏水することだってあるので、安心ばかりしてはいられない。それから、工事屋さんによると、このマンションの漏水事故は今回が初めてなのではなく、すでに2件くらい発生しているそうだ。やはり20年を越えるとこういうことが徐々に起きてくる。こういうのはマンションの弱点だと思う。
なお、台風4号は7月5日の夜頃に温帯低気圧に変わったらしい。
(つづく)
***
さて、7月4日の下関は、関門トンネルの後、壇ノ浦の合戦で幼くして亡くなった安徳天皇が祀られている赤間神宮を参拝し、唐戸市場でアイスクリームを食べて、16:30頃にホテルにチェックインした。
さて、話はちょっと遡る。
朝、北九州の小倉に向かう新幹線のぞみの車内で、マンションの管理会社からスマホに電話があった。広島を過ぎてもうすぐ新山口に着く頃だった。「ひぐらしさんの部屋の下の部屋で、天井から水漏れがあるので、ひぐらしさんの部屋を調べたいのだが、いつ都合がいい?」という。「今旅行中で帰宅が7月7日の夜になる予定だ」と言った。管理会社は取り急ぎ僕の部屋の水栓をとめた。
その後、前の記事の通り、7月4日は観光したが、心配事があると楽しめない。特に気になったのは、自室で水道の蛇口から水が溢れているかも知れないということだった。可能性のあるところは2カ所あって、一つはトイレのウォシュレットを工事した配管。もうひとつは洗濯機の水をつないでいるカップリング。どちらも僕がこの部屋に入居したあとでつないだものである。この結合部が破れる可能性はないとは言えない。
初日の日程を終えてホテルに入ったが、心配事を抱えて7月7日まで旅行するよりも、いっそのこと帰宅して原因を調べた方が良い。それともうひとつ、翌日の予定は四国の金比羅さんだったのだが、台風4号が来ていて、高知で大雨がふり、その影響で7月5日に四国へ行く路線が2カ所くらい止まりそうだった。
ということで旅行は中止。翌日、下関を始発で出発、昼頃に帰宅した。のぞみは小倉~新横浜を4時間半で走る。このスピードは、こういうとき非常に助かる。
新幹線の中で、管理会社に電話をして、「急遽帰宅することにしたが、部屋に入るときに何か気をつけることはないか」と聞くと、「今日、工事屋さんが下の部屋の養生に入るので、ついでにそちらに行くように状況を伝えておく」とのことだった。
家について、調べてみたら、自分の部屋の廊下の真ん中あたりの天井から水漏れがあって、それが廊下に染み込んでいた。管理会社にその状況を知らせた。それから下の部屋に挨拶にいったら、やはり同じあたりで水漏れがあって、水受けのバケツが置いてあった。昼過ぎに工事屋さんが来た。管理人が上の部屋に知らせて水栓を止めた。やがて水漏れは止まった。
工事屋さんが上の部屋を調べると、台所あたりの水道の配管(床下)から漏れていたらしい。工事屋さんの処置により水漏れは止まった。やっぱり旅行を切り上げて帰宅して正解だった。対応が遅れるほど、僕の部屋と下の部屋の浸水がひどくなっていたはずである。
そのあと工事屋さんは保険請求のために、部屋の被害状況をいろいろ調べていた。廊下だけでなく、廊下の脇の物置にも、水が染みていた。やはりプロの目は素人とは違ってよく行き届くようだ。それから修理代はマンションが団体で入っている保険から出るようだが、思ったより規模の大きい修理になりそう。
とりあえず、自分の部屋が原因でないことがわかり、ほっとしたが、確率的にみれば、僕の部屋から漏水することだってあるので、安心ばかりしてはいられない。それから、工事屋さんによると、このマンションの漏水事故は今回が初めてなのではなく、すでに2件くらい発生しているそうだ。やはり20年を越えるとこういうことが徐々に起きてくる。こういうのはマンションの弱点だと思う。
なお、台風4号は7月5日の夜頃に温帯低気圧に変わったらしい。
(つづく)
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リフレッシュ休暇(2)下関その2 [雑文]
下関側から門司へ伸びる関門橋。みもすそ川のバス停で降りて海に向かうと、橋は右側にある。写真を撮ろうとすると、橋に近すぎて、画角に収まりきれない。間近で見るとすごい迫力である。
関門海峡を渡る交通経路は、グーグルの地図で見ると、4つあることがわかる。
南から北へ向かって、JR在来線、高速道路、一般道路、JR新幹線の4つであるが、このうち、橋が架かっているのは、高速道路(関門橋)だけであって、残り3つは海底トンネルである。それで、この4つの経路のどれがいつ頃出来たのか調べてみたところ・・・
1)関門鉄道トンネル(JR山陽本線)・・・1944年
2)関門国道トンネル(国道2号線)・・・1958年
3)関門橋(高速道路)・・・・・・・・・1973年
4)新関門トンネル(JR山陽新幹線)・・・1975年
・・・ということのようだ。一番古いものが貫通したのが、なんと戦時中。一番新しい新幹線でも1975年。4つとも意外に古い時期に完成していることに驚かされた。(注1)
さて、上記2)の関門国道トンネルは、壇ノ浦の古戦場跡のすぐ近くを通っているが、ここのトンネルには車道に平行して人道(要するに歩道)が作られていて、歩いて渡ることができるようになっている。渡ってみた。(実はこれ、結構楽しみだったんだ)
まずエレベーターで地下に下る。
スタート地点
下関と門司の境目
門司に到着。歩いてわずか10分、僕の歩く速さから換算すると距離は860 m くらいだろうか。
地上にでて、下関側を眺めて考えた。この距離の近さは、海というより、大きめの川である。平家がここで源氏を迎撃したのが、なんとなく理解できる。
源氏側が、彦島に逃げ込んだ平家をどう攻めるか、と考えたときに、取り囲んで兵糧攻めにする方法もあったと思うのだが、義経はそうしなかった。(注2)直接的な攻撃をするなら、この海峡を通って彦島を目指す。平家を陸路で攻めても、どうせ海に逃げてしまうことが屋島の合戦でわかっていた。また平家方にとっては、逆にこの一番幅の狭い壇ノ浦のあたりで、なんとしても食い止めなければならなかったのだろう。
実際にこの地にきて、トンネルを歩いて海峡を渡ってみて、サイズを実感し、戦に関わった人の感覚が少しわかった気がする。(もちろんこれは歴史の専門家ではない素人の感じた事なので、ちゃんと勉強中の方は鵜呑みにしないでいただきたい)
ここにトンネルや橋が作られているのも納得がいく。つまり一番狭いところにトンネルを掘り、橋を架ければ、工事が楽でコストを抑えられるのだ。壇ノ浦の古戦場と、海峡を結ぶトンネルや橋が同じところにあることになんの疑問も抱かなかったが、これは単なる偶然ではなく、地形的な理由があるということである。
下関側のエレベーターのところに紙芝居のお姉さんがいて「耳なし芳一」をやっていた。写真は、芳一の物語が終わって平家の亡霊たちが泣いている場面。
***
(注1)参考情報。他の場所に目を向けると、青函トンネルも瀬戸大橋も同じく1988年に開通だそうだ。このくらいの時代になると「わりと最近だな」という感覚になるが、1970年代となると「結構昔だ」と感じる。まあ、これは感じる人の年齢による話。
(注2)兵糧攻めは、攻められる方が苦しいのはもちろんだが、攻める側にもかなりの負担がかかる。つまり、大勢の侍を長いこと待機させれば、当然食料が必要になるし、長期に及べば、せっかく源氏方についてくれた侍たちの志気の低下も問題になってくる。そう簡単でない。戦の規模がある程度小さくならないと、この戦法は使えないと思われる。
関門海峡を渡る交通経路は、グーグルの地図で見ると、4つあることがわかる。
南から北へ向かって、JR在来線、高速道路、一般道路、JR新幹線の4つであるが、このうち、橋が架かっているのは、高速道路(関門橋)だけであって、残り3つは海底トンネルである。それで、この4つの経路のどれがいつ頃出来たのか調べてみたところ・・・
1)関門鉄道トンネル(JR山陽本線)・・・1944年
2)関門国道トンネル(国道2号線)・・・1958年
3)関門橋(高速道路)・・・・・・・・・1973年
4)新関門トンネル(JR山陽新幹線)・・・1975年
・・・ということのようだ。一番古いものが貫通したのが、なんと戦時中。一番新しい新幹線でも1975年。4つとも意外に古い時期に完成していることに驚かされた。(注1)
さて、上記2)の関門国道トンネルは、壇ノ浦の古戦場跡のすぐ近くを通っているが、ここのトンネルには車道に平行して人道(要するに歩道)が作られていて、歩いて渡ることができるようになっている。渡ってみた。(実はこれ、結構楽しみだったんだ)
まずエレベーターで地下に下る。
スタート地点
下関と門司の境目
門司に到着。歩いてわずか10分、僕の歩く速さから換算すると距離は860 m くらいだろうか。
地上にでて、下関側を眺めて考えた。この距離の近さは、海というより、大きめの川である。平家がここで源氏を迎撃したのが、なんとなく理解できる。
源氏側が、彦島に逃げ込んだ平家をどう攻めるか、と考えたときに、取り囲んで兵糧攻めにする方法もあったと思うのだが、義経はそうしなかった。(注2)直接的な攻撃をするなら、この海峡を通って彦島を目指す。平家を陸路で攻めても、どうせ海に逃げてしまうことが屋島の合戦でわかっていた。また平家方にとっては、逆にこの一番幅の狭い壇ノ浦のあたりで、なんとしても食い止めなければならなかったのだろう。
実際にこの地にきて、トンネルを歩いて海峡を渡ってみて、サイズを実感し、戦に関わった人の感覚が少しわかった気がする。(もちろんこれは歴史の専門家ではない素人の感じた事なので、ちゃんと勉強中の方は鵜呑みにしないでいただきたい)
ここにトンネルや橋が作られているのも納得がいく。つまり一番狭いところにトンネルを掘り、橋を架ければ、工事が楽でコストを抑えられるのだ。壇ノ浦の古戦場と、海峡を結ぶトンネルや橋が同じところにあることになんの疑問も抱かなかったが、これは単なる偶然ではなく、地形的な理由があるということである。
下関側のエレベーターのところに紙芝居のお姉さんがいて「耳なし芳一」をやっていた。写真は、芳一の物語が終わって平家の亡霊たちが泣いている場面。
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(注1)参考情報。他の場所に目を向けると、青函トンネルも瀬戸大橋も同じく1988年に開通だそうだ。このくらいの時代になると「わりと最近だな」という感覚になるが、1970年代となると「結構昔だ」と感じる。まあ、これは感じる人の年齢による話。
(注2)兵糧攻めは、攻められる方が苦しいのはもちろんだが、攻める側にもかなりの負担がかかる。つまり、大勢の侍を長いこと待機させれば、当然食料が必要になるし、長期に及べば、せっかく源氏方についてくれた侍たちの志気の低下も問題になってくる。そう簡単でない。戦の規模がある程度小さくならないと、この戦法は使えないと思われる。
リフレッシュ休暇(1)下関その1 [雑文]
僕が今の会社に就職したのは1987年だった。2012年に勤続25年になり、リフレッシュ休暇をもらった。2013年に書いた「ひぐらし大旅行」というシリーズものの記事はこのときのものだった。(注1)
今年は2022年、勤続35年でまたリフレッシュ休暇をもらうことになった。(注2)
長い休みをもらったら旅行に行きたい。でも前回と違って、今回は両親の健康が心配で、あまり長い期間の旅行にはちょっと抵抗があった。いろいろ考えた結果、日程は3泊4日の計画にした。初日は下関。壇ノ浦の古戦場を見てみたかったのだ。
7月4日、早朝、新横浜発6:51発ののぞみ5号にのり、11:14に小倉に到着。わずか4時間半、このスピードは驚異的である。そこから山陽本線に乗って下関へ。下関の駅からバスにのって、みもすそ川(注3)というバス停で降りるとその辺一帯が壇ノ浦の古戦場として整備されている。
早速、源義経と平知盛の像に対面した。義経の方は八艘飛び、知盛の方は碇を抱えて入水するところを造形したようだ。二人ともやたら男前である。
ところで、義経の八艘飛びも、知盛の碇も、平家物語の記述とは違いがある。僕は最初、これは写本による違いなのかと思っていたが、実際はそうではなく、後世の歌舞伎や能で、そのような脚色が為されたらしい。まあ、その方がドラマチックで絵になる。
実際に平家物語でどう書かれているか、読み返してみた。まず八艘飛びの元になったと思われる場面。ここは能登守教経(のりつね)が義経を討とうと、義経の舟に飛び乗ったところ、義経が形勢不利とみて、他の舟にひらりと飛び移ったという場面である。教経は追い切れず、源氏方の侍二人を両脇に抱えて道連れにして入水した。(本文中、判官というのが義経のこと)
それから、知盛が入水する場面は、平家物語の本文では、鎧を二枚重ね着して(水に浮かないようにして)沈んだということになっている。(文中、新中納言というのが知盛のこと)
ただし碇を抱えて入水するという脚色のヒントになったらしい場面が他にある。これは教盛(のりもり)と経盛(つねもり)が入水するシーンで、この兄弟が鎧の上に碇を背負い、一緒に海に入ったと書かれている。
最近フジテレビで、アニメの平家物語が放送されたが、最終回では、知盛が碇を抱えるシーンがきちんと描かれていた。(AmazonのPrime Videoで今、無料で見られる)
(つづく)
***
(注1)興味のある方、下記URLを参照
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2013-11-27
(注2)制度としては休みを勤続35年でもらうか、または停年前1年でもらうかの二者択一になっている。どちらも内容は同じなのだが、学歴によっては勤続35年に満たないまま停年になる人がいるので、それに配慮されているらしい。
(注3) みもすそ川・・・漢字では「御裳川」と書くらしいが、ひらがな表記が公式になっている。ここの町名も「下関市みもすそ川町」という。おそらく他所から観光で訪れる人が読めなくて不便なので、ひらがな表記にしたのだろう。
今年は2022年、勤続35年でまたリフレッシュ休暇をもらうことになった。(注2)
長い休みをもらったら旅行に行きたい。でも前回と違って、今回は両親の健康が心配で、あまり長い期間の旅行にはちょっと抵抗があった。いろいろ考えた結果、日程は3泊4日の計画にした。初日は下関。壇ノ浦の古戦場を見てみたかったのだ。
7月4日、早朝、新横浜発6:51発ののぞみ5号にのり、11:14に小倉に到着。わずか4時間半、このスピードは驚異的である。そこから山陽本線に乗って下関へ。下関の駅からバスにのって、みもすそ川(注3)というバス停で降りるとその辺一帯が壇ノ浦の古戦場として整備されている。
早速、源義経と平知盛の像に対面した。義経の方は八艘飛び、知盛の方は碇を抱えて入水するところを造形したようだ。二人ともやたら男前である。
ところで、義経の八艘飛びも、知盛の碇も、平家物語の記述とは違いがある。僕は最初、これは写本による違いなのかと思っていたが、実際はそうではなく、後世の歌舞伎や能で、そのような脚色が為されたらしい。まあ、その方がドラマチックで絵になる。
実際に平家物語でどう書かれているか、読み返してみた。まず八艘飛びの元になったと思われる場面。ここは能登守教経(のりつね)が義経を討とうと、義経の舟に飛び乗ったところ、義経が形勢不利とみて、他の舟にひらりと飛び移ったという場面である。教経は追い切れず、源氏方の侍二人を両脇に抱えて道連れにして入水した。(本文中、判官というのが義経のこと)
それから、知盛が入水する場面は、平家物語の本文では、鎧を二枚重ね着して(水に浮かないようにして)沈んだということになっている。(文中、新中納言というのが知盛のこと)
ただし碇を抱えて入水するという脚色のヒントになったらしい場面が他にある。これは教盛(のりもり)と経盛(つねもり)が入水するシーンで、この兄弟が鎧の上に碇を背負い、一緒に海に入ったと書かれている。
最近フジテレビで、アニメの平家物語が放送されたが、最終回では、知盛が碇を抱えるシーンがきちんと描かれていた。(AmazonのPrime Videoで今、無料で見られる)
(つづく)
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(注1)興味のある方、下記URLを参照
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2013-11-27
(注2)制度としては休みを勤続35年でもらうか、または停年前1年でもらうかの二者択一になっている。どちらも内容は同じなのだが、学歴によっては勤続35年に満たないまま停年になる人がいるので、それに配慮されているらしい。
(注3) みもすそ川・・・漢字では「御裳川」と書くらしいが、ひらがな表記が公式になっている。ここの町名も「下関市みもすそ川町」という。おそらく他所から観光で訪れる人が読めなくて不便なので、ひらがな表記にしたのだろう。
石油ストーブのメンテ [雑文]
以前から愛用してきた石油ストーブがある。買ったのは、2011年の12月。ちょうど今から10年前、震災の年だった。(注1)メーカーはGreenWood、型番は「GKP-P243N」というもの。小さくてデザインも良く、気に入っている。
このたび、これのメンテを経験した。面白かったので紹介したい。(2018年末に火が点かなくなって以来、放置していた)(注2)
以下に、今回やった作業(=交換用の芯の説明書に書いてある作業)を順を追って書く。実は一発で終わったわけではなく、ちょっと試行錯誤があった(注4)のだが、最終的にやったのは、結局オーソドックスな「芯の交換」と古い灯油の廃棄である。
まずストーブ外観。
給油タンクを外す。
燃焼筒を外す。
底部のネジを4本外す。
ツマミを外す。
心臓部が露出。
点火用の電池を外す。
点火ユニットを外す。
中に入っている灯油は黄ばんでいる。(3年前のもの)
このナットを外す。
芯が露出。先端にタールが付着して固まっている。
芯を固定金具と一緒に外す。
内部を掃除する。(拭き取りやゴミの吹き飛ばしなど)
芯の取り付け金具。
芯がスライドする中心部のタール汚れを紙ヤスリで落とす。
新品の芯。
取り付け位置は、説明書参照。
中心部に取り付け。あとは、逆の手順で組み上げるだけ。
無事に点火した。(注3)これは最大火力。
適正火力。
右の瓶は、中に入っていた古い灯油をスポイトで吸い出したもの。だいぶ黄ばんでいる。左の瓶は、新しく買った灯油。こちらは水のように澄んでいる。(原油高のあおりを受け、灯油は1リットル115円だった)
【学んだこと】
1.前のシーズンの灯油は使わず、販売店で引き取ってもらうこと。
2.古い灯油を使うと芯にタールが蓄積しやすいこと。
3.ポリタンクは5年で交換すること。
4.芯の交換作業は意外に簡単だということ
5.石油ストーブの消耗品は芯だけだということ。
新しい良質の燃料を使うことが芯を長持ちさせる、つまりストーブを長持ちさせるコツのようだ。今までは前年の古い灯油を、気にせずに平気で使っていた。まあそれでも7年もったということは、今回新品にしたのだから、この先は新しい燃料を使い続ければ7年以上はもつだろう。
*****************
(注1)
参考ブログ記事:「灯油ストーブを買った」
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2011-12-26
(注2)いきさつ、あれこれ(メモ)
・2011年当時、書斎のエアコンが老朽化していて、暖房のときだけひどいノイズが出るようになっていた。また2011年の震災のときに計画停電騒動があって、電気だけに依存するのは良くないなと思って、同年12月に、このストーブを買ったのだった。それ以来、冬になったら暖房はエアコンではなくストーブを使っていた。
・2018年6月、老朽化したエアコンが冷房、暖房両方ひどいノイズが出るようになり、新しいのに買い換えた。
・2018年の年末、愛用のストーブは調子が悪くなり、火が点かなくなってしまった。ただ、エアコンを新調したばかりなので、こっちで間に合わせた。
・その後「電気だけに依存するのは良くない」とずっと思いつつも、つい億劫で何も対応しないまま、3シーズン(2018年、2019年、2020年)をエアコンで過ごしてしまった。今年2021年、ようやくメンテにチャレンジしたという次第。
(注3)おまけの動画。点火ユニットの動作
https://youtu.be/StpyBxmKFRQ
(注4)新品の芯を買う前に、一度、古い芯の先端を1 センチ程切り取って、新しい部分を露出させてみた。そしたら一時的に着火はしたが、数日でだめになった。結局、芯の中にタールが深く入り込んでいて、少し切り取ったくらいでどうにかなるようなレベルではなかったということである。
このたび、これのメンテを経験した。面白かったので紹介したい。(2018年末に火が点かなくなって以来、放置していた)(注2)
以下に、今回やった作業(=交換用の芯の説明書に書いてある作業)を順を追って書く。実は一発で終わったわけではなく、ちょっと試行錯誤があった(注4)のだが、最終的にやったのは、結局オーソドックスな「芯の交換」と古い灯油の廃棄である。
まずストーブ外観。
給油タンクを外す。
燃焼筒を外す。
底部のネジを4本外す。
ツマミを外す。
心臓部が露出。
点火用の電池を外す。
点火ユニットを外す。
中に入っている灯油は黄ばんでいる。(3年前のもの)
このナットを外す。
芯が露出。先端にタールが付着して固まっている。
芯を固定金具と一緒に外す。
内部を掃除する。(拭き取りやゴミの吹き飛ばしなど)
芯の取り付け金具。
芯がスライドする中心部のタール汚れを紙ヤスリで落とす。
新品の芯。
取り付け位置は、説明書参照。
中心部に取り付け。あとは、逆の手順で組み上げるだけ。
無事に点火した。(注3)これは最大火力。
適正火力。
右の瓶は、中に入っていた古い灯油をスポイトで吸い出したもの。だいぶ黄ばんでいる。左の瓶は、新しく買った灯油。こちらは水のように澄んでいる。(原油高のあおりを受け、灯油は1リットル115円だった)
【学んだこと】
1.前のシーズンの灯油は使わず、販売店で引き取ってもらうこと。
2.古い灯油を使うと芯にタールが蓄積しやすいこと。
3.ポリタンクは5年で交換すること。
4.芯の交換作業は意外に簡単だということ
5.石油ストーブの消耗品は芯だけだということ。
新しい良質の燃料を使うことが芯を長持ちさせる、つまりストーブを長持ちさせるコツのようだ。今までは前年の古い灯油を、気にせずに平気で使っていた。まあそれでも7年もったということは、今回新品にしたのだから、この先は新しい燃料を使い続ければ7年以上はもつだろう。
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(注1)
参考ブログ記事:「灯油ストーブを買った」
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2011-12-26
(注2)いきさつ、あれこれ(メモ)
・2011年当時、書斎のエアコンが老朽化していて、暖房のときだけひどいノイズが出るようになっていた。また2011年の震災のときに計画停電騒動があって、電気だけに依存するのは良くないなと思って、同年12月に、このストーブを買ったのだった。それ以来、冬になったら暖房はエアコンではなくストーブを使っていた。
・2018年6月、老朽化したエアコンが冷房、暖房両方ひどいノイズが出るようになり、新しいのに買い換えた。
・2018年の年末、愛用のストーブは調子が悪くなり、火が点かなくなってしまった。ただ、エアコンを新調したばかりなので、こっちで間に合わせた。
・その後「電気だけに依存するのは良くない」とずっと思いつつも、つい億劫で何も対応しないまま、3シーズン(2018年、2019年、2020年)をエアコンで過ごしてしまった。今年2021年、ようやくメンテにチャレンジしたという次第。
(注3)おまけの動画。点火ユニットの動作
https://youtu.be/StpyBxmKFRQ
(注4)新品の芯を買う前に、一度、古い芯の先端を1 センチ程切り取って、新しい部分を露出させてみた。そしたら一時的に着火はしたが、数日でだめになった。結局、芯の中にタールが深く入り込んでいて、少し切り取ったくらいでどうにかなるようなレベルではなかったということである。
時計のムーブメント交換 [雑文]
このたび、初めて時計のムーブメントの交換ということを経験した。もしかしたら、この話、お気に入りの時計が壊れて、泣く泣く捨てようとしている人に参考になるかも知れないと思い、記録しておくことした。
時計というのは、以前もこのブログに書いたことのあるフクロウ形の柱時計で、20年ほど使っている。しかし、ここ1年くらい、だんだんと動きが怪しくなり、電池が完全に消耗してもいないのに、針が止まってしまうようになった。電池を交換すると、動くようになるが、やがてその手も効かなくなり、ついに完全に止まってしまった。これは、つまりムーブメントがいかれてしまったということだろう。原因は不明だが、20年も使っていれば寿命ということもあるのかも知れない。
ムーブメントというのは要するに、時計の長針短針と、秒針の回転運動を作り出す心臓部をモジュールとしてまとめたもので、最近では一辺55mmの正方形に規格化されているらしい。これがあると素人でも文字盤だけ作ればオリジナルデザインの時計を作ることができる。このフクロウ時計もそういう作りになっている。このモジュールがアマゾンで安価で売られていたので買ってみた。
さて、交換である。フクロウ時計の正面。
同じく背面。中心の正方形の部分がムーブメントである。
ガラスを外す。
針を外す。
中心のナットを外す。
ムーブメントを外す。なお、元々ついていたムーブメントにはメロディ機能がついていて、毎正時(長針が12時を指したとき)ごとにメロディが鳴る機能がついていてその信号を出すらしい青いリード線があるのだが、この機能は諦めて切断した。(もともと使ってはいなかったし)
これは取り出したムーブメントと針。
あとは、新しいのを取り付けて・・・
完成。
無事に生き返ってくれた。捨てずに済んで良かった。こんなこと今更言うのもなんだが、便利な時代だなあと改めて思った。(^_^;)
時計というのは、以前もこのブログに書いたことのあるフクロウ形の柱時計で、20年ほど使っている。しかし、ここ1年くらい、だんだんと動きが怪しくなり、電池が完全に消耗してもいないのに、針が止まってしまうようになった。電池を交換すると、動くようになるが、やがてその手も効かなくなり、ついに完全に止まってしまった。これは、つまりムーブメントがいかれてしまったということだろう。原因は不明だが、20年も使っていれば寿命ということもあるのかも知れない。
ムーブメントというのは要するに、時計の長針短針と、秒針の回転運動を作り出す心臓部をモジュールとしてまとめたもので、最近では一辺55mmの正方形に規格化されているらしい。これがあると素人でも文字盤だけ作ればオリジナルデザインの時計を作ることができる。このフクロウ時計もそういう作りになっている。このモジュールがアマゾンで安価で売られていたので買ってみた。
さて、交換である。フクロウ時計の正面。
同じく背面。中心の正方形の部分がムーブメントである。
ガラスを外す。
針を外す。
中心のナットを外す。
ムーブメントを外す。なお、元々ついていたムーブメントにはメロディ機能がついていて、毎正時(長針が12時を指したとき)ごとにメロディが鳴る機能がついていてその信号を出すらしい青いリード線があるのだが、この機能は諦めて切断した。(もともと使ってはいなかったし)
これは取り出したムーブメントと針。
あとは、新しいのを取り付けて・・・
完成。
無事に生き返ってくれた。捨てずに済んで良かった。こんなこと今更言うのもなんだが、便利な時代だなあと改めて思った。(^_^;)