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2018年秋の出来事(1) [雑文]

 2018年9月以来、ブログの更新が止まってしまった。だから、何が起こったのか、記録を兼ねて、言い訳を書こうと思う。(本来であれば、2019年、新年の抱負なんかを書くところなのだろうけど)

 簡単に言ってしまうと、2018年の秋に計画していたことが結構あって、もともとそれで忙しくなる予定だったのだが、これに加えて、予定外の事件が起こってしまったのだった。一言でいうと、家族(親父、お袋、姉)がほぼ同時に体を壊したのである。

***
 そもそも話は、昨年の夏まで遡る。お盆に帰省したときに、たまたま姪と五目並べをやったのだが、どういうわけか姪が結構強い。もっと前、オセロをやったときも全然勝てなかった。どうやら姪は、白と黒の石を並べるゲームに独特のセンスをもっているらしい。だったら囲碁だってできるのではないかと思い、姪を誘って囲碁の勉強をしようと思い立った。

 今から20年ほど前、ちょうど少年ジャンプで「ヒカルの碁」という漫画が流行っていた頃に、それに影響されて、囲碁をちょっとだけ齧ったことがあった。ルールを少しだけ覚えて親父(こちらは30年来の囲碁ファン)と打ったのだが、そもそも棋力が全く違うし、親父が対局中に講釈を始めてしまうので、指導碁にもならず、対局として成立しなかった。そうこうしているうちに情熱が覚めてしまって、それっきりになってしまったのだった。今の心境としては、親父が元気なうちに、親父と普通に対局ができるレベルになりたいと思っているが、そう思い立つのがだいぶ遅れてしまった。どうなることやら。

 さて1か月後の9月15日、姪が予定通りうちに遊びに来て、勉強会を始めた。・・・と思いきや、急に親父から電話がかかってきた。「お母さんの具合が悪いから、お前ちょっと見舞いに来ないか。お前の顔を見れば少しは元気になるかも知れない」と言う。お袋は少し前に腰を痛めて、介護保険で言うところの、「要支援2」というグレードに格付けされた。その後、眩暈を起こして起き上がれなくなり、寝込んでいたのだった。

 親父がそんな電話をしてくるなんて珍しい。勉強会はすぐに中断。姪を連れて帰省した。実家に着くと、やたら顔色の悪いお袋が寝込んでいた。あまりにも病人らしい顔で驚いたが、それでも受け答えはしっかりしており、翌日には比較的元気になった。原因不明の眩暈で嘔吐もあったということで、メニエル病を疑ったが、後日病院で精密検査を受けた結果、その疑いは晴れた。結局のところ原因は不明で、偶発的な眩暈であろうとのことだった。

 ちなみにメニエル病というのは、最近引退した某男性アイドルがかかって一時的に有名になった病名らしい。眩暈と嘔吐から姪がこれを疑った。実際のところはこの病気は聴覚障害を伴うのが特徴なのだそうで、お袋にはこれがなかった。

(つづく)

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ラーメン二郎でラーメンを食す [雑文]

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 以前、ランニングに真面目に取り組んでいた頃の話である。自宅からJR藤沢駅の北口を回って10km走って自宅に戻るコースを作り、休みの日にそこを走って練習していた。そのコースの途中に、何やらいつも行列ができている黄色い看板の店があった。程なくして、その店が ”ラーメン二郎” という有名な店だということを知った。

 なるほど、それで行列が出来ていたのか。人気ぶりはかねてから聞いていた。コアなファンは “ジロリアン” と呼ばれ、日本各地の二郎の食べ歩き行脚をしているという。気になってはいたのだが、何しろ僕は待ち行列が大の苦手である。よほどの理由がなければ並んで食べるなんてことはしない。要はそこまで食にこだわりがないということであって、結局二郎は僕にとっては縁のない店だった。

 ちょっと話が飛ぶが、JR川崎駅の地下街に “ラーメンシンフォニー” という、旨いラーメン屋が集まった一角がある。以前から川崎のサトー電気に電子部品を買いに行ったついでに、そこに寄ってラーメンを食べて帰るのが楽しみになっていた。ある日、そこの “らぁめん大山(たいざん)” という店に入り、そこで “大麺(だいめん)” というメニューを食べたとき、それが実に旨かった。気に入ってしまったので、その店の評判をネットで調べたところ、この店がいわゆる "二郎系" であることがわかった。

 かつてラーメン二郎の町田店をやっていた店主が独立して、静岡で "らぁめん大山" を開店し、さらに川崎に支店を出したというのが、あの地下街の店らしい。大麺の外観は、ネットの写真で見た、二郎のあの山もりのラーメンにそっくりだった。

 こうなると、今までさほど興味のなかった二郎にも行きたくなってくるというもの。そこで、お盆明けの休みの日に開店時間を狙って行ってみたが、すでに大行列が出来ていて気が滅入ってしまい、負け犬の気分で帰宅した。その後、平日の夜間であれば比較的すいていることがわかり、ついに1週間前の金曜日、デビューを果たした。そして1週間後(昨日)、また行ってしまった。

 そんなわけで似合わないと思いつつ、グルメリポート。この味は、旨いか不味いかという尺度ではちょっと表現しにくい。しかし、習慣性を帯びるということだけは言えそうだと思った。(「気取ったこと言ってんじゃねえ」とか言われそうな気がする(笑))(注1)

 極太の麺とチャーシュー(二郎用語では “ブタ” と呼ぶらしい)は、完璧に僕の好みに合っていて文句なしに旨い。じゃあスープは? というとこれにクセがあるのだ。醤油の甘辛の味。どこにも無い味である。(もっとも二郎は店によって味が違うという話を聞いたことがあるけど)旨いかと言われたら、それはもう充分に旨い。でも特別に旨いかと言われたらそうでもない。旨い不味いで表現できないクセがある。少なくとも僕の味覚はそう感じた。(非凡とはこういうことなのかも)

 1回目に食べたとき、「たぶん自分は1か月くらい経ったらまた食べたくなるだろうな」と予感した。結果、1週間後に食べたくなった。そして2回目は、スープの味が、1回目よりも旨く感じた。

 文頭の写真は昨日、湘南藤沢店で食べたレギュラー。(ニンニク有り)730円。この量(普通のラーメンの2倍はある)がこの値段で食べられるのだから、若い人にはこたえられないだろう。このコストパフォーマンスも大繁盛の大きな理由だと思う。なんだか、僕もこれから少しずつ、ジロリアンへの道を歩みそうな気がしてきたが、もういい年だ。若い頃みたいな量を食べていたら健康に障る。1か月に1回くらいにセーブした方がよさそうだ。

***
(注1)元来、僕の味覚はかなり大雑把で、外食したときに不味いと思ったことがほとんどない。そういう味覚の持ち主にはグルメレポートなんて出来るわけがないので、やらないのが一番いいのだが、今回は特別。

(追記)
 9月17日に川崎の「らぁめん大山」で、「大麺(豚W)」を食べて来た。二郎の湘南藤沢店の二郎に似た味だが、甘辛の「辛」の部分が少しマイルドになっていてクセが少ない。万人向けの味に仕上げているように思う。あまりマニアックになることを避け、誰でも入れる店を目指したのではないだろうか。
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2018年バレンタインデー [雑文]

 例年、バレンタインデーになると、決まってお袋がチョコレートを送ってくれる。まあまあ楽しみではある。しかし今年ばかりは、なぜか年のせいで忘れるような気がした。この予感は当たってしまい、実際2月14日になっても来ないので、電話してみたら案の定忘れていた。

 地元の老人クラブの爺さんたちに上げるチョコレートを婆さんたちで準備していて、息子のことはすっかり忘れていたそうだ。

「じゃあ、送ってあげるから待ってな」と言って、送って来たのがこれ。
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 段ボール箱の中に、チョコレートとかカップヌードル、うまい棒(30本入り)なんかのお菓子類のほか、赤飯とか、鶏肉の煮物とか、菜っ葉まで入っている。これでこそ、いつものお袋である。念のために、言っておくが、僕はこの年になって、今さら母親の愛情が恋しいわけではない。ただ、年を取るのが心配なだけなのだ。


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ナショナルの電気鉛筆削り [雑文]

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 先日、テレビの深夜番組をなにげなく見ていたら、文房具マニアが集まって、自分の好きな文房具について熱く語っていた。(注1)その中に鉛筆マニアが二人ほどいた。曰く、線の太さが一定でないところがいい、手回しの鉛筆削りの削り始めと削り終わりの感触がいい、削りカスの匂いがたまらない、云々。相当マニアックだったと思うが、普通の人があまり気に留めないようなことに気付かせてもらった。

 そういえば、鉛筆を使わなくなってずいぶん経つなあと思い、引き出しの奥から鉛筆を探し出し、ナイフで削って使ってみた。そしたら、これが意外に自分に合っていることに気付いてしまった。

 まずはこの軽さ。シャーペンやボールペンだってズッシリ重いわけではないけれども、ここでいう軽さは、労力よりも書き味に影響するもので、つまり使っていて心地よいのである。

 それともう一つ、僕は筆記具の先を紙に押し付ける力(いわゆる筆圧)が強い。だから、シャーペンを使うときは、固い芯は使えない。間違えたときに、消しゴムで消そうとしても、紙に強い跡がついてしまって綺麗に消えないのである。だから柔らかい芯を使っているが、こうなると今度は芯が折れやすい。こういう人には鉛筆が向いていると思う。芯が太いので容易には折れない。

 ただし、鉛筆には「削る」という手間がある。これは鉛筆の宿命であり、そもそもシャープペンシルが発明された理由もここにあったわけだが、とにかく鉛筆削りが欲しくなってしまったのである。そこで思い出したのが昔愛用していたナショナルの電気鉛筆削り。乾電池式のものである。

 いつ使っていたかはっきり思い出せないのだが、少なくとも小学生の頃ではない。高校とか大学とか、とにかく結構大きくなってからだったと思う。というのは、2つ年上の姉が手回し式のものを持っていたから、追加で買ってもらえるわけがないし、そもそも僕は小学校の高学年からシャーペンを使っていた。たぶん高校生くらいになってから、なにかのきっかけで鉛筆の良さに目覚めて、これを買ったのだと思う。

 ヤフオクで探してみたら、同じ型のものが1000円で出品されていた。「動作未確認」と書いてあったが、壊れていても、まあなんとかなるだろうと思って入札した。その後、他の入札がなく、そのまま落札した。冒頭の写真は落札したもの。ちなみに僕が昔使っていたのは同じ型の青いタイプだった。

 さて、家に届き、動かしてみようと思って、電池の蓋を開けたら、電池の電極が腐食していた。昔の電池式の機器を久しぶりに開けたらこうなっていることは、よくある話である。これでは電池を入れても動くわけがない。オーバーホールが必要だ。分解してみると、この通り。

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 上部に安全スイッチ(蓋を閉めてONする)と、起動スイッチ(鉛筆を入れてONする)が直列に入っているが、この起動スイッチの電極が完全に腐食していた。この電極は、電池のマイナス側とリード線で繋がっている。電池側から漏れた電解液がガス化してリード線のビニールチューブを伝わって起動スイッチまで伝わって、こちらを腐食させたということになる。こんなの初めて見た。
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 対処としては、電池側は磨いただけ。でも起動スイッチ側は完全に腐食してボロボロだったので、黄銅のワイヤで作り直した。

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 それからもうひとつ。モーターも最初は回らなかった。スイッチを介することなく直接電源をつないでもウンともスンとも言わなかったので、軸を指で回してやったところ、ヨロヨロと回るようになり、やがて回転がだんだん速くなり正常に回るようになった。つまり、長い間使われなかったので、モーターの中のブラシが腐食して電気を通さない状態になっていたと思われる。こういうのも初めてだった。

 さて、そんなわけで、レストアが無事に終了したので、動く様子を動画に撮った。良かったらご覧いただきたい。電気鉛筆削りは珍しいものでもないと思うけど、この機種が動いている動画は珍しいかもしれない。



(蛇足)上に書いたようにシャーペンが発明されたのは、「鉛筆を削る手間を省くこと」だったであろうことは明らかなのだが、今、仕事でものを書くときは、筆記具を使うよりもパソコンのキーでタイプすることの方が圧倒的に多い。そんな時代なら、鉛筆を見直してみることも一興だと思う。昔デメリットだと思っていたことが、さほど気にならないかも知れない。

(注1)あとで調べたところでは、NHKの「さし旅」の2017年6月3日放送分(文房具マニア)の再放送だったらしい。


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電卓の話(1) [雑文]

 先日、ある電卓をヤフオクで落札した。「オムロン60」というもの。1970年代の製品である。なぜこれを買ったのか、一応のいきさつはあるのだが、それは追ってお話ししたい。(簡単に言えば、いつものレトロ趣味)

 下の写真が外観。比較のために、最近の関数電卓を隣に置いてみた。このボディの分厚さが時代を物語っている。
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 ヤフオクで出品されていたのは、なんと箱付きの新品。保証書の保証期限が昭和49年10月31日になっている。家電製品の保証期間は普通1年だから、この電卓は、昭和48年(1973年)に作られた製品であろう。つまり今から44年前であり、そんな時代の製品が、新品の姿を残しているのは奇跡に近い。
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 さて、落札して送られてきたものを開封し、バッテリーパックに電池を入れようとしてびっくりした。古い電池が入っていて、それが腐食している。電池を外したら、電極が腐食で折れてしまった。おそらく、昔、店で試運転をして、その後で電池を外すのを忘れてしまい、長い時間が経ってしまったのだろう。まあ、古物を買えば、こういうことは有りがちなことだと思う。
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 なんとかレストアできそうだったので、クレームをつけるのはやめた。ただ出品者がこれに気づいていなかった可能性が高いと思ったので、一応、こういう状況だったということを知らせた。すると出品者(リサイクルショップ)が、実に良い人で、「申し訳ない。全額返金する」と言う。

 この応答は予想外だった。全額返金されれば品物を返すのが筋である。しかし、それではレストアする楽しみが無くなってしまう。それで、ジャンク品相当の金額だけは負担しようと思い、その旨を出品者に連絡したところ、差額をすぐに振り込んでくれた。おかげで爽やかな取引ができた。(僕は今までヤフオクで何度も取引をしているが、幸いにして不愉快な思いをしたことが一度もない)

 さて、レストア。バッテリーパックをよくよく観察したところ、専用設計のハウジングの中に汎用の電池ホルダを組み込んであることがわかった。だからこの電池ホルダをなんとか外す。
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 下の写真は、取り出した電池ホルダと、アマゾンで買った新品の電池ホルダ。ぴったり同じ寸法ではなかったが、はめ込みのときに、相手側を削ってなんとか合わせ込んだ。
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 新しい方に、配線をそっくり移植する。
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 本体に入れて完成。バッテリーパック以外の部分は新品同様で、正常に機能した。満足満足。
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(つづく)
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ひぐらしのルーツ(7) [雑文]

【おまけ】
 吹上橋の跡を取材に行ったときに撮った写真で、興味深いものがあるので、追加で載せておこうと思う。どんだけこの橋にこだわってるんだと言われそうだが、以前は、この橋にさほど愛着があったわけではない。しかしやはり無くなってみるととたんに恋しくなるもので・・・(そういうことってあるよね)

 実は、記念碑の向こう岸、つまり玉前側がどうなっているかを見てみたのだが、五井駅側よりもリアルな痕跡が残っていた。道路のガードレールの外側に、端の入り口の柱(欄干の端の柱)がちゃんと残っていたのである。
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 この柱には、銘板が取り付けられていて、それをはがして、五井駅側の記念碑に移したらしい。
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 柱の間隔がすなわち橋の幅である。歩幅で測ってみたら5歩だった。僕の一歩は70cmだから、5歩なら350cm。記念碑に書かれていた3.4mとほぼ一致した。前の記事でも少し触れたが、僕は昔この橋を渡るたびに車がすれ違うことができるのかどうか心配だった。でも実際に車がすれ違っているのを見たことはない。みんな迂回して上流の養老橋を使っていたのだろうし、五井大橋が出来た後なら、なおさらここを渡る必要がない。

 現在の「道路運送車両法」(と関連の保安基準)の規定では、軽自動車の車幅は、1.48m以内なのだそうで、幅3.4mの橋であれば、余裕は44センチしかない。これは車の間だけでなく、欄干との間も含めて44cmだから、結局、軽自動車同士でギリギリ、普通乗用車なら絶望的である。それに、当時もしも自分が自動車の運転手だったら、すれ違えるかどうかも心配だが、それより橋そのものが崩れ落ちることが心配で渡れなかったと思う。ただ・・・。たしか車両通行止めにはなってなかったと思うんだよなあ・・・。

下の写真は、記念碑の後ろ側から、玉前側を見たもの。向こう側には橋桁の痕跡が残っている。
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ひぐらしのルーツ(6) [雑文]

(つづき)
 吹上の家というのは、今風に言えばシェアハウスみたいなもので、一軒の家を複数の夫婦がルームシェアの形で借りていたらしい。夫婦二人で住むにはそれでもよかったが、昭和38年に僕が生まれて以来、子供が2人になり狭くなってしまったので、社宅(推定、借上げ社宅)に引っ越すことになった。つまり僕にとっての吹上時代は1年に満たない、ごく短い期間であった。

 さて次の家の場所である。グーグルの地図でJR五井駅と養老川の河口が同時に入る範囲を示してみる。国道16号線の南側、養老川の東側、吹上橋(五井大橋付近)よりも北側でだいたい特徴的な急カーブのあたりまでの地域はかつて「カシ」と呼ばれていた。「カシ」には今回、とりあえず「川岸」という漢字をあてておく。(注1)
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 急カーブのあたりを拡大する。旭硝子の千葉工場があり、国道16号線を挟んで反対側にガソリンスタンドがある。
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 このあたりをさらに拡大すると、下図になる。同じエリアを写真にもしてみる。この赤く塗ったところに「川岸の家」があった。当時は家のすぐ近くに小川が流れていたが、現在はかろうじて細い水路になって残っている。
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 下の写真は、おそらく川岸の家に引っ越した直後と思われる。服装と僕の顔つきからみて昭和38年の秋ごろではないだろうか。
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 それからもう一つ、こちらは着ているものから推して昭和39年の1月とか2月の寒いころだと思われる。お袋によると、この頃はそろそろ伝い歩きができるようになっていたが、歩くより這う方が速く、しかもスピードが尋常ではなかったという。掌にタコができていたそうである。
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 この写真のときから少し時間が経過して、外に出て歩けるようになった頃のある日に、僕の人生の最初の記憶がある。これ以後は、両親の話だけではなく、自分自身の記憶として残っている話が中心になるのだが、そういう話は「ひぐらしのルーツ」というタイトルで語る範囲を逸脱している。よってこのシリーズは物心がつく前までのところで閉じようと思う。

 地図の中にある、国道16号線、ガソリンスタンド、急カーブ、水路、送電鉄塔、これらはすべて記憶の手掛かりであり、なおかつ自分の心の中に残っている原風景である。今後、「ひぐらしの幼年日記」を書く折りがあると思うので、そのための布石を打っておいた。

 長々とお付き合いありがとうございました。

*****
(注1)
 「カシ」という呼び名も吹上(ふきあげ)と同じで、今は正式な地名としては残っていない。「カシ」の漢字は「川岸」と「河岸」の2通り考えられるのだが、昔、五井の町を走る小湊バスの、この地域にあった停留所で「川岸(かわぎし)」という所があったので、案外これが「カシ」の名残をとどめていたのかもしれない。
 ただ、僕の考えでは、元々は "魚河岸" の "河岸" だったのではないかと思う。というのは、この辺一体は、かつては漁村だった。つまり東京湾で水揚げされた魚介類が、養老川を通して内陸に持ち込まれて商取引が行われていたのではないかと思うのである。そして "河岸" が、地元の人の習慣でなんとなく "川岸" に置き変わってしまったのではなかろうか。そもそも昔の地名なんていい加減なものだ。政府が公式に決めていなければ、時代とともにどんどん変化していく。
 なお、小湊バスのバス停「川岸(かわぎし)」を走っていた路線は、今では廃止されてしまったようだ。

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ひぐらしのルーツ(5) [雑文]

(つづき)
 前の記事に書いた通りの縁で知り合った親父とお袋は、1960年(昭和35年)11月、勤労感謝の日に結婚した。そして最初に住んだ所が、吹上(ふきあげ)という所だった。現在この地名は、住所などに使われる公式な地名としては存在しない。「吹上通り」という「通り」の名前としてかろうじて残っている。
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 JR内房線の五井駅からこの道を北西の方向へ歩くと、15分くらいで養老川につく。ここには、五井大橋という大きな橋が架かっている。この橋の五井駅側の一帯が、かつて「吹上」と呼ばれた地域であり、親父とお袋の当時の家は、ここにあった。
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 1961年(昭和36年)11月に姉が生まれ、その1年半後、1963年(昭和38年)5月、僕が生まれた。昔のアルバムの中には、服装から見てすべて同じ日に撮影したものと思われる一群の写真がある。そのうちの3枚をお見せする。おそらく昭和38年、つまり僕が生まれてすぐの夏と思われる。

↓。姉が昼寝している横に寝かせて撮ったらしい。(子供のこういう姿ってかわいいよね)
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↓。破れ障子がいい味を出している。
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↓。ピンボケなのはお袋が撮っているからと思われる。(当時はオートフォーカスなんか無かったので)
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 さて、吹上に関連して、地元の人しか知らないトリビアを語りたい。五井大橋から川の上流側を眺めると、近くに小さな記念碑が建っている。この記念碑は、昔ここに架かっていた吹上橋(ふきあげばし)という橋の跡に建てられたものである。
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 碑文を全文抜き書きする。

吹上橋記念碑
吹上橋は昭和八年十二月、此処養老川に架設され五井地区の発展に寄与してきた
平成九年四月、養老川の河川改修事業に伴い撤去されることになり
六十三年間の歴史に幕を閉じることとなった
この橋への地域住民の愛着と親しみが、永く後世に伝わることを祈念し此処に標す
平成十一年三月  市原市

 僕は、自分が生まれてすぐに住んだところが吹上橋の近くであったことを、幼い頃に両親から聞かされていた。もちろん、生まれてすぐの記憶など残っていない。それでも、吹上橋を渡るときには、いつも自分の生まれたときのことを、なんとなく想像する癖がついていた。

 僕が吹上橋を一番よく使ったのは中学生の頃だった。もうこの頃は別のところに住んでいたが、成長して活動範囲が広がり、自転車であちこちに出掛けるようになったから、この橋もよく使った。欄干が非常に粗く、端を走ると落ちそうで怖かった。記念碑に書かれているように、幅は3.4メートルしかなく、車一台がすれ違えるかどうかという細さだった。昭和8年と言えば自動車がまだあまり普及していない時代だったと思う。人が歩いて渡ることを前提にした橋だったのかもしれない。

 吹上橋の隣に五井大橋が作られたのは、橋のたもとの銘板によれば1974年(昭和49年)である。この時点で実質的に吹上橋の役割は終わったことになる。しかしその後も撤去されずに残っていたのは、やはり地元の人の愛着ゆえであろう。僕が就職で千葉を離れた1987年(昭和62年)にはまだ架かっていた。撤去されたのは碑文によれば1997年(平成9年)4月である。五井大橋が架かって役割を終えた後も、実に20年以上も存続したというのはすごいことではないだろうか。(注1)

 神奈川に移住してもう30年近くたつ。故郷に帰るたびに、その姿が少しずつ変わっていくことに気付くもので、それは寂しいことだが仕方ない。しかし吹上橋が無くなったことを知ったときは、特別な寂しさを感じた。無くなってしまうと余計に恋しくなる。写真を撮っておけばよかった。自分の頭の中に吹上時代の記憶が全くないにも関わらず、吹上橋が、自分の吹上時代の象徴のように感じていたのだった。
(つづく)

***
(注1)
 五井方面から吹上橋を渡るとその辺一体は玉前(たまさき)という地域になる。お袋の話では、子供の頃(おそらく昭和20年頃)吹上橋は大雨が降ると、川の水の力でほぼ必ず橋桁が壊れたのだという。そうなると橋が傾いてしまって使えなくなる。修復に1週間以上かかるので、玉前に住む人たちは五井の町に出掛けるのに、上流の養老橋まで大きく迂回して川を渡らねばならなかった。もしかしたら設計からしてダメな橋だったのかもしれない。
 僕の記憶の中にある中学生時代の吹上橋も、いかにも弱々しく、しかもだいぶ老朽化していた。それを考えると、1997年まで存続していたとは言え、実際には早くに通行止めになっていたのではないだろうか。事故が起こってからでは遅い。しかし大金をかけてメンテするのであれば、すぐ隣に五井大橋を架けた意味がない。


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ひぐらしのルーツ(4) [雑文]

(つづき)
 M建設の仕事は、京葉工業地帯の造成のための海岸の埋め立て工事だった。時代が時代だけに、顧客(つまり千葉県)はイケイケでどんどんお金をつぎ込んでいたらしい。つまりものすごく忙しい時期だったということである。人手不足のM建設(親父を含む)は、いきつけのガソリンスタンドに「事務員を探しているんだが誰かいい人いないかね」と、相談を持ち掛けた。

 前の記事に書いた通り、このガソリンスタンドには、お袋の友達のMっちゃんが勤めていた。ある日、Mっちゃんは、うちのお袋と町で出会ったときに、この ”M建設、事務員募集” の話をした。このとき ”お袋自身が応募する” という選択肢も当然あったわけだが、お袋はそのとき、海産物の商いが楽しくて、会社勤めをする気は全くなかったと言う。結局お袋は自分の妹(つまり僕の叔母)(注1)を紹介した。

 当時は高度経済成長期だったから、M建設だけでなく、世の中のどの会社も目が回るほど忙しかったと思う。現代のようにワークライフバランスなどという概念は無かったはずだし、これからの日本を作るという志を持ってみんながむしゃらに働いていたに違いない。当然残業も多かっただろう。仕事の帰りが遅くなると、M建設の社員が叔母を家まで車で送り届けるのが慣例になっていた。その送り届ける人の中に、うちの親父がいたのである。

 母方の祖父は、M建設の若い衆が叔母を送ってくると、歓迎していつも食事を振る舞ってもてなしていたそうである。これは、娘が世話になっているからという理由ではなかったようだ。祖父はただ純粋に、人と一緒に食事をしたり、酒を飲んだりするのが好きな人だったらしい。たぶん若い衆を可愛がって、「おおよく来た、まあ飯でも食っていけ」、と呼び入れ、若い衆は遠慮しつつもその迫力に負けて、ついつい上がってしまったのではないだろうか。

 さて、その家にお袋がいた。こうして親父とお袋の運命が繋がった。
(つづく)

***
(注1)以前、叔父が亡くなったときに書いた記事に登場したあの叔母である。
参考URL。
叔父の死(2008年の記事)
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2008-12-21

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ひぐらしのルーツ(3) [雑文]

(つづき)
 うちの親父は昭和8年(1933年)4月、静岡の金谷(当時は榛原郡金谷町、現在は島田市に統合されている)で生まれた。金谷といえば蒸気機関車の動態展示で全国的に有名な大井川鐡道が走っているところである。親父はここで商業高校を卒業し、職を求めて上京、四谷にあったM建設という建設会社に就職した。高卒で就職しているから、このときの年齢を19歳とすれば、就職したのは1952年のことだった。

 この頃の日本は、朝鮮戦争(1950~1953年)による特需景気に沸いていた。また前の記事で書いたように、国土総合開発法が施行されたのが1950年、ちょうど千葉県が京葉工業地帯の造成に着手した頃と一致している。つまりこの時代は、就職活動をする学生にとっては売り手市場だったと思われる。親父は就職してまもなく千葉の営業所に転勤した。この人事が、京葉工業地帯の造成のための人員補強であろうことは、まず間違いない。

 一方、お袋の方はというと、昭和10年(1935年)4月、千葉県市原市生まれではあるが、ルーツは新潟(現在の新潟市西区)の五十嵐(いからし)というところにある。祖父と祖母はともにここの出身で、ここで結婚した。新潟でとれた海産物(主にわかめやこんぶ)を千葉に運んで売る行商人だった。

 地元の産物を個人で関東に運んで売るというのは、流通の発達した現代ではあまりピンとこない話であるが、昔のやり方としては普通だったのだと思う。つまり新潟が特別なのではなく、海産物が特別なのでもなく、千葉に来るのが特別だったわけでもない。地元の産物を、個人が、他所の土地へ運んで売る。特に首都圏の人口の密集した地域は良い市場だったのではないか。そして、こういう商いがどこの土地でも普通に行われていたのではないかと思われるのだがどうだろう。

 祖父と祖母が新潟と千葉の間を往復していたのは大正時代だった。やがて昭和になり、子供ができて、それまでのように自由には動けなくなった。その頃、ちょうど東京に海産物の問屋ができて商品をそこから仕入れることができるようになったので、千葉県市原市に定住するようになったということらしい。

 商売のやり方としては訪問販売ではあったが、知らない家にいきなり飛び込んで売るわけではなかった。すでに開拓された得意先があって、そこに行けばたいてい買ってくれたのだという。つまり祖父と祖母は顧客に近いところに居を定めたということである。うちのおふくろも中学校を卒業したあと、高校には進学せず、両親の商いを手伝っていた。主要取引先は、成田山新勝寺の近所の旅館だったという。

 さて、お袋にはMっちゃんという小学校以来の友達がいて、この人は独身時代、S井さんという人の経営するガソリンスタンドで働いていた。そのスタンドで給油するお得意さんの中に、親父の会社があった。
(つづく)
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