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平家物語を読みたい(17) 平家滅亡 [読書]

 最後に壇ノ浦の合戦のあとを含め、平家一族(注1)がどうなったかまとめてみた。ただ人数が多いので、清盛の子供、孫あたりに絞る。

 まず長男の重盛と次男の基盛は父親よりも先に亡くなっている。重盛の長男の維盛は都落ちの最中に屋島を抜け出して滝口入道を訪ね熊野で入水した。(これは「維盛と滝口入道」のところで紹介)その息子の六代(注2)は、壇ノ浦が終わった時点で8歳だった。

 嫡系中の嫡系であったが幼かったので、女房たちが文覚(頼朝に蜂起を勧めた僧)に助けを求めた。文覚は鎌倉まで行き頼朝に六代の助命を嘆願し、結果、助けられた。頼朝の立場としては文覚にも義理があったし、また平治の乱のときに、清盛に殺されるところを重盛に助けられた恩があったので、その孫を助けた形になった(注3)。

 その後、六代は出家して仏道修行に励んでいたが、20年ほどたって(時は鎌倉時代)文覚が不祥事を起こしたときに連座責任で30歳を過ぎたころに殺された。この人が死んだ時点で、清盛の子孫の男系が完全に滅びたことになる。

 三男の宗盛。二人の兄が早く亡くなってしまったので、嫡男として一族を率いる立場になったが、この人は元々そういう方面に向いていない人で、平家物語では、かなりカッコ悪い役回りになっている。そもそも義仲が京に攻め寄せたときに、戦いもせずに都落ちを決めたというのが、すでにカッコ悪い。

 さらに壇ノ浦では、みんなが入水するから自分も入水しようか、と迷っていたので、見ていた近くの侍がイライラして海にドボンと突き落とした。これを見た息子の清宗も一緒に飛び込んだ。ところが親子そろって泳ぎが得意だったため死にきれず、清宗は「父上が沈んだらあとを追う」と思い、宗盛は「息子が沈んだらあとを追う」と思い、互いに様子を見て浮いていたら、源氏に助けられてしまった。

 義経は宗盛親子を捕虜として鎌倉に連行した。その道中で宗盛は義経に「なんとか助けてくれ」と命乞いをしている。義経は「鎌倉殿は情け深い方だから島流しくらいで助かるだろう」などと慰めたが「たとえ流されるのが蝦夷地であっても生きていたいものだ」などと言ったという。武士としては、かなり情けない部類の人ではないだろうか。まあ情けないとは言っても一応、平家の総大将である。結局、宗盛親子は、頼朝に面会したあと、京に戻される途中の近江の国(滋賀県)の篠原というところで斬首された。

 四男の知盛は、壇ノ浦で最後まで戦って入水。五男の重衡は一の谷で捕虜になり頼朝の指図で伊豆に軟禁されていたが、壇ノ浦のあと奈良焼き討ちの責めを負い、奈良に連行されて斬首された。(このシリーズの「重衡と千手前」で紹介)

 最後に建礼門院徳子。壇ノ浦では安徳天皇(=自分の子供)と一緒に入水したが、源氏方に助けられ捕虜になった。その後、他の生き残った女房たちとともに出家して、大原の寂光院という庵に住んで、一族の菩提を弔いつつ天寿を全うしたという。平家物語は全12巻であるが、そのあとに1巻だけ番外編のような位置づけで、灌頂巻(かんぢょうのまき)(注4)というのがあって、ここにそのいきさつが書かれている。

 壇ノ浦が終わって1年ほど経ったある日、後白河院が寂光院を前触れもなく訪ねた。このときに建礼門院が自分の人生を六道輪廻(注5)になぞらえて語るシーンが興味深い。清盛の娘として高倉天皇に嫁ぎ、皆にかしずかれて暮らしていた頃は極楽のようだった。義仲に攻められて都落ちをしたときは人間界の怨憎会苦、愛別離苦を経験した。大宰府を追われ海上を彷徨い、真水が飲めなくて苦しんだときは餓鬼道とはこういうものかと思ったし、その後の瀬戸内の戦は修羅の世界、壇ノ浦でみなが次々に斬られ入水するところは地獄とはこういうところかと思ったという。

 平家物語の最後は、この寂光庵の尼僧たちがみな往生を遂げたところで終わっている。荒々しい戦や戦後処理が終わり、ラストは穏やかな、涅槃寂静を思わせるシーンで終わる。ハッピーエンドではないけれども、この終わり方は上手で、爽やかだなと思った。

***
 長いこと書いてきた「平家物語を読みたい」のシリーズはこれにて終了する。小学館の「日本古典文学全集」のシリーズは、大変勉強しやすい本だった。この本のおかげで古典を読む楽しさを十分に味わうことができたと思っている。勉強会に誘ってくれた姉にも感謝。(記事を読んでくださった皆さんも、ありがとうございました)

 ・・・ついでに。2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まっている。今日の時点で2回が放送され大変面白い。伊豆に流されていた源頼朝が蜂起し、平家を滅ぼして鎌倉幕府を開き、そのあと北条氏が受け継いで・・・という話になっていくらしい。平家方から見ると壇ノ浦=滅亡であるが、源氏方からみると、まだ夢の途中である。

 源平の争乱と明治維新は以前から大河ドラマでは何度も取り上げられている。やっぱり大革命というのはドラマの宝庫なのだろう。(おわり)

***
(注1)「平氏」という言葉は、桓武天皇から臣籍降下して「平(たいら)」という姓を名乗る一群の人々を指すが、「平家」といった場合は慣例的に平清盛の一族を指すのだそうだ。これは今回初めて知った。

(注2)平正盛(清盛の祖父)から数えて六代目だから六代というのだそうだが、なぜそこから数えるのか不明。いずれにしても名前はあるらしいが、平家物語では一貫して六代と呼ばれているので、ここでもそう呼ぶ。

(注3)平治の乱のときに頼朝は13歳くらいだった。本来ならば清盛に殺されるところを、池禅尼(清盛の継母)が助命を嘆願、清盛の弟の頼盛と長男の重盛が代わる代わる清盛の説得に当たり、結果、助命されて伊豆に流されたという経緯があり、頼朝は、頼盛と重盛には恩義を感じていた。

(注4)灌頂(かんぢょう)・・・仏教の言葉で、頭に水を灌ぐ儀式を表す言葉で、仏道修行の最後の仕上げにこれをやるらしいが、平家物語では、建礼門院の晩年を修行の最終段階に見立ててこのようなタイトルになっているらしい。

(注5)六道輪廻・・・仏教の人生観。極楽、地獄、人間、修羅、餓鬼、畜生の六つの世界があって、人間は死んでも転生(生まれ変わり)して、この六つの世界をめぐるという思想。例えば、人間界で無駄に動物を殺した人にはバチが当たって、来世は畜生道(動物の世界)に落ちる、などという考え方。

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平家物語を読みたい(16) 決戦!壇ノ浦 [読書]

 さて、屋島の合戦が終わったあと、平家一族は、彦島に逃げ込んだ。ここは、本州の最西端である。
屋島と彦島.jpg

 壇ノ浦の合戦の前、平家を取り巻く環境がどうなっていたのかをちょっと整理してみた。というのは、屋島が終わったあと、近くの有力者たちの寝返りが結構起きていて、壇ノ浦のとき、実際はもう放っておいても負けるような状態になっていたのだ。

 まず九州。義仲に京を攻められて都落ちをしたときに、平家一族は一旦太宰府に入ろうとしたが、地元の侍がすべて源氏方についていて追い出されてしまい、居場所がなくなった結果、屋島に落ち着いたという経緯があった。

 つぎに熊野権現の別当、湛増(注1)。この人はもともと平清盛と良好な関係にあったが、戦況が源氏に有利になり、リーダーとして源氏につくか、平家につくかの判断を迫られた。平家物語には書かれていないが、源氏と平家、双方から味方につくように迫られていたようで、中立という選択肢はなかったようだ。湛増は戦の行方を闘鶏で占い、源氏につくことにしたという。平家にとっては神に見放されたも同じである。

 それから、四国の有力武将たち。伊予の武将、河野通信(こうのみちのぶ)、この人はもともと源氏方だった。彦島に対して四国のこの位置に味方がいるというのは源氏方にとってはかなり有利だったのではないか。

 また四国の最大勢力の田口家は平家方であったが、屋島のあと、義経の部下の説得工作により田口教能(たぐちのりよし)が投降。総勢3000騎が源氏方につくことになった。そして極めつけが、田口重能(たぐちしげよし)。この人は田口教能の父親で、壇ノ浦の合戦の直前、息子が源氏方についたことを知り、合戦の最中に寝返り、勝敗を決定つけることになる。

 ・・・という四面楚歌の状態である。こういう場合、現代人ならば、おそらくほとんどの人が「もう無駄な殺生はやめ、平和的な説得工作に徹した方がいいのではないか」と考えるだろうし、実際そういう考えもあったらしい(注2)が、当時の武士の使命感が「敵と戦って首を取り、勝って報償をもらうこと」なので、何もせずに静観するということは、結局できなかったのではないか。これは僕の想像である。

 さて源氏が瀬戸内海側、つまり東側から彦島に攻め込もうとすれば、関門海峡を通る必要がある。屋島が終わって1ヶ月後の3月。壇ノ浦(現在、関門橋が架かっている当たり)で平家軍と源氏軍が激突することになった。
彦島B.jpg

 壇ノ浦の合戦は、海戦である。双方が船に乗って矢の打ち合いや船に飛び乗っての斬り合いをする。大将や身分の高い人たちは、唐船と呼ばれる高級な船に乗っていて、侍達はいわゆる兵船に乗るのが普通だったようだ。ところが、このとき平家方には唐船と兵船を入れ替える作戦があった。身分の高い人達を兵船に乗せ、唐船の方に侍を乗せる。すると源氏方は唐船の方を攻めてくるだろうから、そこを挟み撃ちにしようというものだった。

 ところが、この計略は失敗に終わった。というのは先に書いた、田口重能が、平家方として参戦しながら、合戦の最中に寝返って源氏につき、身分の高い人達が乗っている兵船を攻撃したので、源氏方に計略がバレてしまい、平家方は劣勢に陥った。

 壇ノ浦の合戦では、勇ましい話はあまり無いようで、どちらかというと平家一族の悲壮な死に方の描写が目立つ。とくに悲壮極まるのが、わずか8歳の幼帝、安徳天皇の入水である。時子(清盛の未亡人)が「我が身は女であっても敵の手にかかって死ぬつもりはない。帝のお供に参る。志のある者はあとに続きなさい」と女房たちに呼びかけ、「波の下にも都がございます」と帝を慰めて、曲玉と草薙剣を携えて帝とともに入水した。(注3)

 たくさんの人が入水し、ほとんどの人が死んだ。しかし建礼門院と総大将の宗盛を含む80人ほど(注5)が源氏方に助けられ捕虜になったという。三種の神器のうち八咫鏡と曲玉は入れ物が海面に浮いて見つかったが、草薙の剣は海底に沈んでしまった。源氏方が近くの海女を動員して必死で捜索したが見つからなかったという。(注4)この合戦をもって、平家はほぼ全滅し、源氏方の勝ちとなった。このあと戦後処理につづく。

 YouTubeのまんが日本昔話の公式サイトに「耳なし芳一」の話がアップされているので紹介する。壇ノ浦の合戦で死んだ平家の人々の亡霊が、芳一の琵琶の弾き語りを聞きに来る話。
下記URL。
https://youtu.be/vGxf8jgB7ds

***
(注1)熊野権現。この時代、熊野詣(もうで)が非常に流行した。清盛も重盛も詣でたし、維盛も屋島を抜け出して高野山に滝口入道を訪ねたときに熊野にも詣でている。また鹿ヶ谷の陰謀で鬼界が島に流された3人のうち俊寛を除いた2人も島に熊野権現を勧進して帰郷を祈願している。別当というのは宮司のリーダー。湛増(たんぞう)とは(わかりにくいが)人名である。
(注2)壇ノ浦の前に、京の都で後白河院と摂関家がそのような話し合いをしていたらしい。
(注3)安徳天皇は歴代の天皇の中で、戦乱が原因で亡くなった唯一の天皇である。
(注4)現在の草薙の剣は、伊勢神宮から献上されたものだいう。(Wiki情報)
(注5)平家物語の記述によると、武将38人、女房43人とある。

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平家物語を読みたい(15) 那須与一と扇の的 [読書]

 平家物語は全12巻であるが、クライマックスともいうべき屋島の合戦と壇ノ浦の合戦は第11巻に収録されている。今回書きたいのは屋島の合戦である。一ノ谷の合戦が終わって1年ほど経った1185年1月。都にいた義経は後白河院から、平家追討の院宣を受け、準備を開始した。

 2月17日の夜。出撃の予定であったその日は強風で、常識で考えれば、とても出航できないような悪天候であった。しかし義経は周囲の反対を押し切り、総勢200艘のうちのわずか5艘で出航した。そして普段なら3日かかるところを、強風のため、わずか6時間で勝浦(徳島県東部)に到着した。上陸した義経は地元の侍を案内人にして、陸路で屋島(現在の香川県高松市)へ進軍した。馬が50余頭乗っていたと書かれているから、勢力はわずか50騎強であったことになる。

 翌日、2月18日、義経軍は屋島の平家の陣に攻め込んだ。義経は少人数であることを悟られないように、一騎ずつではなくできるだけ数騎ずつ群れをなして、平家の前に姿を現したという。平家は大群であると勘違いして、みな舟にのって海上に逃がれ、陸と海で矢の打ち合いとなった。また、阿波、讃岐で平家に背いて源氏につこうとしていた侍が集まりはじめ、義経の軍はいつのまにか300騎ほどに増強されていった。

 その日、夕暮れになり、一時停戦というときに、平家方の船に一人の女性が現れ、赤い扇で真ん中に金色の日の丸を描いたものを竿に掲げて、これを射て見よというふうに陸へ合図をした。これを見た義経は、誰かあれを射る者はいないか、と部下に問うた。すると、味方の中に那須与一宗高(なすのよいちむねたか)という名手がいると知らされた。

 義経は与一に扇を射るように命じた。波に揺れ動く船の扇の的を射るのは至難の業であることは誰にでもわかる。指名された那須与一は一旦は尻込みしたが、命令に背くことは許さんと言われ覚悟を決めた。結果、見事命中させるのだが、ここの描写がスローモーションの映像を見ているようで実に美しいので、原文を紹介したい。

***
 与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の明神、日光権現、宇都宮、那須のゆぜん大明神、願はくはあの扇のまンなか射させてたばせ給へ。これを射損ずる物ならば、弓きり折り自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見ひらいたれば、風もすこし吹きよわり、扇も射よげになッたりける。与一鏑をとッてつがひ、よッぴいてひやうどはなつ。小兵といふぢやう十二束三伏、弓は強し、浦ひびく程長鳴して、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射きッたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさッとぞ散ッたりける。夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日いだしたるが、白浪のうへにただよひ、うきぬ沈みぬゆられければ、奥には平家ふなばたをたたいて感じたり。陸には源氏箙をたたいてどよめきけり。
***

 さて、このあと、平家の船の上で興に乗った侍が舞いを始めた。これをみた与一は、この侍にも矢を命中させ、殺してしまった。そこから戦闘が再開したが、結局夕暮れで停戦。平家は、船を屋島の東側の志度というところへ移動させたが、源氏は陸路でこれを追跡し、平家は上陸できず、再び海に逃れた。このあとは壇ノ浦の合戦につづく。

 というわけで、ここは那須与一の最高にかっこいいシーンなのだが、それはそれとして、僕が気になったのは、扇の的を射よと挑発する女、的を射たことに浮かれて舞う男。このふたりの人物は一体何を考えているのだろう。ここは戦場であり、矢が飛び交っているのである。侍以外は船の底にじっとしていればよいものをそこにのこのこ出てきたら射殺されてもしかたない。実際、舞を舞った男は即座に射殺されている。恐怖のあまり気が触れたとしか解釈できない。 

 2005年の大河ドラマ「義経」では、このシーンがどのように描かれていたのか、一緒に勉強会をやっていた姉に聞いたところ、「あの扇を掲げる役目はたしか能子(よしこ)がやったんだよ」と教えてくれた。あとでシナリオ本で確認したところ、確かにその通り。時子(清盛の未亡人)が戦の行方を占うために、扇の的を射させるといいだし、その役目を能子(清盛が常盤御前に生ませた子、義経にとっては同腹の妹)が買って出た、という風に描かれている。

 大河ドラマ「義経」は、宮尾登美子の「宮尾本・平家物語」を原作にしているので、原作本も調べてみたが、こちらは女性の方は玉虫と言う名の女房とされている。つまり能子をここに登場させ、敵同士になってしまった兄と妹の対面という意味を持たせたのは、どうやら大河ドラマの脚本家のアイデアらしい。古典の平家物語が、現代の作家によって洗練されている。こういうのは見ていて興味深い。

 なお、この「扇の的」のエピソードは、神田松之丞(伯山)さんの講談がyoutubeにアップされていた。ぜひ紹介したい。この動画がいつまで存在するかは保証はできないが。
下記URL。
https://youtu.be/Wcz3mLFpOLo

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平家物語を読みたい(14) 重衡と千手前 [読書]

 前の記事で、一ノ谷の合戦まで来たが、ここでちょっとだけ前に戻る。1180年12月に起きた奈良の興福寺東大寺の焼き討ち事件である。以前の記事で、以仁王が反乱を起こしたときに、三井寺と興福寺が以仁王の味方についたことを書いた。(注1)その後、都では、興福寺が以仁王の味方についたのだから、平家が興福寺を攻めるに違いないとの噂がたち、それに呼応するように興福寺が蜂起した。

 興福寺は藤原氏の氏寺である。都から摂政藤原基通(もとみち)が取りなしに行ったが、興福寺は言うことを聞かず、朝廷からの使者を送っても、その髻を切って侮辱したり、首を切って晒したりした。清盛は激怒し、息子の重衡(しげひら)(注2)を大将にして、4万騎の軍勢を奈良に差し向けて興福寺を攻撃した。

 奈良に旅行した人ならわかると思うが、興福寺と東大寺はすぐ隣である。興福寺が攻められれば、東大寺も当然巻き込まれる。夜の戦闘になり、重衡はあたりの民家に火を放った。これが冬の乾燥した大気のせいであっという間に燃え広がり、興福寺も東大寺も建物はもちろん経典も仏像も全て燃えてしまった。戦禍を逃れてこれらの寺に逃げこんでいた民衆もみな焼け死んでしまい、奈良は壊滅状態となった。

* * *

 そしてその大事件から約3年後の1184年3月、一ノ谷の合戦。このとき重衡は、馬に敵の矢が当たって動けなくなり、味方の付き人も怖じ気づいて逃げてしまった。もはやこれまでと自刃しようとしていたところ、源氏方の庄四郎高家(しょうのしろうたかいえ)という侍が、重衡を説得して自刃をやめさせ、自分の馬に乗せて捕虜にしたという。

 重衡は京へ送られた。そして後白河院(注4)から平家方へ「三種の神器と人質の重衡の身柄を交換する」という取引を持ちかけることになり、重衡の使者が屋島へ送られた。しかし平家は「三種の神器を返したところで重衡が戻ってくるとは思えない」と拒絶。取引は失敗した。

 その後、重衡は鎌倉の頼朝のところに送られた。その理由は平家物語には明確に書かれていないが、想像するに「重衡は奈良の大衆から恨まれる存在であって都に置いておけば火種になるから、都から遠い鎌倉にひとまず置いて何かの取引に使おう」と考えたのではないだろうか。

 実際、頼朝は鎌倉に呼び寄せた重衡に対面し、奈良の焼き討ちについて尋問をしている。そのとき重衡は、「奈良の件は僧都を懲らしめるためにしたことであるが、最初から壊滅させるつもりでやったわけではない。しかしいずれにしても、もう自分の命運は尽きた。覚悟は出来ているから早く首を刎ねてくれ」と言った。頼朝は重衡の態度に感服し、身柄を伊豆の国の狩野介宗茂(かののすけむねもち)に預けることにした。宗茂は情け深い人で、重衡を丁重に扱った。

 宗茂は、千手前(せんじゅのまえ)という女性に重衡の世話をさせた。あるときは、湯女になって入浴の手伝いをし、あるときは宴会をして琵琶や琴を演奏したり歌を歌ったりした。重衡も、都の育ちで芸事は一通り身につけているから、千手前がただ者でないことはすぐにわかったし、千手前も「戦のことしか考えない粗野な人物かと思っていたがまことに雅な人だった」と頼朝に報告している。

・・・しかし頼朝の戦略であろうとは言え、捕虜に対してこんな歓待の仕方ってあるだろうか。宴会はまああるとしても、湯女なんてやられたら、ただ事では済まないと思うのだが。その後、壇ノ浦の合戦ですべてが終わったあと、重衡は結局奈良に連行されて斬首されることになるが、千手前はその知らせを聞いて出家し、重衡の菩提を弔ったそうである。そうしたことを考えると深い仲になっていたと考えても不自然はなかろう。(注3)

*  *  *  *  *

(注1)URLは下記。
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2020-12-02
(注2)清盛の息子は、上から重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡の5人。重衡は5男である。
(注3)このあと千手前が重衡の子(しかも男の子!)を産んだりすれば、もっと話が広がるんじゃないか、などと想像してしまった。いやいやキリがない。
(注4)平家が都落ちするとき、後白河院を一緒に連れて行くはずであったが、院はこれを事前に察知してうまく隠れてしまい、結局都に残留していた。



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平家物語を読みたい(13) 維盛と滝口入道 [読書]

 明治27年(1894年)に発表された、高山樗牛の「滝口入道」(注1)という小説がある。この小説、平家物語を題材にしたもので、一ノ谷の合戦のあと、維盛(=重盛の子=清盛の孫)が屋島を抜け出して、高野山に登るいきさつが書かれているのだが、これが平家物語よりも面白い。だからここの話は、小説の方で紹介したい。ただ平家物語とはちょっと違う部分はあるので、そこは注記を入れることで明らかにする。(注2)

***
■平家全盛の時代、ある花見の宴のときに、建礼門院(注3)に仕える横笛という女房が舞を披露した。重盛に仕える武士の斎藤時頼は、その美しさに一目惚れし、恋文攻勢が始まった。しかし横笛に恋する男がもう一人いて、横笛のところにいた老婆を買収して斎藤時頼の悪い噂を流し、横笛を自分の方に振り向かせようと画策していた。横笛は二人の男性から同時に言い寄られ、為す術を知らず、結局時頼に返事を書くことはなかった。(注4)

■しかも時頼は父親から身分違いの恋を強く反対された。「好きでもない人と結婚するつもりもないが、親に背くこともできない」と悩んだ末、時頼は出家してしまった。横笛は、自分が何もできずに時頼が出家してしまったことを知り、自分の仕打ちを悔やんだ。そして時頼が嵯峨の往生院というところで修行しているという噂を聞き、一人でそこを訪ねた。しかし時頼は人違いだ、と横笛を追い返してしまった。(注5)

■その後、時頼(=滝口入道)は、巡錫(注6)の途中で、休ませてもらった民家の老婆から、偶然にも横笛の消息を知らされることになった。その月の初めに、近くの草庵に美しい尼僧が住み着いた。村人たちは、尼僧は俗名を横笛といい恋に破れて出家したらしい、と噂した。思い患うことがあったのか、尼僧は程なく帰らぬ人となった。村人たちは草庵の傍らにその人を埋葬したという。滝口はこの話を聞いて落涙し、墓を訪れ、横笛の冥福を祈った。(注7)

■時は流れ、重盛、清盛は世を去った。頼朝が挙兵し、義仲が都へ侵攻。平家は都を追われた。維盛は一ノ谷の合戦のあと、付き人の足助二郎重景(あすけじろうしげかげ)とともに屋島を抜け出し、そのとき高野山にいた滝口入道を訪ねた。そして、出家をして姿を変えて都に戻って妻子に会いたいと言った。滝口は生前の重盛から「これから平家は衰退していく。維盛は頼りないからお前が支えてやってくれ」と言われたことを思いだした。(注8)

■その夜、維盛の付き人の重景が滝口の部屋に来て、昔のことを懺悔した。滝口が横笛に恋していたときに、横笛のところにいた老婆を買収して滝口の悪い噂を流し、横笛を自分の方に振り向かせようと画策していた男は重景であった。「貴殿を出家に追い込んだのも、横笛を死なせてしまったのも、元をたどればみな自分のせいである。許して欲しい」と詫びた。滝口は、このことは感づいていたし、何事も過ぎた昔は、恨みもなく喜びもなしと言い、水に流した。(注9)

■滝口は重盛の遺言、維盛の名誉を思い、翌朝、維盛を諫めた。「武士ならば、たとえ負け戦でも、敵に最後の一矢を報いて討ち死にするのが道であろうに、平家の嫡流が、こともあろうに自分だけ逃げ出すとは何事か。すぐにでも屋島に戻って一門と運命を共にすべし」(注10)維盛は返す言葉もなく、翌日、滝口が外出している間に高野山を下りて、和歌の浦で重景とともに入水した。滝口入道は、これを知り、後を追うように切腹した。(注11)

*****
・・・というストーリーなんだが、どうだろう。僕としては自信を持って人に勧めたい本である。(まあ全部語ってしまったあとで勧めるのも何だが)文語体を読むのにいささか苦労するが、美しい日本語なので時間をかけて読む価値はある。なお僕がこの小説で一番心を打たれたのは、滝口が横笛の墓参りをしたときの描写だった。ここは小説をそのまま引用して紹介したい。嗚呼、諸行無常。

 「滝口入道、横笛が墓に来て見れば、墓とは名のみ、小高く盛りし土饅頭の上に一片の卒塔婆を立てしのみ。里人の手向けしにや、半ば枯れし野菊の花の倒れあるも哀れなり。辺りは断草離々として跡を着くべき道ありとも覚えず、荒れすさぶ夜々の嵐に、ある程の木々の葉吹き落とされて、山は面痩せ、森は骨立ちて目もあてられぬ悲惨の風景、聞きしに増りて哀れなり。ああ是れぞ横笛が最後の住家よと思へば、流石の滝口入道も法衣の袖を絞りあへず、世にありし時は花の如き艶やかなる乙女なりしが、一旦無常の嵐に誘はれては、いづれ逃れぬ古墳の主かや。 ・・・」


******
(注1)滝口入道(たきぐちにゅうどう)・・・帝の住む清涼殿(せいりょうでん)を警護する武士の詰め所が、水路の落口の近くにあったことから、警護の武士は滝口武者と呼ばれていた。主人公の斎藤時頼は滝口武者であったことから斎藤滝口時頼と呼ばれていた。この人が出家して滝口入道と呼ばれるようになった。
(注2)ネタバレになってしまうが、だいぶ古い小説で、あらすじを紹介するくらいは許されるだろう。かつては岩波、新潮、角川から文庫本が出ていたが、今はすべて絶版で、古書でしか手に入らない。なおこれから入手しようとする人がいたら角川を薦める。挿絵が入っていて雰囲気が良いし、また難解な言葉の注釈がその言葉のページに載っている。(新潮は巻末に一括。岩波は注釈がない)
(注3)建礼門院・・・清盛の娘。高倉天皇に嫁いで安徳天皇を生んだ。結果、清盛は天皇の祖父ということになる。
(注4)花見の宴、第三者の裏工作などは高山樗牛の創作。平家物語では時頼と横笛は登場したときにすでに恋仲になっている。
(注5)平家物語では、時頼が、恋仲になっていた横笛を一方的に捨てることになっていて、あまりの冷酷さに違和感を覚えるが、小説では、恋仲になる前に時頼が相手にされず失恋したことになっていて、横笛の方にある程度の過失を設定している。
(注6)巡錫(じゅんしゃく)・・・僧侶が各地を回って人々を教化すること。
(注7)平家物語では、滝口は、自分が出家したあとで横笛も出家したことを知り、一度は文(歌)を交わしたりなどしている。しかし小説の方では「横笛が出家していた」という事実を知ったとき横笛はすでに亡くなっていた。その方が物語の演出としてはドラマチックだ。
(注8)平家物語では、生前の重盛と斎藤時頼が話をするシーンはなく、また維盛は出家して熊野三山に参拝して入水したいと考えていて、滝口入道はこれらすべてを手助けしている。
(注9)この懺悔も、平家物語にはない高山樗牛の創作である。横笛の話と維盛の話は平家物語では、無関係のエピソードになっているが、付き人の重景をこういう悪役に仕立てることで、二つのエピソードが上手く結びついている。
(注10)諫めるシーンは小説の創作である。高山樗牛には「滝口は入水の手助けなんかしていないで維盛をこう諭すべき」という思いがあったのではないか。
(注11)平家物語では、維盛の入水のあとの滝口の消息は書かれていない。


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平家物語を読みたい(12) 敦盛の最期 [読書]

 都落ちした平家の一族は、太宰府(現在の福岡県太宰府市)に拠点を築こうとしたが、地元の侍達がみな源氏方になっていて追い出されてしまい、結局四国の屋島(現在の香川県高松市)に落ち着くことになった。

 一方、義仲は、京の都を占領して一時期大きな権力を握ったが、やりたい放題で清盛の時代よりひどいことになり、鎌倉の頼朝が義経を派遣して、義仲は討伐されてしまった。頼朝は京を制圧したことになり、ここから義経が大活躍することになるが、この辺の事情は過去に何度もドラマや映画のクライマックスになっているので、知っている人は多いと思われる。

 義経軍が義仲を滅ぼしたあと、平家が滅びるところまで、小さいのを除いて代表的な合戦は一ノ谷、屋島、壇ノ浦と続く。今回書きたいのは一ノ谷の合戦のエピソードになる。なお、一ノ谷は現在の兵庫県神戸市須磨区というところで、明石海峡大橋の東側の大阪湾に面している。平家の拠点がここに一つあった。(注1)

 義経軍は、いわゆる「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の挟撃作戦により平家を追い詰め、海上に逃れるしかなくなった平家の侍たちは、海に浮かぶ船(注2)に退却しようとしていた。これを追跡する源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)という侍が、馬で海に進んでいく平家の侍の一人に「敵に後ろを見せるのか。引き返してこい」と呼びかけた。

 相手は呼びかけ通り戻って来た。組み付いて馬から落ち、そのまま直実が首を取ろうとして顔を見ると、自分の息子くらいの若者だった。直実が名前を尋ねたところ、若者は名乗らずに、「首をとって人に聞いてみれば、みんな知っているだろう」と答えた。直実はこの若者に情がうつり、助けようとしたが、源氏方の味方が後ろから来てしまった。

「助けたいが味方が来てしまった。人の手にかけるくらいなら自分が討つ」
「いいから早く首をとれ」

 直実は仕方なく、この若者の首をとった。若者は笛を腰に差していた。あとで聞いたところ、この若者は経盛(清盛の2つ下の弟)の息子の敦盛だった。笛の名手で、持っていた笛は、小枝(さえだ)という名品だった。直実は、その合戦の日の早朝に、城の中から風流な管弦の音が聞こえてきたのを思い出し、さては笛を吹いていたのはこの人であったか、と気づいた。直実はこのときのことで、心に深い傷を負い、これがきっかけで後に仏門に入ることになったという。

***

 明治時代に作られた文部省唱歌で、「青葉の笛」という歌がある。一ノ谷の合戦の後の、敦盛の最期と、それから、前の記事で書いた忠盛の話を唱歌にしたものだが、僕はこの歌を一緒に勉強会をやっていた姉から教わって最近知った。聞いたことのない方、YouTubeの動画で聞けるので是非聞いていただきたいと思う。(この動画がいつまで存続するかはわからないが)よくぞこれほど悲壮なメロディーを作れたものだと感心するくらい悲壮な曲である。
(下記URL)
https://youtu.be/8UShL2FwUNM


青葉の笛

一ノ谷の戦敗れ 
討たれし平家の公達哀れ
暁寒き須磨の嵐に
聞こえしはこれか
青葉の笛

更くる夜半に門を敲き
我が師に託せし言の葉哀れ
今際の際まで持ちし箙に
残れるは「花や今宵」の歌

*********

(注1)拠点があったといっても、都落ちしてから城を新築したとは思えない。協力者から提供された建物と思われる。

(注2)海に浮かぶ船・・・もともと清盛の父親の忠盛は瀬戸内で海賊退治をやっていた人だったので、平家は瀬戸内海に強い基盤(=協力者)をもっていた。船でこの辺を動き回ることは、もともと得意分野であって、陸上よりも海上ルートで移動することが普通のことであったと思われる。戦も終盤は海戦が多い。

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平家物語を読みたい(11) 平忠度の歌 [読書]

 さて、木曽義仲が北陸で平家軍を破り、いよいよ京の都へ迫ってきた。義仲の知略により、比叡山は義仲方につくことになり、平家方が義仲の軍に対抗できる見通しはなくなった。ここで平家方のリーダー宗盛(むねもり)(注1)は、都を捨てて、西方へ落ち延びることを決意する。

 7巻の「主上都落」「維盛都落」「忠度都落」「経正都落」「一門都落」「福原落」などの章には、一族が混乱しながら都を出て行く様子が描かれているが、この記事で取り上げたいエピソードは「忠度都落」である。平忠度(たいらのただのり)という人は、忠盛の6番目の男子(注2)で、清盛の弟である。あちこちの戦でリーダー格を担った人だったが、武士としてだけでなく歌人としても名を為した人だった。

 忠度は、都落ちをした後で、思い直して都にまた戻ってきた。そして歌の師匠であった藤原俊成(としなり)(注3)を訪ねた。忠度は自分の歌を書いた巻物を俊成に手渡し、「今後、歌集を編むことがあったときに、この中の自分の作品の中で良い物があったら、ぜひ載せて欲しい」と頼んだ。俊成は忠度の気持ちを汲み取り、この頼みを快諾した。(注4)

 一旦都を立って、また戻ってきたという、このときの忠度の心の迷いは、いかばかりであったろうか。そもそも都落ちをするときに、自分の歌を書いた巻物をもって出かけることが、どれほど歌に打ち込んでいたかを物語っている。そして都を出たあとも「この歌と共に討ち死にするべきか、それとも世に残すべきか」とか「師匠のところに預けてくればよかった」とか逡巡している様子が思い浮かぶのである。潔さを旨とすべき武士としては、いささか格好悪いけれども、とにかく忠度は都に戻って師匠に巻物を預け、ようやく迷いを断ち切って味方に合流した。

 その後、忠度は一ノ谷の合戦で戦死する。討った側の侍は、この人物が誰であるか、最初はわからなかったけれども、箙(注5)に、文が結び付けられていて、それを解いてみると歌が一首書かれてあった。

行き暮れて木の下かげを宿とせば 花やこよひの主ならまし 忠度
(旅の途中で日が暮れて桜の木の下陰に宿るならば、桜の花が今夜の主となり、もてなしてくれるであろうか)

 この歌により、討たれた人が忠度であることがわかった。このことを知った侍たちは、敵も味方もみな、その才能を惜しみ悲しんだという。

 この歌、僕のような素人でも素直に感動できる、実に美しい歌だと思う。。一ノ谷の合戦があったのは1184年3月20日。ちょうど桜の花の咲く季節だった。



**************************

(注1)清盛の長男の重盛は父より先に亡くなり、次男の基盛も早世していたから、この時点で平家一族のリーダーは三男の宗盛だった。

(注2)平家物語は、平清盛の父親の忠盛が手柄を立てて殿上人になるところから始まる。以下は第一巻の「鱸(すずき)」という章に書かれている話である。当時、忠盛には、愛人がいて、この人は、鳥羽法皇の御所に勤める女房だった。ある日、忠盛がその女房のところで一晩過ごして、翌朝、扇の忘れ物をした。その扇には月が描かれていた。他の女房たちが「これは一体誰のものかしら」と冷やかしたところ、その女房(愛人)は、
「雲井よりただもりきたる月なれば おぼろげにてはいはじとぞ思ふ」
(雲間から、ただ漏れてきた月だから、いいかげんなことではその出所を言うまいと思う)
という歌を詠んだ。「ただ漏りきたる」と「忠盛きたる」をかけている。5・7・5・7・7のリズムに乗せることは素人でもやろうと思えばできるが、この掛け言葉っていうのは、よほど熟練していなければなかなかできないのではないだろうか。忠度は、この女房の産んだ子供だという。つまり忠度が歌の名手だというのは血筋であると言いたいのだろう。

(注3)藤原俊成(「しゅんぜい」とも読む)・・・公家であり歌人

(注4)藤原俊成が後の世で千載和歌集を編んだとき、忠度の巻物の中から、次の一首を選んで載せた。
「さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」
しかし勅撰和歌集(天皇の命により編纂する和歌集)であったため、朝敵となった平家の名前を入れることが出来ず、「詠み人知らず」としての掲載となった。

(注5)箙(えびら)・・・矢を入れておく筒のこと

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平家物語を読みたい(10) 斎藤実盛の話 [読書]

 2020年5月からやっていた平家物語の勉強会だが、今年2021年7月に終了した。1年2か月かかったことになるが、充実した勉強会だった。終わってから4か月もたってしまったが、後半の振り返りを年内に終わらせたいと思う。

***
 保元の乱が起こる1年前、1155年のことになる。当時、都を遠く離れた関東では、源為義(ためよし)とその長男の源義朝(よしとも)が勢力争いをしていた。義朝は鎌倉幕府を開いた頼朝(よりとも)の父親である。この勢力争いの構図というのは複雑で、文献を読んでもそれを自分の言葉で語る自信が全くない。だから、とにかく、今は話を簡単にするために「為義と義朝の勢力争い」であるとしておく。(注1)

 この勢力争いは武力衝突に発展し、為義の次男(嫡男)の義賢(よしかた)を、義朝の息子の義平(よしひら)が討った。これを大蔵合戦という。討たれた義賢には駒王丸という2歳の男の子がいた。戦の常で、駒王丸も殺されるはずだったが、この幼子をかくまって助けた人がいた。斎藤実盛(さねもり)である。

 斎藤実盛は、義朝にも義賢にも仕えたことのある人だった。駒王丸を育てていた乳母の夫で中原兼遠(かねとお)という侍が信州にいて、駒王丸はその人のところに斎藤実盛により送り届けられた。駒王丸は中原兼遠の実子と一緒に育てられ、成長して後、木曽義仲となる。

 平家物語の下巻は、木曽で挙兵した義仲が北陸に進出したあたりから始まる。平家はこれを討つため、北陸へ十万の軍を差し向けた。その軍の中に斎藤実盛がいた。実盛は平治の乱のあと、平家方に仕えるようになっていた。これは別に日和見をしているわけではなく、たまたま源氏と平家が敵味方に分かれて戦う前に、縁があって仕える主君が変わっただけと思われる。現代風に言うなら転職であろう。

 斎藤実盛は、北陸の篠原の戦いで木曽義仲の部下に討たれてしまった。このときのエピソードが、印象的だったので紹介したい。

 斎藤実盛を討った義仲の部下の話によると、平家方の侍のほとんどが敗走する中で、この人一人が善戦しており、戦いぶりは見事だった。そこで名を聞いてみたが、名乗りを拒み、そのまま討たれて死んだ。これはおそらく「自分が斎藤実盛であることがわかれば情をかけられて、おそらく助けられるであろう」と思い、それを嫌ったためであろうと思われた。

 義仲は戦が終わったあとの首実験(注2)で、この首は斎藤実盛らしいと考えたが、年齢の割に髪が黒いことを不審に思い、部下の樋口兼光(乳兄弟)にそれを話した。すると兼光は、斎藤実盛が昔、「六十を過ぎて戦に行くなら髪を染めて若々しく戦いたい」と言っていたことを話した。(注3)首を洗ってみると、髪がみるみる白髪になり、斎藤実盛であることがわかったという。

 斎藤実盛は義仲にとって命の恩人であった。2歳の幼子を関東から信州まで、電車や車でなくて徒歩で送り届けることを考えれば、それが大変な苦労であったろうことは想像がつく。実盛は義仲にとってはやさしい父親のような存在だったのではなかろうか。そんな恩人を義仲は殺してしまった。昔親しみ合った者同士が、今日は敵味方に分かれて戦わなければならない。武士の運命とは過酷なものだとつくづく思う。

 なお平家物語には、実盛が義仲(駒王丸)を助けた経緯が書かれていない。だから実盛が義仲にとって恩人であることが明確に伝わってこない。人の世の不条理ともいうべき、このドラマチックなエピソードは、多少の脚色を加えてもよいから書いてほしかった。この点は不満が残る。

***
 さて、このあと義仲は京の都に攻め入り、平家を都から追い出した。その結果、西国は平家、都は義仲、東国は頼朝が支配するという状況が発生。やがて義仲は、頼朝の勢力に討たれる、という流れになる。

***
(注1)「大蔵合戦」で検索すれば詳しい情報が得られるが、専門性の高い複雑な内容である。
(注2)切った首を実際に見て、人物を特定すること
(注3)兼光は中原兼遠の実子であり、また義仲は兼遠に育てられた。源平の合戦の前の時代には、親交があったわけで、その中で、このような話をしたのだろう。

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平家物語を読みたい(9)頼朝の挙兵 [読書]

(勉強会も半分が終わり、今、前半の振り返りを書いています)

大庭城最中.jpg

 このシリーズの最初の頃に、1159年の平治の乱で源義朝が負けて討たれ、三男の頼朝が伊豆に流された話を書いた。(注1)その頼朝は伊豆で何をしていたかというと、地元の有力者北条氏(流刑先の監視役)の娘の政子と恋仲になって結婚し、平穏無事に暮らしていたらしい。(注5)

 頼朝と同じように都を追われて伊豆に流されていた文覚(もんがく)という上人がいた。この人が頼朝に挙兵を促すが、頼朝は「自分は命を助けてくれた池禅尼の恩に報いるために読経三昧の日々を送るだけだ」と一旦は断っている。しかし結局、歴史の大きなうねりには逆らえず、担ぎ出されるような形で挙兵を決意。1180年、これを実行に移した。

 他の歴史書はいざ知らず、平家物語に描かれている頼朝の挙兵の様子は、第5巻の「早馬」という章に書かれている内容がすべてのようだ。相模の大庭景親が京に早馬を飛ばし、報告した内容は下記の通りだった。原文の情報不足のアピールのため、あえて原文をそのまま記載する。(注2)文中の(1)~(4)は僕が便宜的につけた見出しである。

1)挙兵
 去んぬる、八月十七日、伊豆の国の流人、右兵衛佐頼朝、しうと北条四郎時政をつかはして、伊豆の目代、和泉判官兼高を、やまきが館で夜うちにうち候ひぬ。
2)石橋山の合戦
 其後、土肥、土屋、岡崎をはじめとして三百余騎、石橋山に立て籠もって候ところに、景親、御方に心ざしを存ずる者ども、一千騎を引率して、おし寄せせめ候程に、兵衛佐七八騎にうちなされ、大童にたたかひなって、土肥の椙山へにげこもり候ひぬ。
3)由比ヶ浜の合戦
 其後、畠山五百余騎して御方を仕る。三浦大介義明が子供、三百余騎で源氏方をして、湯井戸、小坪の浦でたたかふに、畠山いくさにまけて、武蔵の国へひきしりぞく。
4)衣笠城の合戦
 その後、畠山が一族、川越、稲毛、小山田、江戸、笠井、惣じて其外、七党の兵ども、三千騎を相具して、三浦衣笠の城に押し寄せてせめたたかふ。大介義明うたれ候ひぬ。子供はくり浜の浦より舟に乗り、安房上総へわたり候ひぬ

 この記述からは「頼朝が挙兵して、伊豆の国の目代、山木兼隆を討ったあと、石橋山の戦いで負け戦になり、土肥の椙山に逃げ込んだ」、というところまで読み取れるのだが、それ以外は頼朝の情報がない。つまり平家物語では頼朝が挙兵したときの戦の情報はほぼ無いに等しくて、しかもその後はもう、いきなり富士川の合戦になってしまう。このままでは途中に何があったのか全然わからないので、ここは結構なリサーチ(主にネット情報)をせざるを得なかった。(注3)

 現代文にしてわかりやすい内容に書き換えると次のようになる。
1)挙兵
 当時、伊豆の国の目代、山木兼隆は平家方だった。頼朝は自分の舅の北条時政と、自分に味方する地元の武将とともに伊豆で挙兵し、まずは山木を討った。
2)石橋山の合戦
 その後、三浦一族の応援と合流するために、伊豆半島の東岸を北上したが、石橋山(現在の東海道線の早川~根府川付近)で相模の大庭景親の軍勢(平家方)の攻撃を受けて破れ、土肥の椙山に隠れ、かろうじて難を逃れた。その後、真鶴から舟で脱出し、安房上総方面に渡った。
3)由比ヶ浜の合戦
 頼朝の敗戦を合流前に知らされた三浦軍は、やむなく兵を引き上げたが、その途中で、武蔵の畠山重忠の軍(平家方)と、鎌倉の由比ヶ浜で鉢合わせした。小競り合いがあったが停戦が成立。
4)衣笠城の合戦
 その後、畠山の一族は、再び三浦の衣笠城を攻めた。三浦一族は抗しきれず、城を捨てて脱出。久里浜の港から舟で安房上総方面へ渡った。

 そして安房上総に渡った頼朝は三浦一族と合流し、安房、上総の武将達を味方につけ、巨大勢力を形成しながら、東京湾をぐるっと回って、古くからの源氏ゆかりの地、鎌倉に入った、ということらしい。

 この部分は、原文があまりにも簡単に書かれていたので、緊迫感は無かったが、情報不足が逆に幸いして調べ物の楽しさを味わえた。また、僕の出身地の千葉県、今住んでいる神奈川県に、頼朝の挙兵に関する旧跡がいろいろあることを知ったので、これから少しずつ観に行って見ようと思っている。(注4)そんな楽しみも増えた。

 年明けから後半に入る。


***
(注1)平家物語を読みたい(3)保元の乱・平治の乱(パート2)
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2020-08-12

(注2)わかりにくいが悪しからず。読者を煙に巻こうと思っているわけではない。

(注3)今の時代なら、誰でも同じことを考えているとは思うが・・・。ネットで調べ物をするとき、その情報が信頼できるかどうかは、ある程度慎重に考える必要がある。複数の人の利害が絡むような話とか、政治的な内容などでは、世論を誘導する目的に使えるわけで、そういう内容のときは、そのまま信じるわけにはいかない。
 しかし平安時代の歴史の記述で、そのような事がおこるとはまず考えられない。これで人を騙しても得になることはないだろうし、研究者の間で見解の相違が起こることはあるかも知れないが、それはもはや素人レベルを遙かに超えた話になるだろう。よって記載内容はおおむね信用できると考えている。ネット情報のおかげで、昔と違って今は勉強がしやすい環境が整っている。

(注4)とりあえず特記したいのは、石橋山で頼朝をボコボコにし、京に早馬を飛ばして関東の動向を知らせた、相模の大庭景親である。この人の城が有った場所は現在、大庭城址公園として整備されているが、これがなんと僕の家のすぐ近く、散歩に行ける距離にある。ちょっと感動してしまい、よく知りもしないのに大庭景親のファンになってしまった。しかも近所の和菓子屋さんでは銘菓「大庭城最中」が売られている。

(注5)2022年1月10日追記
頼朝が伊豆でどんな生活をしていたかは、平家物語には詳細に書かれていない。この点が2022年の大河ドラマの初回で、非常にわかりやすく説明されていた。誤認識に気づいたので、ここに改めて書くことにした。頼朝の監視役をしていたのは、北条家ではなくて、伊東家(伊東祐親・平家方)だった。北条家と伊東家は親戚。というのは、北条時政が、伊東祐親の娘を嫁にもらっていたのだった。
祐親が都仕えをしていたときに、祐親の娘の八重と頼朝ができてしまって、しかも男の子が生まれた。伊東に戻った祐親はこれを知って激怒した。立場の危うくなった頼朝を匿ったのが伊東家の次男と北条家の長男。伊東家の次男は妹の八重の気持ちを慮ってのことだったが、北条の長男は、平家の支配に不満をもち、頼朝の求心力による平家打倒を目論んでいた。大河ドラマのシナリオがどこまで史実に忠実か、という問題はあるが、まああり得る話だなと思う。



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平家物語を読みたい(8)以仁王の乱 [読書]

(勉強会も半分が終わり、今、前半の振り返りを書いています)

以仁王.jpg

 平家の支配に不満を抱く人の中から、源三位頼政(げんさんみよりまさ)という人が、以仁王(もちひとおう)という人に謀反をもちかけた。以仁王は、後白河院の息子で、高倉天皇の兄にあたる人である。高倉天皇に嫁いだ清盛の娘の徳子(建礼門院)が子供を生み、この子供が安徳天皇として即位した時点で、天皇になる道を完全に断たれてしまったという、知名度はあるが権威の無い人だった。

 頼政は朝廷に仕える身で、かつては平家とも良好な関係にあった。しかし清盛の息子(宗盛)から、自分の息子(仲綱)がある辱めを受けたため、これの報復のために以仁王に謀反を持ちかけた、ということになっている。実際はそんな単純な理由だけとは思えないが、ようするに引き金はなんだっていいのであり、世の中全体がそのような空気になっていて、いつ誰が挙兵してもおかしくない状況になっていたのだろう。

 以仁王は、頼政の勧めに従って全国各地の源氏に令旨を出し、挙兵を呼びかけた。その中には、平治の乱で伊豆に流されていた源頼朝も、それから木曽の義仲も、そして陸奥にいた義経も含まれていた。

 さて以仁王の、この挙兵の計画は、初期の段階でばれてしまう。清盛は以仁王をとらえるべく検非違使(現在の警察に相当)を差し向ける。これを察知した以仁王は三井寺(注1)に逃れた。以仁王の味方の侍達も三井寺に集まった。三井寺の僧侶たちは、延暦寺と奈良の興福寺に対して支援を求めたが、延暦時は回答を保留。よい返事は興福寺からしか得られなかった。

 三井寺軍は、清盛の邸宅を夜襲する計画を立てたが、内輪の中に平家側の人間がいて足を引っ張り失敗に終わった。そして平家側の反撃の準備が整う前に、南の興福寺に合流する必要があると判断し、移動を開始した。奈良に向かう途中に宇治川があり、その南側に平等院がある。以仁王の疲労が激しく、平等院で休息をとることにしたが、ここで平家に追いつかれてしまった。

 三井寺軍は宇治橋を壊し、北から攻め込む平家を食い止めた。川の北と南で矢の打ち合いが起こった。しかし多勢に無勢で、やがて平家軍は水かさの増した川を馬でギリギリ渡り、平等院に攻め込んだ。頼政はここで命運尽きて自刃。(注2)以仁王は味方が食い止めている間に先に興福寺に向けて出発したが、光明山というところで平家に追いつかれ、討たれてしまった。このとき興福寺の軍勢は、以仁王に合流するために、あと5kmのところまで来ていたという。ああ、もう少しだったのに・・・

 こんな感じであらすじを書いてしまうと、さらっと終わった感じになってしまうが、実際の本を読んでいると、本当に手に汗握るような攻防が描かれていてハラハラする。この迫力は本当にすごい。琵琶法師の語りに夢中になって聞き入る昔の人々の様子が目に浮かぶようだ。

***
(注1)三井寺(みいでら)とは通称で、正式な名称は園城寺(おんじょうじ)。比叡山延暦寺の末寺。平家物語には、三井寺と園城寺の両方の記述があるがこの記事では三井寺に統一する。琵琶湖の南、大津の近くにある。
(注2)平等院の近くに頼政の墓がある。


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