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平家物語を読みたい(7)鹿ヶ谷の陰謀 [読書]

(勉強会も半分が終わり、今、前半の振り返りを書いています)

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 平家物語は、清盛の父の忠盛が手柄を立てて、武士としては希な殿上人になるところから始まる。忠盛亡きあとは嫡男の清盛が後を継いだ。清盛は保元の乱、平治の乱のときの功績が認められて中納言、大納言とトントン拍子に出世し、ついに太政大臣に上りつめた。その後は一族郎党が宮中の要職につき、また地方でも全国の半分以上の受領を平家の息のかかった者が占めた。

 そうなると、役職を追われた人からは当然不満がでる。また思い上がって狼藉を働く者が出るようになり、もめ事がおこる。そういうときでも、清盛が結局強権を発動して、平家が勝ってしまう。そんなことが続いて周囲の不満が次第につのっていった。

 京都東山の鹿ヶ谷(ししがたに)という所に俊寛(しゅんかん)という僧都の山荘があった。ここに集まった人たちの間で行われた、平家打倒の謀議は「鹿ヶ谷の陰謀」と呼ばれている。(改めて高校の日本史の教科書を見返したらちゃんと載っていた。僕の頭の中には無かったが)

 この計画は身内の密告ですぐに露見してしまい、実行に移されることはなかった。怒った清盛はすぐに関係者を処罰した。即刻殺された者もいれば、流刑になった者もいる。特に印象深かったのは、鬼界が島(きかいがしま)(注1)に流刑になった、俊寛(しゅんかん)、康順(やすより)、成経(なりつね)の、三人の話だった。

 康順と成経は、熊野権現を信仰していたので島の中に熊野権現を勧請(注2)して帰京を祈り、また千本の卒塔婆に望郷の歌を書いて海に流したという。すると、その卒塔婆の一本が奇跡的に安芸の厳島神社に流れ着いた。

 本当か?と、疑いたくなるようなエピソードである。鹿児島沖から、海流にのって四国の沖に流れることは、もしかしたら有るかも知れないが、そこから狭い豊後水道を通って、瀬戸内海に入り、さらにあの細かい島だらけのところを抜けて厳島神社にたどり着くなんてことがあるとは到底思えない。・・・しかし、それもまた物語なのだろう。

 この卒塔婆の話は都の人々の間で有名になり、これが清盛にも伝わった。さすがの清盛も心を打たれた。しかもちょうどその頃、清盛の娘で高倉天皇の中宮になった徳子(建礼門院)が懐妊した。清盛は徳子の安産を祈願するため、周りの人の勧めもあって、鬼界が島に流した者を赦免することにした。しかし康順と成経は赦免したものの、俊寛だけは許さなかった。清盛は俊寛を特に恨んでいたらしい。

 清盛曰く「康順法師の事はともかくとして、俊寛はたいそうわしが世話をしてやって一人前になったものなのだ。それなのに所もあろうに、自分の山荘、鹿の谷に城郭を構えて、何かにつけてけしからんふるまいがあったということだから、俊寛を許すなんてとんでもない」

 その後、鬼界が島に康順と成経の迎えの舟がついた。俊寛は、自分だけが取り残されることを知って、地団駄踏んで悔しがる。都では俊寛だけが帰って来なかったので、かつて俊寛が寺で使っていた有王(ありおう)という若者が、鬼界が島に俊寛を訪ねた。京から鹿児島沖の離島に旅するのは現代と違って命がけだったはず(注3)で、有王の決死の覚悟が読み取れる。

 有王は、ボロボロの乞食になった俊寛と再会した。俊寛は、身内のほとんどが自分よりも先に亡くなってしまい生きているのは娘一人だけだと知り絶望した。そして、娘のことは気がかりであったけれども、このまま生きながらえても有王に迷惑がかかると考え、それ以降は食を断ち、やがて亡くなった。有王は俊寛を火葬し遺骨を都に持ち帰った。その後、俊寛の娘と有王は、どちらも出家したという。

 飼い犬に手を噛まれた清盛の言い分もわからぬでもないが、随分と残酷な話である。流罪は助かる望みがわずかにある。しかしこのような惨めな死に方をしてしまったら人間の尊厳など有ったものではない。いっそのこと斬り殺された方がマシではないだろうか。

 ということで、序盤ではこんな感じで、人の恨み辛みが、少しずつ少しずつ膨らんでいく様が描かれていく。

(つづく)

*****
(注1)現在、奄美大島の東側に喜界島(きかいじま)という島があって、平家物語の鬼界が島とはここなのかと勘違いしてしまうが、これは違うらしい。鬼界が島は、現代の鹿児島沖にある硫黄島だと言われている。それから太平洋戦争の「硫黄島の戦い」で知られる硫黄島は太平洋の小笠原諸島にあって、これもまた混同しやすい。
(注2)勧請(かんじょう)・・・神仏の分霊を移し祭ること。
(注3)実際に強盗に襲われたりなどしたらしいが、俊寛の娘の手紙だけは、取られないように髪を結ぶひもの中に隠していたという。


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平家物語を読みたい(6)折り返し地点 [読書]

 今年の5月に姉と始めた平家物語の勉強会。姉が今中国にいるので、スカイプの通信を使ってやっている。一回あたりに進むのはテキスト(注1)の15ページくらい。あらかじめ決めた範囲について、僕が予習をしてあらすじをつかんで勉強会の最初にこれを話し、その後、姉が原文(古文)を音読する、という内容で勉強している。

「僕が予習をしてあらすじをつかむ」と書いたが、これはあらかじめ持っている知識にだいぶ差があるからである。そもそも姉は、学生時代に歴史を真面目に勉強した文系人間である。これに対して、僕は理系で、学生時代は社会系の科目は軽視していたし、さして歴史好きというわけでもなかった。こういう本を読もうとすると、歴史の知識がどうしても必要になるので、この機会にちょっとでも勉強しようという趣旨である。

 今、上巻(1巻~6巻)の予習が終わったところ。つまり折り返し地点である。ここでちょっと、振り返りを書いておきたい。

 あらすじをざっと書いてみる。平清盛が政権(朝廷)の中枢に入り込んで、一族でこれを乗っ取る。やりたい放題のことをして人の恨みを買い、反平家の機運が高まる。そして源頼朝や木曽義仲が挙兵。そうした中で清盛が病気で死に、平家打倒の機運はさらに盛り上がってきた・・・と言うところで上巻が終わる。一般によく知られている倶利伽羅落し、一ノ谷の合戦、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦なんかはみんな下巻、つまり清盛が死んだあとの話である。

 物語としては実際のところ、清盛を悪役に描きすぎて、一体なんのためにこの人がそれをするのか、わかりにくい面がある。たとえば福原に遷都した理由は、本当は日宋貿易に力を入れるという目的があったらしいが、平家物語では「寺社勢力に何かと干渉されてうるさいから」としか書いていない。でもまあ構図がシンプルなら物語がわかりやすいという面もある。

 感想はというと、細かい不満はあるものの相当に面白い。さすがに1000年も語り継がれている名作である。当時の琵琶法師の語りはもちろん、能や狂言や歌舞伎の舞台でもたくさん上演されてきたそうだし、現代の小説家もこれをベースにした作品を書いている人はかなりいるようだ。これは原典が魅力的だからそうなるのであり、こういう文学作品が古典として残っていることは、日本人として誇りに思ってよいことだと思う。

 それで、単に「面白い」と言っても、平家物語に馴染みの薄い人には、何が面白いのかわからないと思うので、次以降の記事で、上巻で印象的だったエピソードをいくつか紹介したい。(つづく)

***
(注1)小学館の日本古典文学全集「平家物語」。この本は、2冊構成になっていてそれぞれに「一」「二」と番号がふられている。この記事では、「一」を上巻、「二」を下巻と呼ぶことにする。平家物語が巻第一から巻第十二までの構成になっていて紛らわしいので。



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平家物語を読みたい(5) ブラックボックスの意義 [読書]

 このシリーズの最初の方に戻るが、姉と平家物語の勉強会を始めたときに、保元の乱、平治の乱がよくわからなかったので、これをとりあえずブラックボックスにして、スタートしたと書いた。このブラックボックスを使った思考方法について、是非とも言及しておきたい。今回、便利さを痛感して、ちょっと見直したので。

 すごく簡単に言ってしまうと、「わからないところは、とりあえずそのままにして先に進め」ということなのだが・・・。わからない=無知、ということにしないのがこの考え方である。例えば、[保元の乱]→[平治の乱]→[平家興隆]→[源平合戦]→[平家滅亡]、という順に事実を認識し(注1)、上流にある二つの項目が自分の中で解明されていないとき、この二つの項目をブラックボックスと位置づけて保留し、先へ進め、というのがこの考え方である。

 「人間はみんな、知らないことをたくさん抱えたまま生活しているのだから、知らないことを知らないままにして先に進むのは普通じゃないのか」という疑問が湧いてくるが、ちょっと違う。単に無知のまま放置するのと、ブラックボックスと位置づけることの、何が違うかというと、その人にとって「興味がなくてどうでもよいこと」なのか、「今後知らなければならないこと」なのか、の違いである。

 専門の研究者の頭の中では、きっとたくさんのブラックボックスがあちこちで整理されて並んでいて、これがある日、あるものがクリアになり、また新しいブラックボックスが生まれ、ということを繰り返しているのではないかと思う。

 こういうのって “論理の構造化” とか “構造化思考” などと呼ばれるものから来ていて、最近ではいろいろな方面で応用されているらしい。つまり “全体” というものが “部分” から構成されていて、各 “部分” が機能をもち、それが有機的につながっていると考える。

 今回の例で言えば上記した、[保元の乱]→[平治の乱]→[平家興隆]→[源平合戦]→[平家滅亡]のような、直列に並んだ情報の集合になるわけで、その一部が未完成(つまりブラックボックス)であっても、ある位置にあって、ある役割を果たすと考えてそのままにする。そうすれば完成や修正を後まわしに、しかも “部分” ごとにできるようになる。

 構造化思考については、思考方法を専門に研究している人がいるようなので、興味のある方は専門書を参照されたい。でも、こういうことをあまり深く考えすぎると、だんだん哲学みたいになってきて、浮世離れしてくるので僕は深入りしないでおく。(笑)

 ・・・そんなわけで、とりとめの無い話になってしまったが、要するに、勉強するときの頭の使い方として、論理の構造化やブラックボックスの概念の大切さ(注2)を、平家物語の勉強会を通じて再認識した、ということを言いたかった。以上で、このシリーズは終わりにしたい。ご精読に感謝。
(おわり)

***
(注1)○○という順に事実を認識し・・・人により事実の認識とか論理の組み方が変わるかも知れないが、重要なのは自分で論理を組むことであり、教科書の丸暗記と決定的に違うのはここである。自分で組んだ論理に従ってストーリーが進むから自分でいつでも再現できるというわけ。もちろんストーリーは教科書の記述と食い違いがないように注意する必要がある。

(注2)本当に大切なのは論理の構造化であって、ブラックボックス化というのはわからないことも一緒に構造化しているのにすぎない。この記事でブラックボックスをクローズアップしたのは、構造化という言葉が抽象的過ぎてわかりにくいと思ったから。

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平家物語を読みたい(4)保元の乱・平治の乱(パート3) [読書]

写真は2005年放送のNHK大河ドラマ「義経」の解説本(NHK大河ドラマストーリー)より、平治の乱のあと、義経を抱き、清盛の前で命乞いをする常盤御前。(女優は稲森いずみ)このあとエロガッパの餌食となる。
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(つづき)(平家物語が始まる前段階の保元の乱、平治の乱について整理中)

 ここまで来て、ようやく保元の乱、平治の乱のあらすじがわかった。というか、ここまで解きほぐさないとわからなかった。では、これだけの内容を高校の日本史の教科書(注1)はどう書いてあるかというと・・・。

(引用ここから)
■「1156年(保元元年)、鳥羽法皇が亡くなると、まもなくかつて皇位継承をめぐって法皇と対立した崇徳上皇が、藤原頼長とむすんで武士を集めた。これに対し、法皇の立場をうけつぐ後白河天皇と近臣藤原道憲(信西)らが、清盛や源義朝らの武士を動員し、上皇方を攻撃してうち破った。これが保元の乱である。」
■「そののち、院政をはじめた後白河上皇の近臣間の対立から1159年(平治元年)には平治の乱がおこった。近臣の一人藤原信頼が源義朝とむすんで兵をあげ、清盛とむすぶ信西を殺して、一時は優勢であったが、かえって清盛に平定されてしまった。」
■「この二つの乱をつうじて、貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての清盛の地位と権力は急速に高まった。」
(引用ここまで)

 現実問題として、教科書のこの記述をそのまま理解・記憶しようと思ってもできるわけがない。でも多分、高校時代の中間テストや期末テストの前、僕はこれをそのまま暗記しようとしていたと思う。そもそも理解していないものを記憶できるわけがないし、よしんばできたとしても、試験が終わったらすぐに忘れるに決まっている。それは時間の浪費以外の何者でもない。(僕は日本史で一度赤点を取ったような、赤点でなくてもいつもギリギリだったような記憶がある)

 じゃあ高校時代に僕はどうすべきだったのかと言えば、やっぱり、今回やったように、自分で調べ物をして自力で解きほぐさないといけなかったのだと思う。その際、教科書で学んでいるのだから、教科書の記述と矛盾しないように解きほぐさないといけない。というのは、本によって違うことが書かれていることがあるし、小説やドラマを参考にすると創作が加えられていたり架空の人物が登場したりする。そこは要注意である。(注2)

 今、僕の頭には保元の乱・平治の乱の経緯として(それが学術的に正しいかどうかは別として)少なくとも自分が構築した歴史のプロセスが頭に入っていて、それを説明することができる。「自分の考えを説明すること」と「他人の書いた文を暗記・暗誦すること」を比較すれば、前者の方がはるかに容易かつ有意義である。(注3)

 教科書の作り手の立場としては、「だいたいこんな感じだ。わからなければ各々で研究せよ」という書き方を敢えてしているのではないかと思えてくる。高校で歴史を勉強するとはこういうことなのか、と今更ながら知った。文系に進んだ友人達の顔が何人か浮かんだ。「あいつらきっとこんな勉強してたんだな」と懐かしくなった。

***
(注1)井上、笠原、児玉ほか「詳説日本史」山川出版社1986年版 

(注2)「学生がその解きほぐす手間をかけないように、あらかじめ解きほぐした文を教科書にすればよいではないか」という考えは、おそらく駄目だろうと思う。第一に教科書の厚さが5倍くらいになるだろう。第二に学生はそれだけの量を何も考えずに丸暗記しようとし、そしてすぐに忘れるだろう。自分が頭を使わなければ、教科書が薄かろうと厚かろうと同じことになる。

(注3)高校時代の日本史の授業で唯一覚えていること。ある日「神道について調べてレポートを提出せよ」という課題が出た。「めんどくせえからさっさと終わらせよう」と思い、図書室でそういう本を調べてレポートを書いて提出した。ところがあまりにも提出が早かったので、先生から「まだ時間があるからもう少しよく調べなさい」と言われてしまった。「しまった。ぎりぎりに提出すれば良かった」と後悔した。しょうがないから言われた通り、もう少し丁寧に調べたら、その調べ物が実は、新しい発見があって意外に楽しかったのだ。だからこうやって記憶に残っているのだろう。今思えばあの先生は「歴史の勉強ってのはこうやってやるんだよ」ということを教えたかったのかも知れない。


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平家物語を読みたい(3)保元の乱・平治の乱(パート2) [読書]

2012年放送のNHK大河ドラマ「平清盛」の解説本(NHK大河ドラマーストーリー)。
全50回の内、平治の乱が終わるのが第28回。最終回(第50回)では清盛が死に、壇の浦の合戦まで一気に終了。
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(つづき)(平家物語が始まる前段階の保元の乱、平治の乱について整理中)

 さて、可愛くない子供に天皇の位を譲った鳥羽上皇は、璋子(たまこ)の他に、エロくない、ちゃんとした奥さん(得子(なりこ)=美福門院)をもらい、この人が子供を産んだ。当然ながら鳥羽上皇は自分の本当の子供が可愛いから帝にしたい。だから崇徳天皇に譲位を迫った。結果、崇徳天皇は崇徳上皇(院)になり、可愛い子供は近衛天皇として即位した。ところがその後、近衛天皇は眼病が元で早世してしまう。子供がいなかったので、ここで後継者争いが起こった。

 実は皇族の後継者争いだけではなく、摂関家(藤原家)の争いもあってこれが皇族と絡み合っていて、もっともっと複雑である。(藤原忠実+頼長 VS藤原忠通) でも長くなるので、ここでは省略する。(注1)

 さて皇族の争いに戻ると、まず崇徳上皇は自分の子供を帝にしたい。でも鳥羽上皇は崇徳上皇が嫌いだから、そうさせない。鳥羽上皇は近臣らといろいろ画策し、自分の第四皇子の、流行り歌(今様)が大好きで、フラフラ遊んでいたやつをとりあえず即位させた。これが後白河天皇である。(注2)

 結果として、崇徳上皇と後白河天皇の間に対立が起こり、これが周囲の公家や武士を巻き込んでいった。そして1156年、鳥羽上皇が亡くなったときに双方が武力衝突。後白河天皇側の勝ちとなった。1日であっと言う間に終わったというのがすごいところである。負けた崇徳上皇は讃岐に流された。これを保元の乱という。このとき源義朝と平清盛は後白河天皇の側についていた。

 保元の乱の結果、信西(しんぜい)という僧侶が実質的な権力を握った。信西は後白河天皇擁立を裏で画策した人物の一人で、戦後処理だの内裏の新築だのと敏腕を振るった。そうすると今度はそれに割を食う人が出てきて、彼らの恨みを買うようになった。こうして“反信西”の雰囲気が次第に醸成され、やがて信西殺害計画が持ち上がる。

 後白河天皇は、譲位して後白河上皇になった。上皇が重用した公家で藤原信頼(のぶより)という人がいて、この人が1159年、源義朝と組んで兵を挙げ、信西を襲った。信西はこの動きを事前に察知して逃亡したが、結局追い詰められて自害した。

 信西が襲われたとき、平清盛は熊野詣(注3)に出かけていて留守だった。つまり信西殺害は清盛の留守の隙を意図的に突く計画だったということである。清盛は信西側だったから、京に戻ってすぐ反撃にでた。信頼は殺され、源義朝は逃げる途中で殺された。これが平治の乱である。

 結局どちらの乱も武士の力で一気に片付いたというのが重要な所である。ここへきて武士の存在感が一気に高まったと言われている。しかも源義朝の三男の源頼朝、妾の常盤御前、その子供の義経、これらみんな、本来なら殺されるところだったが、清盛が殺さなかった。

 まず頼朝は、清盛の義母の池禅尼(いけのぜんに)が「家盛の幼い頃によく似ている」と言って助命を嘆願。清盛はこれに折れて、頼朝を伊豆に流した。それから常盤御前は美人だった(注4)ので、清盛がエロガッパぶりを遺憾なく発揮して愛人にした。常盤は子供の命を救うためにそうせざるを得なかった。これで義経(当時は乳飲み子)も助かった。

 素人の僕から見て、平治の乱の結果として、武士、特に平家が頭角を現したというのは確かに有ると思うのだが、それに加えて、この源氏の一族の助命という部分もかなり重要であると思われる。何しろ頼朝は成長して平家打倒のリーダーになり、義経は壇ノ浦で平家一門にトドメを刺すことになるのだから。いよいよ平家時代到来というとき、同時に滅亡の布石が打たれている。出来すぎたドラマだ。
(つづく)

******
(注1)興味のある方は「保安元年の政変」で検索されたし。

(注2)後白河天皇・・・この人は最初はアホかと思われていたらしいが、後に源頼朝から「日本一の大天狗」と評されるような策謀家だった。この人をテーマにして小説が一冊書ける(井上靖「後白河院」)くらいだから、そりゃあまあいろいろ有ったということだろう。

(注3)熊野詣(くまのもうで)・・・院政の時代、京の都では熊野信仰が流行ったそうで、都の人々は天皇も公家も武士もみんな参拝に出かけたらしい。紀伊半島の南にあるから都から往復するにはそれなりの日数がかかる。地図上で測ると、京都~熊野は、直線距離にして東京~静岡くらいの距離がある。

(注4)常盤御前(ときわごぜん)・・・もとは九条院(近衛天皇の中宮)に仕える雑仕女(ぞうしめ)だった。九条院が都の中から選んだ千人の美女の中でもっとも美しかったという。現代で言うなら、国民的美少女コンテストでグランプリを取るレベルではないだろうかと想像する。2012年の大河ドラマ「平清盛」で常盤御前を演じた武井咲は、まさにその国民的美少女コンテストの出身だそうだ。でも常盤だけでなく、大河ドラマにでてくる女優ってそのクラスの人ばっかり。

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平家物語を読みたい(2)保元の乱・平治の乱(パート1) [読書]

 写真は2005年放送のNHK大河ドラマ「義経」の解説本(NHK大河ドラマストーリー)。「義経」というタイトルどおり義経の生きた時代の範囲が描かれている。第1回は平治の乱の終わりの源義朝が敗走する場面から始まる。義経は平治の乱のとき、乳飲み子だった。
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(つづき)
 小学館の日本古典文学全集の平家物語をテキストに使っていると書いたが、読み始めた最初の頃は、ずいぶんと読みにくい本だと思った。古文だからという意味ではない。古文に並べて現代文の訳が書いてあるので、現代文メインで読むことだってできる。しかし現代文は、現代的な言い回しではなく、古文からの直訳になっている。現代の小説を読むのと事情がだいぶ違う。だから読みにくい。

 これは意訳が入ると原文の意味を損なうリスクがあるからだと思われる。「あくまでも古典は古文のまま読むのが正統な学び方なのだ」という編者(=学者)の姿勢がわかる。まあ慣れてくると、だんだん中身の方に惹かれて、面白くなってくるもので、そこはさすがに古典として千年近く残っているだけのことはあると思う。

 それと同時にひとつ気づいてしまった。「保元のあの事件のときは○○○だった・・・」とか「平治のあのときは△△してあげたのに・・・」などという言葉が時折出てくるのである。つまり平家物語は保元の乱・平治の乱の後の話であり、なおかつ、この2つの事件について経緯の説明が全くない。そこには「読者はそれを知っているはずだ」という前提がある。

 それでとりあえず、この二つの事件についてはブラックボックスにしておこうと思ったのだが、物語が面白くなってくると、これをわからないまま放置しておけなくなってしまった。

 保元の乱・平治の乱というのは、中学、高校の歴史の授業で習うから、名前だけは覚えていた。友人の何人かに聞いてみたが、だいたい印象は僕と同じだった。「名前は覚えているが、どんな出来事だったのか、よく覚えていない」そこで、なにはともあれ高校時代の日本史の教科書を調べてみたが、それぞれが数行の簡単な説明で、読んでもほとんど内容がわからない。(これは後述する)

 そういうわけで、よい機会なのでちょっと勉強してみることにした。最初は例によってWikipedia。でも難しい。解説が細かすぎて、どこが要点なのかわからないのだ。次に、この時代専門の研究者が書いた本を読みかけたが、Wikiよりももっと専門的ですぐに挫折した。それで、あてずっぽうで井上靖の「後白河院」という小説(新潮文庫)を取り寄せてみたのだが、結局これが大当たりだった。最初の60ページくらいの量で、保元の乱、平治の乱を非常にわかりやすく語っていた。これでだいぶ助かった。

 ということで、せっかくなので、僕の勉強した成果を書いておきたくなった。あくまでも僕が咀嚼して飲み込んだものを自分の言葉として話すので、正確な情報が必要な人(受験生など)にはお勧めも保証もできない。でも僕個人の感想としては、結構面白い話だと思ったもので・・・。

 保元の乱は1156年、平治の乱は1159年。これを理解しようとすると、そこから40年ほど時を遡る必要があるようだ。そもそもの事の起こりは白河法皇という人だった。この人が院政という悪い習慣を始めた最初の人だったという。しかもエロエロのエロガッパだった。

 白河法皇には璋子(たまこ=待賢門院)という養女がいた。白河法皇は、この養女を自分の孫(鳥羽天皇)に嫁がせた。ところが白河法皇は、なんと璋子と密通関係にあったという。白河法皇がエロガッパであるのはまあいいとして、璋子にも奔放なところがあったらしい。つまりエロい女である。これは噂であって立証のしようのないことだ。でも火のないところに煙はたたないということもある。

 1119年(ちょうど平治の乱の40年前)、璋子は子供を産んだ。ところが鳥羽天皇は、この子供が白河法皇のタネだからといって、全く可愛がらなかったという。密通が事実ならその子は鳥羽天皇からみたら叔父にあたる。そして、この「可愛くない子供」が5歳で即位して崇徳天皇になった。同時に鳥羽天皇は上皇になった。さて、この愛憎劇がどんな結果を生むのか。
(つづく)


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平家物語を読みたい(1)事の起こり [読書]

 少し前、5月に「源氏物語を読みたい」という記事を書いた。その後、それを読んだ姉から連絡が来て、「平家物語の勉強会をやらないか」と誘われた。話を聞くと、姉はもともとこの時代の歴史が好きで、小学館の日本古典文学全集の「平家物語」(原文と現代語が併記されている、専門の研究者が書いたすごい本)を買って、途中読みかけにしていたところで、僕の記事を読んだらしい。

 面白そうなので、誘いに乗ることにした。平家物語は全12巻構成になっていて、大まかな計画では、1巻に1ヶ月かけて読めば、大体1年で終わる。今、3ヶ月経って、3巻が終わるところだからまあまあのペースである。このままいけば、最初の予定の通り1年くらいで制覇できるだろうと思われる。

 さて、この勉強会を始めるにあたり、まず姉のもっているのと同じ本を買わないといけない。全く同じのは、びっくりするほど高かったが、ネットの古書店で探したところ、版が古い1970年代に発売されたものが、全二巻セット1900円で売られていたので、これを買った。古い本だがほとんど新品のような綺麗さだった。50年も書架に眠っていた本を今自分が有効活用しているのだという変な満足感がある。

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 それから副読本。20年ほど前に四国に旅行に行った折に、「高松平家物語歴史館」という博物館(注1)に立ち寄った。そのとき館内のミュージアムショップで買った平家物語の絵本。和綴じにされた、いかにもお土産って感じの本だが、内容は要点が押さえられていて、わかりやすい。

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 これも副読本で、子供向けの平家物語。ライトノベルを読むくらいの年齢層をターゲットにしていると思われる。導入用としてわかりやすく、なかなかの良書だ。

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 こちらは角川ソフィア文庫の平家物語。これは、構成(巻や章)が原文の通りに省略なく正確に並んでいて、その並びを残したまま、要約したり現代語訳をしたり、名場面を選んで原文を残したりなど、いろいろと工夫されている。角川ソフィア文庫は、他にも古典をたくさん出していて、一般大衆の教養アップに貢献している。こういう商品企画は好感が持てる。

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 平家物語は、今さら僕が言うまでもないような有名な軍記物の古典で、人気があるから、解説本もたくさんあるし、子供向けの本だって結構あるし、それをベースにした小説やドラマもたくさん作られている。源氏物語のときに書いたことと重複するが、とっつきにくい古典であっても、先生の代わりになってくれる解説本があると全貌をつかみやすい。
(つづく)

***
(注1)香川県高松市の屋島というところは、平家滅亡寸前の”屋島の戦い”の舞台。ここに平家物語をテーマにした博物館があった。ただ残念なことに、この博物館は今は閉館している。
 有名なシーンを蝋人形で再現した展示物がメインになっていた。特に壇ノ浦の戦いのシーンはすごいリアルで迫力があったのを覚えている。撮影禁止だったので、写真が残っていない。これも残念。



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忍者チビッコ道場 [読書]

 小学生の頃の愛読書で「忍者チビッコ道場」という本があった。忍者の歴史とか、どんな仕事をしていたとか、どんな武器を使っていたとか、忍者に関するあれこれを小学生向けに解説した本だった。今はもう実家にもない。成長するにつれて処分したのだろう。

 さて、ヤフオクで懐かしいものをいろいろ買うようになって以来、この本が時折出品されることに気づいていた。ただ意外に高い。「この本をこの値段で買うか?」と、ちょっと考え込んでしまう。さりとて無理な値段でもない。そんな微妙に高い値段がつく。しばらく考え込んでいるうちに売れてしまい、忘れた頃にまた出品される。どうやらレア本というほどでもなく、中古市場には結構あるらしい。当時の人気を物語っている。結局なんだかんだ考えて、その微妙な値段でとうとう落札してしまった。
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 内容の方は、当時何度も繰り返し読んでいたのでほとんど覚えていたのだが、その中で、特にひとつ気になる記事があったのを思い出した。「時計と太陽を利用して方位を知る方法」というもので、時計の短針を太陽に向けると、短針と12時の方向のちょうど真ん中が南になる、と言う。
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 そう、これこれ。なぜそうなるのか、子供の頃はまるでわからなかった。本文に「この位置が必ず南だから不思議です」なんて書いてある。そもそも書いている人が、理由がわからず不思議がっているというのが可笑しい。

 さて今、大人になって久々にこの本をまた読んで、図を描きながら、よく考えてみたら意味がわかった。「なるほどそういうことか」と感動したので、このブログに載せてみたくなった。しかし言葉や式や絵で説明しようとしても、何だかとてもわかりにくい説明になってしまう。そこでこのたび新しいチャレンジ。GIFアニメを作ってみようと思い立った。今ではネットのあちこちに、この方法の丁寧な説明があるようだが、まあそれはそれとして・・・

1)地球の自転周期は24時間である。だから地上から見ると太陽は、24時間で我々の周りを一周する。(注1)
2)太陽は朝6時に真東にある。その6時間後の正午に南中する。さらにその後18時に真西に来る。(注1)
3)時計の短針は、12時間で一回転、つまり日周運動よりも2倍速いスピードで回転する。

 これをアニメにすると下のようになる。6時の時点をスタート地点に定め、そこから時間が経過していくと、太陽と時計の短針がそれぞれ回転するが、時計の針が太陽の2倍のスピードで回転し、差がついていくのが容易に確認できる。後の理解の助けのため、文字盤の12時方向と短針で作る扇形に色をつけた。
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 次に時計をちょっと回して、短針が太陽の方向を常に向くようにする。速く回りすぎた分を戻してやらないといけないので、時計全体を左に回すことになる。結果として、文字盤の12時方向と短針で作る扇形は、南北の方向を軸にして線対称になる。これは文字盤の12時方向と短針の真ん中が南になることを意味している。
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 原理はアニメを見れば一目瞭然だ。45年前の疑問が氷解して満足満足。なお普通の時計は12時間で一回転するが、仮に24時間で一回転する時計を作って、短針を太陽に向ければ、文字盤の12時の方向が常に南になる。つまり話はもっと単純になる。

***
(注1)ここに書いた天体の運行は単純化したものであって、厳密にはそんなわかり易いものではない。このイラスト(アニメ)は、観測者が北極付近にいて、太陽が地平線ぎりぎりを運行している絵である。しかし日本は北緯35°付近にあるので、太陽は斜めに昇り、斜めに沈む。太陽が単位時間に動く角度を大地に投影すれば、地平線付近よりも子午線通過付近の方が大きくなるはずである。その意味で、このイラストは正確ではない。しかし、そんな精密な考察が必要な内容ではない。南はだいたいどっちか、という話である。


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源氏物語を読みたい(3) [読書]

(引き続き、「あさきゆめみし」を読んで考えたこと。前の記事からのつづき)

 さて、そのバックアップ体制が充実して皇子がたくさん生まれ、その中から、一人が後を継いで次の帝になったとする。そうすると、それ以外の子供は当然帝にはなれない。そういう人は「○○の宮」として、皇室に残る場合もあるが、皇室から離れて臣下に下る場合もあって、そのときは「氏(うじ)」(今日的な意味での苗字)をもらう。それが「源(みなもと)」であったり、「平(たいら)」であったりしたのだという。桐壺の更衣が男の子を生んだとき、帝にはすでに第一皇子がいた。だからここで後継者争いが起こらないよう、帝はこの子が元服したときに「源」の氏を与えて臣下に下ろした。これを臣籍降下という。(ここ重要)

 少し話がそれるが、ちょっと源氏物語の中の人物の呼び方について考えてみたい。この物語の読みにくさを作っている原因のひとつに、人の呼び方があると思うからである。ある人物をどのように呼ぶか、というと、現代人の我々は、その人の名前で呼ぶのが当たり前だと思っている。日常生活でも小説でももちろんそうだ。しかし源氏物語の場合、必ずしもそうではないことに気づかされた。

 平安時代の戸籍の制度は、今のように厳密に管理されていたとは思えない。だから、自分で好きなように名乗ることができたはずである。また宮中では固有名詞よりも役職(地位)の方が大切であったようだ。左大臣、右大臣、大将、中将、女御、更衣、などなど。他に一の宮、二の宮、三の宮などと、生まれた順番だけで呼ばれる人もいる。源氏物語の登場人物は、おしなべてそういう呼び方になっている。はっきり言ってしまえば、人の呼び方なんかどうでもいいような印象を受けるのである。

 さてここから本題。呼び方と言えば僕は昔から「光源氏(ひかるげんじ)という呼び方はどこが「姓」でどこが「名」なんだ?」と気になってしょうがなかった。日本では人の名前は姓、名の順に構成されるものである。だから源光(みなもとのひかる)と言うなら納得がいく。それなのに光源氏とはこれ如何に? 「山田太郎」さんに対して、「太郎山田氏」と言っているようなものではないか。こんなキテレツな名前があろうか。しかも、名、姓の順に並べるのは欧米の習慣ではないか。

 そんな話を姉にしてみたら、姉が知り合いの、元高校の国語の先生という人に聞いてくれた。その人によると源氏物語の人物はみなニックネームで、しかもその名前は必ずしも作中で使われているとは限らず、後世の読者や学者が勝手につけてそれが通称になってしまったものもあるのだそうだ。原作(原文)の中では光源氏という呼称は出てこない。原文では「光る君」と呼ばれている。「光る○○」というのはあの時代に美しさを形容するときの最上級だったのだそうで、「最高の美男子」という意味になるらしい。

 その他に「源氏の君」という呼び方もある。少なくとも第一帖の「桐壺」にはその呼び方がいくつか出てくる(注1)。これは僕の考えだが、「帝の子供でありながら、源(みなもと)という氏(うじ)を賜って臣下に降りた、かっこいい人」という意味で「源氏の君」という呼称が生まれたのではなかろうか。源氏の姓をもらったばかりの時期に、彼の周囲にいた人たち、特に女性がキャーキャー言いながらそのように呼びたくなるのは自然である。「キャ~源氏の君~~」って。

 そうすると「光る君」「源氏の君」「光る源氏の君」から変化して「光源氏」というニックネームが生まれ、それが後世の読者や研究者の間で自然に定着したとしても不思議ではない。長年の疑問がようやく解けた。

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 というわけで、今年の大型連休は家に籠もりきりではあったが、それなりに充実していた。(一つ仕事を成し遂げたような気がする 笑)なお今回は「あさきゆめみし」をメインにしたが、他にも読んだものがあるのでこれを付記して終わろうと思う。

 江川達也という漫画家が書いた源氏物語。これは青年雑誌に連載されたものだけあって性描写のビジュアルが露骨である。男性の目から見ると大歓迎なのだが(女性が見たら別のことを言うだろうが)、その反面、熟読するとかなりアカデミックな側面を持っている。というのは原文(古文)がコマの中に(おそらく)全部書いてあってそれを逐一現代語に訳しているからである。

 注釈も大変充実している。僕の場合、この年になって古文を復習するだけの情熱はないが、高校生ならば、これを丁寧に読み込むとかなり勉強になるのではないだろうか。(絵が邪魔して勉強にならないか)

 全七巻で一巻が一帖に当てられている。第一巻が「桐壺」、第二巻が「箒木」、・・・、第七巻が「紅葉賀」。つまり全54帖のうちの最初の7帖しかないわけだが、原文を丁寧に説明していることを考慮すればこれだけでも偉業だと思う。

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(注1)江川達也の源氏物語に記載されていた原文で確認した結果

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源氏物語を読みたい(2) [読書]

 「あさきゆめみし」を読んで気づいた時代のギャップの中で、もっとも重大と思われること、それは、「平安時代は医療が未発達で、人が病気で簡単に死ぬ」という厳しい現実だった。(注1)現代では、病気にかかったときは、病院に行けばお医者さんがいて、いろいろ調べて治療してくれる。しかし平安時代では、病気の治療イコール祈祷であった。僧侶を呼んで御仏に祈ることしか方法がなかったのである。そんなことで病気が治るわけがない。少なくとも現代人の我々はそう承知している。

03.JPG

 主人公の光源氏を生んだ桐壺の更衣という人は、もともとそんなに健康な人では無かった。そこへ加えて、帝の寵愛を一身にうけたことから、周囲の女御・更衣の反感を買って陰湿なイジメに遭い、ストレスから病気になってしまった。その病名がなんなのかはわからないが、とにかく光源氏が三歳のときに死んでしまった。

 ちなみに女御とか更衣というのは、帝の夜の相手をする女性である。帝のお后候補になる人だから大臣の娘など地位の高い女性達であり、いわゆる市井の娼婦などとは違う。こういう人達を後宮に何人も住まわせて、帝が順番に回って夜の営みをするということが行われていた。なぜこういう制度があったかというと、それは端的に言えば、人が簡単に死ぬからだと言ってよいと思う。

04.JPG

 こんな時代では、乳幼児の死亡率だって非常に高かったと思う。帝のお后が一人の場合、その人に子供が出来ないかも知れないし、お后が子供を産む前に死んでしまうかも知れない。生んだとしてもその子供がすぐに死んでしまうかもしれない。そうなれば皇統が途絶えてしまう。皇室はこれを恐れ、強大な権力を背景にお后候補(女御・更衣)を何人も持って、子供をたくさん産ませたのだろう。

 言ってみれば、人海戦術によるバックアップ体制を構築(注3)しているわけで、現代の我々の感覚からすれば、考えられないことである。(注2)しかし医療が発達していない時代において皇室がその血を絶やさないためには、とにかく子供の人数を稼ぐしか方法がなかったのだろう。以前の僕は、ただ単に昔の権力者が肉欲丸出しの助平だからこういうことをするのだと思っていた。もちろんそれもあったとは思う。が、そうそう単純ではないことが良くわかった。

(つづく)

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(注1)人生50年、なんて言われていた時代があった。これは40代、50代になると、現代で言うところの成人病(生活習慣病)にかかり、医療が未発達の頃はこれに抗う術がなかったということなのだろう。昔の人が今に比べて早婚だったというのも、これで説明がつく。子供が作れる体になったらさっさと作っておかないと、あっという間に寿命が尽きてしまうのだから。

(注2)現代では医療も避妊の技術も発達して計画的な出産が出来るようになっているし、子供は天からの授かりものだから、という考えが広く定着し、子供のいない夫婦でも円満に生活している。ただし少子高齢化が進行するということも、国家的な問題として浮上している。平安時代と現代を比較することで改めて見えてくることもあって興味深い。

(注3)帝が一人の更衣だけを寵愛することは、この趣旨に鑑みても宜しくないことは明らかである。


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