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平家物語を読みたい(15) 那須与一と扇の的 [読書]

 平家物語は全12巻であるが、クライマックスともいうべき屋島の合戦と壇ノ浦の合戦は第11巻に収録されている。今回書きたいのは屋島の合戦である。一ノ谷の合戦が終わって1年ほど経った1185年1月。都にいた義経は後白河院から、平家追討の院宣を受け、準備を開始した。

 2月17日の夜。出撃の予定であったその日は強風で、常識で考えれば、とても出航できないような悪天候であった。しかし義経は周囲の反対を押し切り、総勢200艘のうちのわずか5艘で出航した。そして普段なら3日かかるところを、強風のため、わずか6時間で勝浦(徳島県東部)に到着した。上陸した義経は地元の侍を案内人にして、陸路で屋島(現在の香川県高松市)へ進軍した。馬が50余頭乗っていたと書かれているから、勢力はわずか50騎強であったことになる。

 翌日、2月18日、義経軍は屋島の平家の陣に攻め込んだ。義経は少人数であることを悟られないように、一騎ずつではなくできるだけ数騎ずつ群れをなして、平家の前に姿を現したという。平家は大群であると勘違いして、みな舟にのって海上に逃がれ、陸と海で矢の打ち合いとなった。また、阿波、讃岐で平家に背いて源氏につこうとしていた侍が集まりはじめ、義経の軍はいつのまにか300騎ほどに増強されていった。

 その日、夕暮れになり、一時停戦というときに、平家方の船に一人の女性が現れ、赤い扇で真ん中に金色の日の丸を描いたものを竿に掲げて、これを射て見よというふうに陸へ合図をした。これを見た義経は、誰かあれを射る者はいないか、と部下に問うた。すると、味方の中に那須与一宗高(なすのよいちむねたか)という名手がいると知らされた。

 義経は与一に扇を射るように命じた。波に揺れ動く船の扇の的を射るのは至難の業であることは誰にでもわかる。指名された那須与一は一旦は尻込みしたが、命令に背くことは許さんと言われ覚悟を決めた。結果、見事命中させるのだが、ここの描写がスローモーションの映像を見ているようで実に美しいので、原文を紹介したい。

***
 与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の明神、日光権現、宇都宮、那須のゆぜん大明神、願はくはあの扇のまンなか射させてたばせ給へ。これを射損ずる物ならば、弓きり折り自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見ひらいたれば、風もすこし吹きよわり、扇も射よげになッたりける。与一鏑をとッてつがひ、よッぴいてひやうどはなつ。小兵といふぢやう十二束三伏、弓は強し、浦ひびく程長鳴して、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射きッたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさッとぞ散ッたりける。夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日いだしたるが、白浪のうへにただよひ、うきぬ沈みぬゆられければ、奥には平家ふなばたをたたいて感じたり。陸には源氏箙をたたいてどよめきけり。
***

 さて、このあと、平家の船の上で興に乗った侍が舞いを始めた。これをみた与一は、この侍にも矢を命中させ、殺してしまった。そこから戦闘が再開したが、結局夕暮れで停戦。平家は、船を屋島の東側の志度というところへ移動させたが、源氏は陸路でこれを追跡し、平家は上陸できず、再び海に逃れた。このあとは壇ノ浦の合戦につづく。

 というわけで、ここは那須与一の最高にかっこいいシーンなのだが、それはそれとして、僕が気になったのは、扇の的を射よと挑発する女、的を射たことに浮かれて舞う男。このふたりの人物は一体何を考えているのだろう。ここは戦場であり、矢が飛び交っているのである。侍以外は船の底にじっとしていればよいものをそこにのこのこ出てきたら射殺されてもしかたない。実際、舞を舞った男は即座に射殺されている。恐怖のあまり気が触れたとしか解釈できない。 

 2005年の大河ドラマ「義経」では、このシーンがどのように描かれていたのか、一緒に勉強会をやっていた姉に聞いたところ、「あの扇を掲げる役目はたしか能子(よしこ)がやったんだよ」と教えてくれた。あとでシナリオ本で確認したところ、確かにその通り。時子(清盛の未亡人)が戦の行方を占うために、扇の的を射させるといいだし、その役目を能子(清盛が常盤御前に生ませた子、義経にとっては同腹の妹)が買って出た、という風に描かれている。

 大河ドラマ「義経」は、宮尾登美子の「宮尾本・平家物語」を原作にしているので、原作本も調べてみたが、こちらは女性の方は玉虫と言う名の女房とされている。つまり能子をここに登場させ、敵同士になってしまった兄と妹の対面という意味を持たせたのは、どうやら大河ドラマの脚本家のアイデアらしい。古典の平家物語が、現代の作家によって洗練されている。こういうのは見ていて興味深い。

 なお、この「扇の的」のエピソードは、神田松之丞(伯山)さんの講談がyoutubeにアップされていた。ぜひ紹介したい。この動画がいつまで存在するかは保証はできないが。
下記URL。
https://youtu.be/Wcz3mLFpOLo

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平家物語を読みたい(14) 重衡と千手前 [読書]

 前の記事で、一ノ谷の合戦まで来たが、ここでちょっとだけ前に戻る。1180年12月に起きた奈良の興福寺東大寺の焼き討ち事件である。以前の記事で、以仁王が反乱を起こしたときに、三井寺と興福寺が以仁王の味方についたことを書いた。(注1)その後、都では、興福寺が以仁王の味方についたのだから、平家が興福寺を攻めるに違いないとの噂がたち、それに呼応するように興福寺が蜂起した。

 興福寺は藤原氏の氏寺である。都から摂政藤原基通(もとみち)が取りなしに行ったが、興福寺は言うことを聞かず、朝廷からの使者を送っても、その髻を切って侮辱したり、首を切って晒したりした。清盛は激怒し、息子の重衡(しげひら)(注2)を大将にして、4万騎の軍勢を奈良に差し向けて興福寺を攻撃した。

 奈良に旅行した人ならわかると思うが、興福寺と東大寺はすぐ隣である。興福寺が攻められれば、東大寺も当然巻き込まれる。夜の戦闘になり、重衡はあたりの民家に火を放った。これが冬の乾燥した大気のせいであっという間に燃え広がり、興福寺も東大寺も建物はもちろん経典も仏像も全て燃えてしまった。戦禍を逃れてこれらの寺に逃げこんでいた民衆もみな焼け死んでしまい、奈良は壊滅状態となった。

* * *

 そしてその大事件から約3年後の1184年3月、一ノ谷の合戦。このとき重衡は、馬に敵の矢が当たって動けなくなり、味方の付き人も怖じ気づいて逃げてしまった。もはやこれまでと自刃しようとしていたところ、源氏方の庄四郎高家(しょうのしろうたかいえ)という侍が、重衡を説得して自刃をやめさせ、自分の馬に乗せて捕虜にしたという。

 重衡は京へ送られた。そして後白河院(注4)から平家方へ「三種の神器と人質の重衡の身柄を交換する」という取引を持ちかけることになり、重衡の使者が屋島へ送られた。しかし平家は「三種の神器を返したところで重衡が戻ってくるとは思えない」と拒絶。取引は失敗した。

 その後、重衡は鎌倉の頼朝のところに送られた。その理由は平家物語には明確に書かれていないが、想像するに「重衡は奈良の大衆から恨まれる存在であって都に置いておけば火種になるから、都から遠い鎌倉にひとまず置いて何かの取引に使おう」と考えたのではないだろうか。

 実際、頼朝は鎌倉に呼び寄せた重衡に対面し、奈良の焼き討ちについて尋問をしている。そのとき重衡は、「奈良の件は僧都を懲らしめるためにしたことであるが、最初から壊滅させるつもりでやったわけではない。しかしいずれにしても、もう自分の命運は尽きた。覚悟は出来ているから早く首を刎ねてくれ」と言った。頼朝は重衡の態度に感服し、身柄を伊豆の国の狩野介宗茂(かののすけむねもち)に預けることにした。宗茂は情け深い人で、重衡を丁重に扱った。

 宗茂は、千手前(せんじゅのまえ)という女性に重衡の世話をさせた。あるときは、湯女になって入浴の手伝いをし、あるときは宴会をして琵琶や琴を演奏したり歌を歌ったりした。重衡も、都の育ちで芸事は一通り身につけているから、千手前がただ者でないことはすぐにわかったし、千手前も「戦のことしか考えない粗野な人物かと思っていたがまことに雅な人だった」と頼朝に報告している。

・・・しかし頼朝の戦略であろうとは言え、捕虜に対してこんな歓待の仕方ってあるだろうか。宴会はまああるとしても、湯女なんてやられたら、ただ事では済まないと思うのだが。その後、壇ノ浦の合戦ですべてが終わったあと、重衡は結局奈良に連行されて斬首されることになるが、千手前はその知らせを聞いて出家し、重衡の菩提を弔ったそうである。そうしたことを考えると深い仲になっていたと考えても不自然はなかろう。(注3)

*  *  *  *  *

(注1)URLは下記。
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2020-12-02
(注2)清盛の息子は、上から重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡の5人。重衡は5男である。
(注3)このあと千手前が重衡の子(しかも男の子!)を産んだりすれば、もっと話が広がるんじゃないか、などと想像してしまった。いやいやキリがない。
(注4)平家が都落ちするとき、後白河院を一緒に連れて行くはずであったが、院はこれを事前に察知してうまく隠れてしまい、結局都に残留していた。



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平家物語を読みたい(13) 維盛と滝口入道 [読書]

 明治27年(1894年)に発表された、高山樗牛の「滝口入道」(注1)という小説がある。この小説、平家物語を題材にしたもので、一ノ谷の合戦のあと、維盛(=重盛の子=清盛の孫)が屋島を抜け出して、高野山に登るいきさつが書かれているのだが、これが平家物語よりも面白い。だからここの話は、小説の方で紹介したい。ただ平家物語とはちょっと違う部分はあるので、そこは注記を入れることで明らかにする。(注2)

***
■平家全盛の時代、ある花見の宴のときに、建礼門院(注3)に仕える横笛という女房が舞を披露した。重盛に仕える武士の斎藤時頼は、その美しさに一目惚れし、恋文攻勢が始まった。しかし横笛に恋する男がもう一人いて、横笛のところにいた老婆を買収して斎藤時頼の悪い噂を流し、横笛を自分の方に振り向かせようと画策していた。横笛は二人の男性から同時に言い寄られ、為す術を知らず、結局時頼に返事を書くことはなかった。(注4)

■しかも時頼は父親から身分違いの恋を強く反対された。「好きでもない人と結婚するつもりもないが、親に背くこともできない」と悩んだ末、時頼は出家してしまった。横笛は、自分が何もできずに時頼が出家してしまったことを知り、自分の仕打ちを悔やんだ。そして時頼が嵯峨の往生院というところで修行しているという噂を聞き、一人でそこを訪ねた。しかし時頼は人違いだ、と横笛を追い返してしまった。(注5)

■その後、時頼(=滝口入道)は、巡錫(注6)の途中で、休ませてもらった民家の老婆から、偶然にも横笛の消息を知らされることになった。その月の初めに、近くの草庵に美しい尼僧が住み着いた。村人たちは、尼僧は俗名を横笛といい恋に破れて出家したらしい、と噂した。思い患うことがあったのか、尼僧は程なく帰らぬ人となった。村人たちは草庵の傍らにその人を埋葬したという。滝口はこの話を聞いて落涙し、墓を訪れ、横笛の冥福を祈った。(注7)

■時は流れ、重盛、清盛は世を去った。頼朝が挙兵し、義仲が都へ侵攻。平家は都を追われた。維盛は一ノ谷の合戦のあと、付き人の足助二郎重景(あすけじろうしげかげ)とともに屋島を抜け出し、そのとき高野山にいた滝口入道を訪ねた。そして、出家をして姿を変えて都に戻って妻子に会いたいと言った。滝口は生前の重盛から「これから平家は衰退していく。維盛は頼りないからお前が支えてやってくれ」と言われたことを思いだした。(注8)

■その夜、維盛の付き人の重景が滝口の部屋に来て、昔のことを懺悔した。滝口が横笛に恋していたときに、横笛のところにいた老婆を買収して滝口の悪い噂を流し、横笛を自分の方に振り向かせようと画策していた男は重景であった。「貴殿を出家に追い込んだのも、横笛を死なせてしまったのも、元をたどればみな自分のせいである。許して欲しい」と詫びた。滝口は、このことは感づいていたし、何事も過ぎた昔は、恨みもなく喜びもなしと言い、水に流した。(注9)

■滝口は重盛の遺言、維盛の名誉を思い、翌朝、維盛を諫めた。「武士ならば、たとえ負け戦でも、敵に最後の一矢を報いて討ち死にするのが道であろうに、平家の嫡流が、こともあろうに自分だけ逃げ出すとは何事か。すぐにでも屋島に戻って一門と運命を共にすべし」(注10)維盛は返す言葉もなく、翌日、滝口が外出している間に高野山を下りて、和歌の浦で重景とともに入水した。滝口入道は、これを知り、後を追うように切腹した。(注11)

*****
・・・というストーリーなんだが、どうだろう。僕としては自信を持って人に勧めたい本である。(まあ全部語ってしまったあとで勧めるのも何だが)文語体を読むのにいささか苦労するが、美しい日本語なので時間をかけて読む価値はある。なお僕がこの小説で一番心を打たれたのは、滝口が横笛の墓参りをしたときの描写だった。ここは小説をそのまま引用して紹介したい。嗚呼、諸行無常。

 「滝口入道、横笛が墓に来て見れば、墓とは名のみ、小高く盛りし土饅頭の上に一片の卒塔婆を立てしのみ。里人の手向けしにや、半ば枯れし野菊の花の倒れあるも哀れなり。辺りは断草離々として跡を着くべき道ありとも覚えず、荒れすさぶ夜々の嵐に、ある程の木々の葉吹き落とされて、山は面痩せ、森は骨立ちて目もあてられぬ悲惨の風景、聞きしに増りて哀れなり。ああ是れぞ横笛が最後の住家よと思へば、流石の滝口入道も法衣の袖を絞りあへず、世にありし時は花の如き艶やかなる乙女なりしが、一旦無常の嵐に誘はれては、いづれ逃れぬ古墳の主かや。 ・・・」


******
(注1)滝口入道(たきぐちにゅうどう)・・・帝の住む清涼殿(せいりょうでん)を警護する武士の詰め所が、水路の落口の近くにあったことから、警護の武士は滝口武者と呼ばれていた。主人公の斎藤時頼は滝口武者であったことから斎藤滝口時頼と呼ばれていた。この人が出家して滝口入道と呼ばれるようになった。
(注2)ネタバレになってしまうが、だいぶ古い小説で、あらすじを紹介するくらいは許されるだろう。かつては岩波、新潮、角川から文庫本が出ていたが、今はすべて絶版で、古書でしか手に入らない。なおこれから入手しようとする人がいたら角川を薦める。挿絵が入っていて雰囲気が良いし、また難解な言葉の注釈がその言葉のページに載っている。(新潮は巻末に一括。岩波は注釈がない)
(注3)建礼門院・・・清盛の娘。高倉天皇に嫁いで安徳天皇を生んだ。結果、清盛は天皇の祖父ということになる。
(注4)花見の宴、第三者の裏工作などは高山樗牛の創作。平家物語では時頼と横笛は登場したときにすでに恋仲になっている。
(注5)平家物語では、時頼が、恋仲になっていた横笛を一方的に捨てることになっていて、あまりの冷酷さに違和感を覚えるが、小説では、恋仲になる前に時頼が相手にされず失恋したことになっていて、横笛の方にある程度の過失を設定している。
(注6)巡錫(じゅんしゃく)・・・僧侶が各地を回って人々を教化すること。
(注7)平家物語では、滝口は、自分が出家したあとで横笛も出家したことを知り、一度は文(歌)を交わしたりなどしている。しかし小説の方では「横笛が出家していた」という事実を知ったとき横笛はすでに亡くなっていた。その方が物語の演出としてはドラマチックだ。
(注8)平家物語では、生前の重盛と斎藤時頼が話をするシーンはなく、また維盛は出家して熊野三山に参拝して入水したいと考えていて、滝口入道はこれらすべてを手助けしている。
(注9)この懺悔も、平家物語にはない高山樗牛の創作である。横笛の話と維盛の話は平家物語では、無関係のエピソードになっているが、付き人の重景をこういう悪役に仕立てることで、二つのエピソードが上手く結びついている。
(注10)諫めるシーンは小説の創作である。高山樗牛には「滝口は入水の手助けなんかしていないで維盛をこう諭すべき」という思いがあったのではないか。
(注11)平家物語では、維盛の入水のあとの滝口の消息は書かれていない。


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平家物語を読みたい(12) 敦盛の最期 [読書]

 都落ちした平家の一族は、太宰府(現在の福岡県太宰府市)に拠点を築こうとしたが、地元の侍達がみな源氏方になっていて追い出されてしまい、結局四国の屋島(現在の香川県高松市)に落ち着くことになった。

 一方、義仲は、京の都を占領して一時期大きな権力を握ったが、やりたい放題で清盛の時代よりひどいことになり、鎌倉の頼朝が義経を派遣して、義仲は討伐されてしまった。頼朝は京を制圧したことになり、ここから義経が大活躍することになるが、この辺の事情は過去に何度もドラマや映画のクライマックスになっているので、知っている人は多いと思われる。

 義経軍が義仲を滅ぼしたあと、平家が滅びるところまで、小さいのを除いて代表的な合戦は一ノ谷、屋島、壇ノ浦と続く。今回書きたいのは一ノ谷の合戦のエピソードになる。なお、一ノ谷は現在の兵庫県神戸市須磨区というところで、明石海峡大橋の東側の大阪湾に面している。平家の拠点がここに一つあった。(注1)

 義経軍は、いわゆる「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の挟撃作戦により平家を追い詰め、海上に逃れるしかなくなった平家の侍たちは、海に浮かぶ船(注2)に退却しようとしていた。これを追跡する源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)という侍が、馬で海に進んでいく平家の侍の一人に「敵に後ろを見せるのか。引き返してこい」と呼びかけた。

 相手は呼びかけ通り戻って来た。組み付いて馬から落ち、そのまま直実が首を取ろうとして顔を見ると、自分の息子くらいの若者だった。直実が名前を尋ねたところ、若者は名乗らずに、「首をとって人に聞いてみれば、みんな知っているだろう」と答えた。直実はこの若者に情がうつり、助けようとしたが、源氏方の味方が後ろから来てしまった。

「助けたいが味方が来てしまった。人の手にかけるくらいなら自分が討つ」
「いいから早く首をとれ」

 直実は仕方なく、この若者の首をとった。若者は笛を腰に差していた。あとで聞いたところ、この若者は経盛(清盛の2つ下の弟)の息子の敦盛だった。笛の名手で、持っていた笛は、小枝(さえだ)という名品だった。直実は、その合戦の日の早朝に、城の中から風流な管弦の音が聞こえてきたのを思い出し、さては笛を吹いていたのはこの人であったか、と気づいた。直実はこのときのことで、心に深い傷を負い、これがきっかけで後に仏門に入ることになったという。

***

 明治時代に作られた文部省唱歌で、「青葉の笛」という歌がある。一ノ谷の合戦の後の、敦盛の最期と、それから、前の記事で書いた忠盛の話を唱歌にしたものだが、僕はこの歌を一緒に勉強会をやっていた姉から教わって最近知った。聞いたことのない方、YouTubeの動画で聞けるので是非聞いていただきたいと思う。(この動画がいつまで存続するかはわからないが)よくぞこれほど悲壮なメロディーを作れたものだと感心するくらい悲壮な曲である。
(下記URL)
https://youtu.be/8UShL2FwUNM


青葉の笛

一ノ谷の戦敗れ 
討たれし平家の公達哀れ
暁寒き須磨の嵐に
聞こえしはこれか
青葉の笛

更くる夜半に門を敲き
我が師に託せし言の葉哀れ
今際の際まで持ちし箙に
残れるは「花や今宵」の歌

*********

(注1)拠点があったといっても、都落ちしてから城を新築したとは思えない。協力者から提供された建物と思われる。

(注2)海に浮かぶ船・・・もともと清盛の父親の忠盛は瀬戸内で海賊退治をやっていた人だったので、平家は瀬戸内海に強い基盤(=協力者)をもっていた。船でこの辺を動き回ることは、もともと得意分野であって、陸上よりも海上ルートで移動することが普通のことであったと思われる。戦も終盤は海戦が多い。

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平家物語を読みたい(11) 平忠度の歌 [読書]

 さて、木曽義仲が北陸で平家軍を破り、いよいよ京の都へ迫ってきた。義仲の知略により、比叡山は義仲方につくことになり、平家方が義仲の軍に対抗できる見通しはなくなった。ここで平家方のリーダー宗盛(むねもり)(注1)は、都を捨てて、西方へ落ち延びることを決意する。

 7巻の「主上都落」「維盛都落」「忠度都落」「経正都落」「一門都落」「福原落」などの章には、一族が混乱しながら都を出て行く様子が描かれているが、この記事で取り上げたいエピソードは「忠度都落」である。平忠度(たいらのただのり)という人は、忠盛の6番目の男子(注2)で、清盛の弟である。あちこちの戦でリーダー格を担った人だったが、武士としてだけでなく歌人としても名を為した人だった。

 忠度は、都落ちをした後で、思い直して都にまた戻ってきた。そして歌の師匠であった藤原俊成(としなり)(注3)を訪ねた。忠度は自分の歌を書いた巻物を俊成に手渡し、「今後、歌集を編むことがあったときに、この中の自分の作品の中で良い物があったら、ぜひ載せて欲しい」と頼んだ。俊成は忠度の気持ちを汲み取り、この頼みを快諾した。(注4)

 一旦都を立って、また戻ってきたという、このときの忠度の心の迷いは、いかばかりであったろうか。そもそも都落ちをするときに、自分の歌を書いた巻物をもって出かけることが、どれほど歌に打ち込んでいたかを物語っている。そして都を出たあとも「この歌と共に討ち死にするべきか、それとも世に残すべきか」とか「師匠のところに預けてくればよかった」とか逡巡している様子が思い浮かぶのである。潔さを旨とすべき武士としては、いささか格好悪いけれども、とにかく忠度は都に戻って師匠に巻物を預け、ようやく迷いを断ち切って味方に合流した。

 その後、忠度は一ノ谷の合戦で戦死する。討った側の侍は、この人物が誰であるか、最初はわからなかったけれども、箙(注5)に、文が結び付けられていて、それを解いてみると歌が一首書かれてあった。

行き暮れて木の下かげを宿とせば 花やこよひの主ならまし 忠度
(旅の途中で日が暮れて桜の木の下陰に宿るならば、桜の花が今夜の主となり、もてなしてくれるであろうか)

 この歌により、討たれた人が忠度であることがわかった。このことを知った侍たちは、敵も味方もみな、その才能を惜しみ悲しんだという。

 この歌、僕のような素人でも素直に感動できる、実に美しい歌だと思う。。一ノ谷の合戦があったのは1184年3月20日。ちょうど桜の花の咲く季節だった。



**************************

(注1)清盛の長男の重盛は父より先に亡くなり、次男の基盛も早世していたから、この時点で平家一族のリーダーは三男の宗盛だった。

(注2)平家物語は、平清盛の父親の忠盛が手柄を立てて殿上人になるところから始まる。以下は第一巻の「鱸(すずき)」という章に書かれている話である。当時、忠盛には、愛人がいて、この人は、鳥羽法皇の御所に勤める女房だった。ある日、忠盛がその女房のところで一晩過ごして、翌朝、扇の忘れ物をした。その扇には月が描かれていた。他の女房たちが「これは一体誰のものかしら」と冷やかしたところ、その女房(愛人)は、
「雲井よりただもりきたる月なれば おぼろげにてはいはじとぞ思ふ」
(雲間から、ただ漏れてきた月だから、いいかげんなことではその出所を言うまいと思う)
という歌を詠んだ。「ただ漏りきたる」と「忠盛きたる」をかけている。5・7・5・7・7のリズムに乗せることは素人でもやろうと思えばできるが、この掛け言葉っていうのは、よほど熟練していなければなかなかできないのではないだろうか。忠度は、この女房の産んだ子供だという。つまり忠度が歌の名手だというのは血筋であると言いたいのだろう。

(注3)藤原俊成(「しゅんぜい」とも読む)・・・公家であり歌人

(注4)藤原俊成が後の世で千載和歌集を編んだとき、忠度の巻物の中から、次の一首を選んで載せた。
「さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」
しかし勅撰和歌集(天皇の命により編纂する和歌集)であったため、朝敵となった平家の名前を入れることが出来ず、「詠み人知らず」としての掲載となった。

(注5)箙(えびら)・・・矢を入れておく筒のこと

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平家物語を読みたい(10) 斎藤実盛の話 [読書]

 2020年5月からやっていた平家物語の勉強会だが、今年2021年7月に終了した。1年2か月かかったことになるが、充実した勉強会だった。終わってから4か月もたってしまったが、後半の振り返りを年内に終わらせたいと思う。

***
 保元の乱が起こる1年前、1155年のことになる。当時、都を遠く離れた関東では、源為義(ためよし)とその長男の源義朝(よしとも)が勢力争いをしていた。義朝は鎌倉幕府を開いた頼朝(よりとも)の父親である。この勢力争いの構図というのは複雑で、文献を読んでもそれを自分の言葉で語る自信が全くない。だから、とにかく、今は話を簡単にするために「為義と義朝の勢力争い」であるとしておく。(注1)

 この勢力争いは武力衝突に発展し、為義の次男(嫡男)の義賢(よしかた)を、義朝の息子の義平(よしひら)が討った。これを大蔵合戦という。討たれた義賢には駒王丸という2歳の男の子がいた。戦の常で、駒王丸も殺されるはずだったが、この幼子をかくまって助けた人がいた。斎藤実盛(さねもり)である。

 斎藤実盛は、義朝にも義賢にも仕えたことのある人だった。駒王丸を育てていた乳母の夫で中原兼遠(かねとお)という侍が信州にいて、駒王丸はその人のところに斎藤実盛により送り届けられた。駒王丸は中原兼遠の実子と一緒に育てられ、成長して後、木曽義仲となる。

 平家物語の下巻は、木曽で挙兵した義仲が北陸に進出したあたりから始まる。平家はこれを討つため、北陸へ十万の軍を差し向けた。その軍の中に斎藤実盛がいた。実盛は平治の乱のあと、平家方に仕えるようになっていた。これは別に日和見をしているわけではなく、たまたま源氏と平家が敵味方に分かれて戦う前に、縁があって仕える主君が変わっただけと思われる。現代風に言うなら転職であろう。

 斎藤実盛は、北陸の篠原の戦いで木曽義仲の部下に討たれてしまった。このときのエピソードが、印象的だったので紹介したい。

 斎藤実盛を討った義仲の部下の話によると、平家方の侍のほとんどが敗走する中で、この人一人が善戦しており、戦いぶりは見事だった。そこで名を聞いてみたが、名乗りを拒み、そのまま討たれて死んだ。これはおそらく「自分が斎藤実盛であることがわかれば情をかけられて、おそらく助けられるであろう」と思い、それを嫌ったためであろうと思われた。

 義仲は戦が終わったあとの首実験(注2)で、この首は斎藤実盛らしいと考えたが、年齢の割に髪が黒いことを不審に思い、部下の樋口兼光(乳兄弟)にそれを話した。すると兼光は、斎藤実盛が昔、「六十を過ぎて戦に行くなら髪を染めて若々しく戦いたい」と言っていたことを話した。(注3)首を洗ってみると、髪がみるみる白髪になり、斎藤実盛であることがわかったという。

 斎藤実盛は義仲にとって命の恩人であった。2歳の幼子を関東から信州まで、電車や車でなくて徒歩で送り届けることを考えれば、それが大変な苦労であったろうことは想像がつく。実盛は義仲にとってはやさしい父親のような存在だったのではなかろうか。そんな恩人を義仲は殺してしまった。昔親しみ合った者同士が、今日は敵味方に分かれて戦わなければならない。武士の運命とは過酷なものだとつくづく思う。

 なお平家物語には、実盛が義仲(駒王丸)を助けた経緯が書かれていない。だから実盛が義仲にとって恩人であることが明確に伝わってこない。人の世の不条理ともいうべき、このドラマチックなエピソードは、多少の脚色を加えてもよいから書いてほしかった。この点は不満が残る。

***
 さて、このあと義仲は京の都に攻め入り、平家を都から追い出した。その結果、西国は平家、都は義仲、東国は頼朝が支配するという状況が発生。やがて義仲は、頼朝の勢力に討たれる、という流れになる。

***
(注1)「大蔵合戦」で検索すれば詳しい情報が得られるが、専門性の高い複雑な内容である。
(注2)切った首を実際に見て、人物を特定すること
(注3)兼光は中原兼遠の実子であり、また義仲は兼遠に育てられた。源平の合戦の前の時代には、親交があったわけで、その中で、このような話をしたのだろう。

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石油ストーブのメンテ [雑文]

 以前から愛用してきた石油ストーブがある。買ったのは、2011年の12月。ちょうど今から10年前、震災の年だった。(注1)メーカーはGreenWood、型番は「GKP-P243N」というもの。小さくてデザインも良く、気に入っている。

 このたび、これのメンテを経験した。面白かったので紹介したい。(2018年末に火が点かなくなって以来、放置していた)(注2)
 以下に、今回やった作業(=交換用の芯の説明書に書いてある作業)を順を追って書く。実は一発で終わったわけではなく、ちょっと試行錯誤があった(注4)のだが、最終的にやったのは、結局オーソドックスな「芯の交換」と古い灯油の廃棄である。

まずストーブ外観。
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給油タンクを外す。
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燃焼筒を外す。
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底部のネジを4本外す。
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ツマミを外す。
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心臓部が露出。
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点火用の電池を外す。
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点火ユニットを外す。
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中に入っている灯油は黄ばんでいる。(3年前のもの)
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このナットを外す。
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芯が露出。先端にタールが付着して固まっている。
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芯を固定金具と一緒に外す。
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内部を掃除する。(拭き取りやゴミの吹き飛ばしなど)
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芯の取り付け金具。
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芯がスライドする中心部のタール汚れを紙ヤスリで落とす。
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新品の芯。
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取り付け位置は、説明書参照。
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中心部に取り付け。あとは、逆の手順で組み上げるだけ。
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無事に点火した。(注3)これは最大火力。
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適正火力。
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右の瓶は、中に入っていた古い灯油をスポイトで吸い出したもの。だいぶ黄ばんでいる。左の瓶は、新しく買った灯油。こちらは水のように澄んでいる。(原油高のあおりを受け、灯油は1リットル115円だった)
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【学んだこと】
1.前のシーズンの灯油は使わず、販売店で引き取ってもらうこと。
2.古い灯油を使うと芯にタールが蓄積しやすいこと。
3.ポリタンクは5年で交換すること。
4.芯の交換作業は意外に簡単だということ
5.石油ストーブの消耗品は芯だけだということ。
 新しい良質の燃料を使うことが芯を長持ちさせる、つまりストーブを長持ちさせるコツのようだ。今までは前年の古い灯油を、気にせずに平気で使っていた。まあそれでも7年もったということは、今回新品にしたのだから、この先は新しい燃料を使い続ければ7年以上はもつだろう。

*****************

(注1)
参考ブログ記事:「灯油ストーブを買った」
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2011-12-26

(注2)いきさつ、あれこれ(メモ)
・2011年当時、書斎のエアコンが老朽化していて、暖房のときだけひどいノイズが出るようになっていた。また2011年の震災のときに計画停電騒動があって、電気だけに依存するのは良くないなと思って、同年12月に、このストーブを買ったのだった。それ以来、冬になったら暖房はエアコンではなくストーブを使っていた。
・2018年6月、老朽化したエアコンが冷房、暖房両方ひどいノイズが出るようになり、新しいのに買い換えた。
・2018年の年末、愛用のストーブは調子が悪くなり、火が点かなくなってしまった。ただ、エアコンを新調したばかりなので、こっちで間に合わせた。
・その後「電気だけに依存するのは良くない」とずっと思いつつも、つい億劫で何も対応しないまま、3シーズン(2018年、2019年、2020年)をエアコンで過ごしてしまった。今年2021年、ようやくメンテにチャレンジしたという次第。

(注3)おまけの動画。点火ユニットの動作
https://youtu.be/StpyBxmKFRQ

(注4)新品の芯を買う前に、一度、古い芯の先端を1 センチ程切り取って、新しい部分を露出させてみた。そしたら一時的に着火はしたが、数日でだめになった。結局、芯の中にタールが深く入り込んでいて、少し切り取ったくらいでどうにかなるようなレベルではなかったということである。


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紙で作る多面体その2 [数学]

 このブログにたまに登場するIA子という中学生時代の同級生がいる。馬が合うので、今でもたまに連絡を取り合っている。彼女は今の感覚で言えば早婚で、23歳(注1)のときに結婚し、しかもハネムーンベビーができ、第一子を産み、ママになってしまった。妊娠中に、一回クラス会があったのだが、つわりがひどくて出られないらしいという話を聞いたのを覚えている。

 そして月日は流れ、その第一子のU子ちゃんが中学生になった頃の話である。IA子のメールでU子ちゃんの夏休みの宿題の話になった。数学で「球体を作れ」という宿題が出たという。「そんなのどうやって作ればいいんだろう」と相談を受けたので、ちょっと思うところがあって、正20面体と、切頂20面体の模型を作って送ってあげた。

 しかし今思うに、あれは球体というよりも球体に近い「多面体」である。出題は「球体を作れ」であって、これに合致した答えになっていない。あれは当時どう評価されたんだろう。気になってしまって、そのことをいきなりだがIA子に聞いてみた。(ちなみに最近はメールではなくLINE)

 すると「明日娘に会うから聞いてみる」という返事。なんとU子ちゃんの結婚式を翌日に控えていたらしい。コロナのご時世だから、ガーデンパーティー形式でやったそうだ。写真や動画を送ってくれた。親戚の小さな男の子が乾杯の音頭をとるときの挨拶は、大人顔負けのスピーチでかわいいやら感心するやら。ちなみにU子ちゃんには、中学生の頃に一回だけ会ったことがあったがすっかり大人になっていた。(そりゃそうだよね。笑)

 さて、あの多面体の評価は「はっきりした評価はよく覚えていないけれど、教室にずっと飾られていたので良いものだと思っていた」とのことだった。どうやらネガティブな思い出はないらしく、安心した。

 一つ前の記事で、ドーム形の紙工作をやったが、このときにU子ちゃんのこの宿題のいきさつを思い出し、正20面体と切頂20面体をまた作りたくなってしまった。どうもボール紙で立体を作る作業ってのは、快感やら充実感がそこそこあってクセになる。

 まず正20面体。
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次に切頂20面体。
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 正20面体と切頂20面体は一見全然違う形に見えるが、実は関係がある。正20面体の頂点のとんがりを下の写真のような線に沿ってスパッと削ぎ落とすと、そこに5角形が現れ、切頂20面体になる。「頂点を切った20面体」ということで、切頂20面体。(これ、あんまり知られていないような気がするので、ちょっと書いてみた)
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 ちなみに切頂20面体は、元々あった20個の正三角形が正六角形に変わってそのまま20面、それに加えて正五角形が12面増えるので、面の数は全部で32になる。

 球体に近い多面体を考えているときに、正○面体という名前のつくもので一番球に近いのが正20面体である。そして、これを見ていると「角を落としたらもうちょっと球に近づくんじゃないかな・・・」と、誰でも考えるのではないだろうか。実際、切頂20面体はよく転がる。この形を、皮を縫い合わせて作り、中にチューブを入れて空気を入れてパンパンに張ればサッカーボールになる。

 当時、「球体を作れ」という課題を聞いたときに、このサッカーボールの形状の由来から、正20面体と切頂20面体でいいか、と安易に考えてしまったのだ。今、改めて球体を作れと言われたら、もうちょっと違うものを作ると思う。でも今はやめておく。後の楽しみにとっておこう。

(おわり)

***
(注1)この記事を新規投稿したときは20歳と書いたのだが、記事を読んだIA子から連絡が来て、結婚したのは23歳、U子ちゃんを生んだのは24歳のときだった、とのこと。記憶のズレがあった。つまりU子ちゃんの年齢は、僕の勤続年数と同じということになる。
 この年月は人間の年齢として考えると「まだまだ若い」って思うが、勤続年数として考えると定年間際だ。いろんな意味でズッシリと「重さ」を感じる。


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紙で作る多面体その1 [数学]

 今年2021年の2月、お袋がバレンタインデーにチョコレートを送ってくれた。毎年必ず送ってくれるのだが、最近、昨年だか一昨年、来なかったので、心配して電話したら、うっかり忘れていたんだそうだ。だから、チョコレートをもらえる喜びよりも、お袋の頭がまだそこそこ働いていることに安堵する。

 ちょっと高級そうな、一口チョコの詰め合わせが入っていた。その中に一つ、目を引くものがあった。
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 ダイヤモンドとかミラーボールを思わせるような、どこかで見たような形である。食べる前に写真を撮っておいた。模型を作りたくなったのである。

 しかし、なんだか、わかるような、わからないような・・・。どうなってるんだ、この形は・・・。で、つい出来心で、ネット検索してしまったのだが、この種のドーム形は、分割の仕方によって、どんな形でも作れることがわかってしまい、まあ、そりゃそうか、と納得して、それ以上は見なかった。とにかく今回は、このチョコレートの形の正体を突き止めたいわけで、まじまじと見ていたら、これは、2段階に分けて考えるとよさそうだと気づいた。

■第1ステップ
地球儀の北半球を多面体で近似することを考える。そのとき、赤道を8分割して作る場合と、16分割して作る場合を両方作ってみる。

まずは8分割。
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次に16分割。
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 これを見ると、16分割の方は北極の方が細かすぎて作りにくく、8分割の方は赤道付近が粗すぎて球体からかけ離れていることがわかる。そこで北極付近は8分割、赤道付近は16分割という折衷を作ることを思いつく。


■第2ステップ
16分割の方に、写真の通り、青い線を引いてみる。
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 この線に沿って、出っ張りを削ぎ落とすと、それがつまり、あのチョコレートの形になる。ということで作ってみたのがこれ。
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 面白いじゃないか。プラモが完成したような満足感を味わってしまい、自分の作ったものにしばし見とれてしまった。綺麗な形だ。きっとダイヤモンドのカットの形状なんかも、いかに美しくカットするか、昔からずっと研究されているのだろうと想像する。

(つづく)
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時計のムーブメント交換  [雑文]

 このたび、初めて時計のムーブメントの交換ということを経験した。もしかしたら、この話、お気に入りの時計が壊れて、泣く泣く捨てようとしている人に参考になるかも知れないと思い、記録しておくことした。

 時計というのは、以前もこのブログに書いたことのあるフクロウ形の柱時計で、20年ほど使っている。しかし、ここ1年くらい、だんだんと動きが怪しくなり、電池が完全に消耗してもいないのに、針が止まってしまうようになった。電池を交換すると、動くようになるが、やがてその手も効かなくなり、ついに完全に止まってしまった。これは、つまりムーブメントがいかれてしまったということだろう。原因は不明だが、20年も使っていれば寿命ということもあるのかも知れない。

 ムーブメントというのは要するに、時計の長針短針と、秒針の回転運動を作り出す心臓部をモジュールとしてまとめたもので、最近では一辺55mmの正方形に規格化されているらしい。これがあると素人でも文字盤だけ作ればオリジナルデザインの時計を作ることができる。このフクロウ時計もそういう作りになっている。このモジュールがアマゾンで安価で売られていたので買ってみた。

 さて、交換である。フクロウ時計の正面。
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 同じく背面。中心の正方形の部分がムーブメントである。
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 ガラスを外す。
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 針を外す。
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 中心のナットを外す。
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 ムーブメントを外す。なお、元々ついていたムーブメントにはメロディ機能がついていて、毎正時(長針が12時を指したとき)ごとにメロディが鳴る機能がついていてその信号を出すらしい青いリード線があるのだが、この機能は諦めて切断した。(もともと使ってはいなかったし)
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 これは取り出したムーブメントと針。
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 あとは、新しいのを取り付けて・・・
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 完成。
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 無事に生き返ってくれた。捨てずに済んで良かった。こんなこと今更言うのもなんだが、便利な時代だなあと改めて思った。(^_^;)



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