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リフレッシュ休暇(3)水漏れ事故 [雑文]

(つづき)
 さて、7月4日の下関は、関門トンネルの後、壇ノ浦の合戦で幼くして亡くなった安徳天皇が祀られている赤間神宮を参拝し、唐戸市場でアイスクリームを食べて、16:30頃にホテルにチェックインした。

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さて、話はちょっと遡る。

朝、北九州の小倉に向かう新幹線のぞみの車内で、マンションの管理会社からスマホに電話があった。広島を過ぎてもうすぐ新山口に着く頃だった。「ひぐらしさんの部屋の下の部屋で、天井から水漏れがあるので、ひぐらしさんの部屋を調べたいのだが、いつ都合がいい?」という。「今旅行中で帰宅が7月7日の夜になる予定だ」と言った。管理会社は取り急ぎ僕の部屋の水栓をとめた。

 その後、前の記事の通り、7月4日は観光したが、心配事があると楽しめない。特に気になったのは、自室で水道の蛇口から水が溢れているかも知れないということだった。可能性のあるところは2カ所あって、一つはトイレのウォシュレットを工事した配管。もうひとつは洗濯機の水をつないでいるカップリング。どちらも僕がこの部屋に入居したあとでつないだものである。この結合部が破れる可能性はないとは言えない。

 初日の日程を終えてホテルに入ったが、心配事を抱えて7月7日まで旅行するよりも、いっそのこと帰宅して原因を調べた方が良い。それともうひとつ、翌日の予定は四国の金比羅さんだったのだが、台風4号が来ていて、高知で大雨がふり、その影響で7月5日に四国へ行く路線が2カ所くらい止まりそうだった。

 ということで旅行は中止。翌日、下関を始発で出発、昼頃に帰宅した。のぞみは小倉~新横浜を4時間半で走る。このスピードは、こういうとき非常に助かる。

 新幹線の中で、管理会社に電話をして、「急遽帰宅することにしたが、部屋に入るときに何か気をつけることはないか」と聞くと、「今日、工事屋さんが下の部屋の養生に入るので、ついでにそちらに行くように状況を伝えておく」とのことだった。

 家について、調べてみたら、自分の部屋の廊下の真ん中あたりの天井から水漏れがあって、それが廊下に染み込んでいた。管理会社にその状況を知らせた。それから下の部屋に挨拶にいったら、やはり同じあたりで水漏れがあって、水受けのバケツが置いてあった。昼過ぎに工事屋さんが来た。管理人が上の部屋に知らせて水栓を止めた。やがて水漏れは止まった。

 工事屋さんが上の部屋を調べると、台所あたりの水道の配管(床下)から漏れていたらしい。工事屋さんの処置により水漏れは止まった。やっぱり旅行を切り上げて帰宅して正解だった。対応が遅れるほど、僕の部屋と下の部屋の浸水がひどくなっていたはずである。

 そのあと工事屋さんは保険請求のために、部屋の被害状況をいろいろ調べていた。廊下だけでなく、廊下の脇の物置にも、水が染みていた。やはりプロの目は素人とは違ってよく行き届くようだ。それから修理代はマンションが団体で入っている保険から出るようだが、思ったより規模の大きい修理になりそう。

 とりあえず、自分の部屋が原因でないことがわかり、ほっとしたが、確率的にみれば、僕の部屋から漏水することだってあるので、安心ばかりしてはいられない。それから、工事屋さんによると、このマンションの漏水事故は今回が初めてなのではなく、すでに2件くらい発生しているそうだ。やはり20年を越えるとこういうことが徐々に起きてくる。こういうのはマンションの弱点だと思う。

 なお、台風4号は7月5日の夜頃に温帯低気圧に変わったらしい。

(つづく)

***
 


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リフレッシュ休暇(2)下関その2 [雑文]

 下関側から門司へ伸びる関門橋。みもすそ川のバス停で降りて海に向かうと、橋は右側にある。写真を撮ろうとすると、橋に近すぎて、画角に収まりきれない。間近で見るとすごい迫力である。
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 関門海峡を渡る交通経路は、グーグルの地図で見ると、4つあることがわかる。
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 南から北へ向かって、JR在来線、高速道路、一般道路、JR新幹線の4つであるが、このうち、橋が架かっているのは、高速道路(関門橋)だけであって、残り3つは海底トンネルである。それで、この4つの経路のどれがいつ頃出来たのか調べてみたところ・・・
1)関門鉄道トンネル(JR山陽本線)・・・1944年
2)関門国道トンネル(国道2号線)・・・1958年
3)関門橋(高速道路)・・・・・・・・・1973年
4)新関門トンネル(JR山陽新幹線)・・・1975年

 ・・・ということのようだ。一番古いものが貫通したのが、なんと戦時中。一番新しい新幹線でも1975年。4つとも意外に古い時期に完成していることに驚かされた。(注1)

 さて、上記2)の関門国道トンネルは、壇ノ浦の古戦場跡のすぐ近くを通っているが、ここのトンネルには車道に平行して人道(要するに歩道)が作られていて、歩いて渡ることができるようになっている。渡ってみた。(実はこれ、結構楽しみだったんだ)

 まずエレベーターで地下に下る。
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スタート地点
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下関と門司の境目
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門司に到着。歩いてわずか10分、僕の歩く速さから換算すると距離は860 m くらいだろうか。
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 地上にでて、下関側を眺めて考えた。この距離の近さは、海というより、大きめの川である。平家がここで源氏を迎撃したのが、なんとなく理解できる。

 源氏側が、彦島に逃げ込んだ平家をどう攻めるか、と考えたときに、取り囲んで兵糧攻めにする方法もあったと思うのだが、義経はそうしなかった。(注2)直接的な攻撃をするなら、この海峡を通って彦島を目指す。平家を陸路で攻めても、どうせ海に逃げてしまうことが屋島の合戦でわかっていた。また平家方にとっては、逆にこの一番幅の狭い壇ノ浦のあたりで、なんとしても食い止めなければならなかったのだろう。

 実際にこの地にきて、トンネルを歩いて海峡を渡ってみて、サイズを実感し、戦に関わった人の感覚が少しわかった気がする。(もちろんこれは歴史の専門家ではない素人の感じた事なので、ちゃんと勉強中の方は鵜呑みにしないでいただきたい)

 ここにトンネルや橋が作られているのも納得がいく。つまり一番狭いところにトンネルを掘り、橋を架ければ、工事が楽でコストを抑えられるのだ。壇ノ浦の古戦場と、海峡を結ぶトンネルや橋が同じところにあることになんの疑問も抱かなかったが、これは単なる偶然ではなく、地形的な理由があるということである。

 下関側のエレベーターのところに紙芝居のお姉さんがいて「耳なし芳一」をやっていた。写真は、芳一の物語が終わって平家の亡霊たちが泣いている場面。
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***
(注1)参考情報。他の場所に目を向けると、青函トンネルも瀬戸大橋も同じく1988年に開通だそうだ。このくらいの時代になると「わりと最近だな」という感覚になるが、1970年代となると「結構昔だ」と感じる。まあ、これは感じる人の年齢による話。

(注2)兵糧攻めは、攻められる方が苦しいのはもちろんだが、攻める側にもかなりの負担がかかる。つまり、大勢の侍を長いこと待機させれば、当然食料が必要になるし、長期に及べば、せっかく源氏方についてくれた侍たちの志気の低下も問題になってくる。そう簡単でない。戦の規模がある程度小さくならないと、この戦法は使えないと思われる。

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リフレッシュ休暇(1)下関その1 [雑文]

 僕が今の会社に就職したのは1987年だった。2012年に勤続25年になり、リフレッシュ休暇をもらった。2013年に書いた「ひぐらし大旅行」というシリーズものの記事はこのときのものだった。(注1)
今年は2022年、勤続35年でまたリフレッシュ休暇をもらうことになった。(注2)

 長い休みをもらったら旅行に行きたい。でも前回と違って、今回は両親の健康が心配で、あまり長い期間の旅行にはちょっと抵抗があった。いろいろ考えた結果、日程は3泊4日の計画にした。初日は下関。壇ノ浦の古戦場を見てみたかったのだ。

 7月4日、早朝、新横浜発6:51発ののぞみ5号にのり、11:14に小倉に到着。わずか4時間半、このスピードは驚異的である。そこから山陽本線に乗って下関へ。下関の駅からバスにのって、みもすそ川(注3)というバス停で降りるとその辺一帯が壇ノ浦の古戦場として整備されている。

 早速、源義経と平知盛の像に対面した。義経の方は八艘飛び、知盛の方は碇を抱えて入水するところを造形したようだ。二人ともやたら男前である。

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 ところで、義経の八艘飛びも、知盛の碇も、平家物語の記述とは違いがある。僕は最初、これは写本による違いなのかと思っていたが、実際はそうではなく、後世の歌舞伎や能で、そのような脚色が為されたらしい。まあ、その方がドラマチックで絵になる。

 実際に平家物語でどう書かれているか、読み返してみた。まず八艘飛びの元になったと思われる場面。ここは能登守教経(のりつね)が義経を討とうと、義経の舟に飛び乗ったところ、義経が形勢不利とみて、他の舟にひらりと飛び移ったという場面である。教経は追い切れず、源氏方の侍二人を両脇に抱えて道連れにして入水した。(本文中、判官というのが義経のこと)
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 それから、知盛が入水する場面は、平家物語の本文では、鎧を二枚重ね着して(水に浮かないようにして)沈んだということになっている。(文中、新中納言というのが知盛のこと)
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 ただし碇を抱えて入水するという脚色のヒントになったらしい場面が他にある。これは教盛(のりもり)と経盛(つねもり)が入水するシーンで、この兄弟が鎧の上に碇を背負い、一緒に海に入ったと書かれている。
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 最近フジテレビで、アニメの平家物語が放送されたが、最終回では、知盛が碇を抱えるシーンがきちんと描かれていた。(AmazonのPrime Videoで今、無料で見られる)
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(つづく)

***
(注1)興味のある方、下記URLを参照
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2013-11-27

(注2)制度としては休みを勤続35年でもらうか、または停年前1年でもらうかの二者択一になっている。どちらも内容は同じなのだが、学歴によっては勤続35年に満たないまま停年になる人がいるので、それに配慮されているらしい。

(注3) みもすそ川・・・漢字では「御裳川」と書くらしいが、ひらがな表記が公式になっている。ここの町名も「下関市みもすそ川町」という。おそらく他所から観光で訪れる人が読めなくて不便なので、ひらがな表記にしたのだろう。


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平家物語を読みたい(17) 平家滅亡 [読書]

 最後に壇ノ浦の合戦のあとを含め、平家一族(注1)がどうなったかまとめてみた。ただ人数が多いので、清盛の子供、孫あたりに絞る。

 まず長男の重盛と次男の基盛は父親よりも先に亡くなっている。重盛の長男の維盛は都落ちの最中に屋島を抜け出して滝口入道を訪ね熊野で入水した。(これは「維盛と滝口入道」のところで紹介)その息子の六代(注2)は、壇ノ浦が終わった時点で8歳だった。

 嫡系中の嫡系であったが幼かったので、女房たちが文覚(頼朝に蜂起を勧めた僧)に助けを求めた。文覚は鎌倉まで行き頼朝に六代の助命を嘆願し、結果、助けられた。頼朝の立場としては文覚にも義理があったし、また平治の乱のときに、清盛に殺されるところを重盛に助けられた恩があったので、その孫を助けた形になった(注3)。

 その後、六代は出家して仏道修行に励んでいたが、20年ほどたって(時は鎌倉時代)文覚が不祥事を起こしたときに連座責任で30歳を過ぎたころに殺された。この人が死んだ時点で、清盛の子孫の男系が完全に滅びたことになる。

 三男の宗盛。二人の兄が早く亡くなってしまったので、嫡男として一族を率いる立場になったが、この人は元々そういう方面に向いていない人で、平家物語では、かなりカッコ悪い役回りになっている。そもそも義仲が京に攻め寄せたときに、戦いもせずに都落ちを決めたというのが、すでにカッコ悪い。

 さらに壇ノ浦では、みんなが入水するから自分も入水しようか、と迷っていたので、見ていた近くの侍がイライラして海にドボンと突き落とした。これを見た息子の清宗も一緒に飛び込んだ。ところが親子そろって泳ぎが得意だったため死にきれず、清宗は「父上が沈んだらあとを追う」と思い、宗盛は「息子が沈んだらあとを追う」と思い、互いに様子を見て浮いていたら、源氏に助けられてしまった。

 義経は宗盛親子を捕虜として鎌倉に連行した。その道中で宗盛は義経に「なんとか助けてくれ」と命乞いをしている。義経は「鎌倉殿は情け深い方だから島流しくらいで助かるだろう」などと慰めたが「たとえ流されるのが蝦夷地であっても生きていたいものだ」などと言ったという。武士としては、かなり情けない部類の人ではないだろうか。まあ情けないとは言っても一応、平家の総大将である。結局、宗盛親子は、頼朝に面会したあと、京に戻される途中の近江の国(滋賀県)の篠原というところで斬首された。

 四男の知盛は、壇ノ浦で最後まで戦って入水。五男の重衡は一の谷で捕虜になり頼朝の指図で伊豆に軟禁されていたが、壇ノ浦のあと奈良焼き討ちの責めを負い、奈良に連行されて斬首された。(このシリーズの「重衡と千手前」で紹介)

 最後に建礼門院徳子。壇ノ浦では安徳天皇(=自分の子供)と一緒に入水したが、源氏方に助けられ捕虜になった。その後、他の生き残った女房たちとともに出家して、大原の寂光院という庵に住んで、一族の菩提を弔いつつ天寿を全うしたという。平家物語は全12巻であるが、そのあとに1巻だけ番外編のような位置づけで、灌頂巻(かんぢょうのまき)(注4)というのがあって、ここにそのいきさつが書かれている。

 壇ノ浦が終わって1年ほど経ったある日、後白河院が寂光院を前触れもなく訪ねた。このときに建礼門院が自分の人生を六道輪廻(注5)になぞらえて語るシーンが興味深い。清盛の娘として高倉天皇に嫁ぎ、皆にかしずかれて暮らしていた頃は極楽のようだった。義仲に攻められて都落ちをしたときは人間界の怨憎会苦、愛別離苦を経験した。大宰府を追われ海上を彷徨い、真水が飲めなくて苦しんだときは餓鬼道とはこういうものかと思ったし、その後の瀬戸内の戦は修羅の世界、壇ノ浦でみなが次々に斬られ入水するところは地獄とはこういうところかと思ったという。

 平家物語の最後は、この寂光庵の尼僧たちがみな往生を遂げたところで終わっている。荒々しい戦や戦後処理が終わり、ラストは穏やかな、涅槃寂静を思わせるシーンで終わる。ハッピーエンドではないけれども、この終わり方は上手で、爽やかだなと思った。

***
 長いこと書いてきた「平家物語を読みたい」のシリーズはこれにて終了する。小学館の「日本古典文学全集」のシリーズは、大変勉強しやすい本だった。この本のおかげで古典を読む楽しさを十分に味わうことができたと思っている。勉強会に誘ってくれた姉にも感謝。(記事を読んでくださった皆さんも、ありがとうございました)

 ・・・ついでに。2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まっている。今日の時点で2回が放送され大変面白い。伊豆に流されていた源頼朝が蜂起し、平家を滅ぼして鎌倉幕府を開き、そのあと北条氏が受け継いで・・・という話になっていくらしい。平家方から見ると壇ノ浦=滅亡であるが、源氏方からみると、まだ夢の途中である。

 源平の争乱と明治維新は以前から大河ドラマでは何度も取り上げられている。やっぱり大革命というのはドラマの宝庫なのだろう。(おわり)

***
(注1)「平氏」という言葉は、桓武天皇から臣籍降下して「平(たいら)」という姓を名乗る一群の人々を指すが、「平家」といった場合は慣例的に平清盛の一族を指すのだそうだ。これは今回初めて知った。

(注2)平正盛(清盛の祖父)から数えて六代目だから六代というのだそうだが、なぜそこから数えるのか不明。いずれにしても名前はあるらしいが、平家物語では一貫して六代と呼ばれているので、ここでもそう呼ぶ。

(注3)平治の乱のときに頼朝は13歳くらいだった。本来ならば清盛に殺されるところを、池禅尼(清盛の継母)が助命を嘆願、清盛の弟の頼盛と長男の重盛が代わる代わる清盛の説得に当たり、結果、助命されて伊豆に流されたという経緯があり、頼朝は、頼盛と重盛には恩義を感じていた。

(注4)灌頂(かんぢょう)・・・仏教の言葉で、頭に水を灌ぐ儀式を表す言葉で、仏道修行の最後の仕上げにこれをやるらしいが、平家物語では、建礼門院の晩年を修行の最終段階に見立ててこのようなタイトルになっているらしい。

(注5)六道輪廻・・・仏教の人生観。極楽、地獄、人間、修羅、餓鬼、畜生の六つの世界があって、人間は死んでも転生(生まれ変わり)して、この六つの世界をめぐるという思想。例えば、人間界で無駄に動物を殺した人にはバチが当たって、来世は畜生道(動物の世界)に落ちる、などという考え方。

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平家物語を読みたい(16) 決戦!壇ノ浦 [読書]

 さて、屋島の合戦が終わったあと、平家一族は、彦島に逃げ込んだ。ここは、本州の最西端である。
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 壇ノ浦の合戦の前、平家を取り巻く環境がどうなっていたのかをちょっと整理してみた。というのは、屋島が終わったあと、近くの有力者たちの寝返りが結構起きていて、壇ノ浦のとき、実際はもう放っておいても負けるような状態になっていたのだ。

 まず九州。義仲に京を攻められて都落ちをしたときに、平家一族は一旦太宰府に入ろうとしたが、地元の侍がすべて源氏方についていて追い出されてしまい、居場所がなくなった結果、屋島に落ち着いたという経緯があった。

 つぎに熊野権現の別当、湛増(注1)。この人はもともと平清盛と良好な関係にあったが、戦況が源氏に有利になり、リーダーとして源氏につくか、平家につくかの判断を迫られた。平家物語には書かれていないが、源氏と平家、双方から味方につくように迫られていたようで、中立という選択肢はなかったようだ。湛増は戦の行方を闘鶏で占い、源氏につくことにしたという。平家にとっては神に見放されたも同じである。

 それから、四国の有力武将たち。伊予の武将、河野通信(こうのみちのぶ)、この人はもともと源氏方だった。彦島に対して四国のこの位置に味方がいるというのは源氏方にとってはかなり有利だったのではないか。

 また四国の最大勢力の田口家は平家方であったが、屋島のあと、義経の部下の説得工作により田口教能(たぐちのりよし)が投降。総勢3000騎が源氏方につくことになった。そして極めつけが、田口重能(たぐちしげよし)。この人は田口教能の父親で、壇ノ浦の合戦の直前、息子が源氏方についたことを知り、合戦の最中に寝返り、勝敗を決定つけることになる。

 ・・・という四面楚歌の状態である。こういう場合、現代人ならば、おそらくほとんどの人が「もう無駄な殺生はやめ、平和的な説得工作に徹した方がいいのではないか」と考えるだろうし、実際そういう考えもあったらしい(注2)が、当時の武士の使命感が「敵と戦って首を取り、勝って報償をもらうこと」なので、何もせずに静観するということは、結局できなかったのではないか。これは僕の想像である。

 さて源氏が瀬戸内海側、つまり東側から彦島に攻め込もうとすれば、関門海峡を通る必要がある。屋島が終わって1ヶ月後の3月。壇ノ浦(現在、関門橋が架かっている当たり)で平家軍と源氏軍が激突することになった。
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 壇ノ浦の合戦は、海戦である。双方が船に乗って矢の打ち合いや船に飛び乗っての斬り合いをする。大将や身分の高い人たちは、唐船と呼ばれる高級な船に乗っていて、侍達はいわゆる兵船に乗るのが普通だったようだ。ところが、このとき平家方には唐船と兵船を入れ替える作戦があった。身分の高い人達を兵船に乗せ、唐船の方に侍を乗せる。すると源氏方は唐船の方を攻めてくるだろうから、そこを挟み撃ちにしようというものだった。

 ところが、この計略は失敗に終わった。というのは先に書いた、田口重能が、平家方として参戦しながら、合戦の最中に寝返って源氏につき、身分の高い人達が乗っている兵船を攻撃したので、源氏方に計略がバレてしまい、平家方は劣勢に陥った。

 壇ノ浦の合戦では、勇ましい話はあまり無いようで、どちらかというと平家一族の悲壮な死に方の描写が目立つ。とくに悲壮極まるのが、わずか8歳の幼帝、安徳天皇の入水である。時子(清盛の未亡人)が「我が身は女であっても敵の手にかかって死ぬつもりはない。帝のお供に参る。志のある者はあとに続きなさい」と女房たちに呼びかけ、「波の下にも都がございます」と帝を慰めて、曲玉と草薙剣を携えて帝とともに入水した。(注3)

 たくさんの人が入水し、ほとんどの人が死んだ。しかし建礼門院と総大将の宗盛を含む80人ほど(注5)が源氏方に助けられ捕虜になったという。三種の神器のうち八咫鏡と曲玉は入れ物が海面に浮いて見つかったが、草薙の剣は海底に沈んでしまった。源氏方が近くの海女を動員して必死で捜索したが見つからなかったという。(注4)この合戦をもって、平家はほぼ全滅し、源氏方の勝ちとなった。このあと戦後処理につづく。

 YouTubeのまんが日本昔話の公式サイトに「耳なし芳一」の話がアップされているので紹介する。壇ノ浦の合戦で死んだ平家の人々の亡霊が、芳一の琵琶の弾き語りを聞きに来る話。
下記URL。
https://youtu.be/vGxf8jgB7ds

***
(注1)熊野権現。この時代、熊野詣(もうで)が非常に流行した。清盛も重盛も詣でたし、維盛も屋島を抜け出して高野山に滝口入道を訪ねたときに熊野にも詣でている。また鹿ヶ谷の陰謀で鬼界が島に流された3人のうち俊寛を除いた2人も島に熊野権現を勧進して帰郷を祈願している。別当というのは宮司のリーダー。湛増(たんぞう)とは(わかりにくいが)人名である。
(注2)壇ノ浦の前に、京の都で後白河院と摂関家がそのような話し合いをしていたらしい。
(注3)安徳天皇は歴代の天皇の中で、戦乱が原因で亡くなった唯一の天皇である。
(注4)現在の草薙の剣は、伊勢神宮から献上されたものだいう。(Wiki情報)
(注5)平家物語の記述によると、武将38人、女房43人とある。

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平家物語を読みたい(15) 那須与一と扇の的 [読書]

 平家物語は全12巻であるが、クライマックスともいうべき屋島の合戦と壇ノ浦の合戦は第11巻に収録されている。今回書きたいのは屋島の合戦である。一ノ谷の合戦が終わって1年ほど経った1185年1月。都にいた義経は後白河院から、平家追討の院宣を受け、準備を開始した。

 2月17日の夜。出撃の予定であったその日は強風で、常識で考えれば、とても出航できないような悪天候であった。しかし義経は周囲の反対を押し切り、総勢200艘のうちのわずか5艘で出航した。そして普段なら3日かかるところを、強風のため、わずか6時間で勝浦(徳島県東部)に到着した。上陸した義経は地元の侍を案内人にして、陸路で屋島(現在の香川県高松市)へ進軍した。馬が50余頭乗っていたと書かれているから、勢力はわずか50騎強であったことになる。

 翌日、2月18日、義経軍は屋島の平家の陣に攻め込んだ。義経は少人数であることを悟られないように、一騎ずつではなくできるだけ数騎ずつ群れをなして、平家の前に姿を現したという。平家は大群であると勘違いして、みな舟にのって海上に逃がれ、陸と海で矢の打ち合いとなった。また、阿波、讃岐で平家に背いて源氏につこうとしていた侍が集まりはじめ、義経の軍はいつのまにか300騎ほどに増強されていった。

 その日、夕暮れになり、一時停戦というときに、平家方の船に一人の女性が現れ、赤い扇で真ん中に金色の日の丸を描いたものを竿に掲げて、これを射て見よというふうに陸へ合図をした。これを見た義経は、誰かあれを射る者はいないか、と部下に問うた。すると、味方の中に那須与一宗高(なすのよいちむねたか)という名手がいると知らされた。

 義経は与一に扇を射るように命じた。波に揺れ動く船の扇の的を射るのは至難の業であることは誰にでもわかる。指名された那須与一は一旦は尻込みしたが、命令に背くことは許さんと言われ覚悟を決めた。結果、見事命中させるのだが、ここの描写がスローモーションの映像を見ているようで実に美しいので、原文を紹介したい。

***
 与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の明神、日光権現、宇都宮、那須のゆぜん大明神、願はくはあの扇のまンなか射させてたばせ給へ。これを射損ずる物ならば、弓きり折り自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見ひらいたれば、風もすこし吹きよわり、扇も射よげになッたりける。与一鏑をとッてつがひ、よッぴいてひやうどはなつ。小兵といふぢやう十二束三伏、弓は強し、浦ひびく程長鳴して、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射きッたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさッとぞ散ッたりける。夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日いだしたるが、白浪のうへにただよひ、うきぬ沈みぬゆられければ、奥には平家ふなばたをたたいて感じたり。陸には源氏箙をたたいてどよめきけり。
***

 さて、このあと、平家の船の上で興に乗った侍が舞いを始めた。これをみた与一は、この侍にも矢を命中させ、殺してしまった。そこから戦闘が再開したが、結局夕暮れで停戦。平家は、船を屋島の東側の志度というところへ移動させたが、源氏は陸路でこれを追跡し、平家は上陸できず、再び海に逃れた。このあとは壇ノ浦の合戦につづく。

 というわけで、ここは那須与一の最高にかっこいいシーンなのだが、それはそれとして、僕が気になったのは、扇の的を射よと挑発する女、的を射たことに浮かれて舞う男。このふたりの人物は一体何を考えているのだろう。ここは戦場であり、矢が飛び交っているのである。侍以外は船の底にじっとしていればよいものをそこにのこのこ出てきたら射殺されてもしかたない。実際、舞を舞った男は即座に射殺されている。恐怖のあまり気が触れたとしか解釈できない。 

 2005年の大河ドラマ「義経」では、このシーンがどのように描かれていたのか、一緒に勉強会をやっていた姉に聞いたところ、「あの扇を掲げる役目はたしか能子(よしこ)がやったんだよ」と教えてくれた。あとでシナリオ本で確認したところ、確かにその通り。時子(清盛の未亡人)が戦の行方を占うために、扇の的を射させるといいだし、その役目を能子(清盛が常盤御前に生ませた子、義経にとっては同腹の妹)が買って出た、という風に描かれている。

 大河ドラマ「義経」は、宮尾登美子の「宮尾本・平家物語」を原作にしているので、原作本も調べてみたが、こちらは女性の方は玉虫と言う名の女房とされている。つまり能子をここに登場させ、敵同士になってしまった兄と妹の対面という意味を持たせたのは、どうやら大河ドラマの脚本家のアイデアらしい。古典の平家物語が、現代の作家によって洗練されている。こういうのは見ていて興味深い。

 なお、この「扇の的」のエピソードは、神田松之丞(伯山)さんの講談がyoutubeにアップされていた。ぜひ紹介したい。この動画がいつまで存在するかは保証はできないが。
下記URL。
https://youtu.be/Wcz3mLFpOLo

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平家物語を読みたい(14) 重衡と千手前 [読書]

 前の記事で、一ノ谷の合戦まで来たが、ここでちょっとだけ前に戻る。1180年12月に起きた奈良の興福寺東大寺の焼き討ち事件である。以前の記事で、以仁王が反乱を起こしたときに、三井寺と興福寺が以仁王の味方についたことを書いた。(注1)その後、都では、興福寺が以仁王の味方についたのだから、平家が興福寺を攻めるに違いないとの噂がたち、それに呼応するように興福寺が蜂起した。

 興福寺は藤原氏の氏寺である。都から摂政藤原基通(もとみち)が取りなしに行ったが、興福寺は言うことを聞かず、朝廷からの使者を送っても、その髻を切って侮辱したり、首を切って晒したりした。清盛は激怒し、息子の重衡(しげひら)(注2)を大将にして、4万騎の軍勢を奈良に差し向けて興福寺を攻撃した。

 奈良に旅行した人ならわかると思うが、興福寺と東大寺はすぐ隣である。興福寺が攻められれば、東大寺も当然巻き込まれる。夜の戦闘になり、重衡はあたりの民家に火を放った。これが冬の乾燥した大気のせいであっという間に燃え広がり、興福寺も東大寺も建物はもちろん経典も仏像も全て燃えてしまった。戦禍を逃れてこれらの寺に逃げこんでいた民衆もみな焼け死んでしまい、奈良は壊滅状態となった。

* * *

 そしてその大事件から約3年後の1184年3月、一ノ谷の合戦。このとき重衡は、馬に敵の矢が当たって動けなくなり、味方の付き人も怖じ気づいて逃げてしまった。もはやこれまでと自刃しようとしていたところ、源氏方の庄四郎高家(しょうのしろうたかいえ)という侍が、重衡を説得して自刃をやめさせ、自分の馬に乗せて捕虜にしたという。

 重衡は京へ送られた。そして後白河院(注4)から平家方へ「三種の神器と人質の重衡の身柄を交換する」という取引を持ちかけることになり、重衡の使者が屋島へ送られた。しかし平家は「三種の神器を返したところで重衡が戻ってくるとは思えない」と拒絶。取引は失敗した。

 その後、重衡は鎌倉の頼朝のところに送られた。その理由は平家物語には明確に書かれていないが、想像するに「重衡は奈良の大衆から恨まれる存在であって都に置いておけば火種になるから、都から遠い鎌倉にひとまず置いて何かの取引に使おう」と考えたのではないだろうか。

 実際、頼朝は鎌倉に呼び寄せた重衡に対面し、奈良の焼き討ちについて尋問をしている。そのとき重衡は、「奈良の件は僧都を懲らしめるためにしたことであるが、最初から壊滅させるつもりでやったわけではない。しかしいずれにしても、もう自分の命運は尽きた。覚悟は出来ているから早く首を刎ねてくれ」と言った。頼朝は重衡の態度に感服し、身柄を伊豆の国の狩野介宗茂(かののすけむねもち)に預けることにした。宗茂は情け深い人で、重衡を丁重に扱った。

 宗茂は、千手前(せんじゅのまえ)という女性に重衡の世話をさせた。あるときは、湯女になって入浴の手伝いをし、あるときは宴会をして琵琶や琴を演奏したり歌を歌ったりした。重衡も、都の育ちで芸事は一通り身につけているから、千手前がただ者でないことはすぐにわかったし、千手前も「戦のことしか考えない粗野な人物かと思っていたがまことに雅な人だった」と頼朝に報告している。

・・・しかし頼朝の戦略であろうとは言え、捕虜に対してこんな歓待の仕方ってあるだろうか。宴会はまああるとしても、湯女なんてやられたら、ただ事では済まないと思うのだが。その後、壇ノ浦の合戦ですべてが終わったあと、重衡は結局奈良に連行されて斬首されることになるが、千手前はその知らせを聞いて出家し、重衡の菩提を弔ったそうである。そうしたことを考えると深い仲になっていたと考えても不自然はなかろう。(注3)

*  *  *  *  *

(注1)URLは下記。
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2020-12-02
(注2)清盛の息子は、上から重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡の5人。重衡は5男である。
(注3)このあと千手前が重衡の子(しかも男の子!)を産んだりすれば、もっと話が広がるんじゃないか、などと想像してしまった。いやいやキリがない。
(注4)平家が都落ちするとき、後白河院を一緒に連れて行くはずであったが、院はこれを事前に察知してうまく隠れてしまい、結局都に残留していた。



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平家物語を読みたい(13) 維盛と滝口入道 [読書]

 明治27年(1894年)に発表された、高山樗牛の「滝口入道」(注1)という小説がある。この小説、平家物語を題材にしたもので、一ノ谷の合戦のあと、維盛(=重盛の子=清盛の孫)が屋島を抜け出して、高野山に登るいきさつが書かれているのだが、これが平家物語よりも面白い。だからここの話は、小説の方で紹介したい。ただ平家物語とはちょっと違う部分はあるので、そこは注記を入れることで明らかにする。(注2)

***
■平家全盛の時代、ある花見の宴のときに、建礼門院(注3)に仕える横笛という女房が舞を披露した。重盛に仕える武士の斎藤時頼は、その美しさに一目惚れし、恋文攻勢が始まった。しかし横笛に恋する男がもう一人いて、横笛のところにいた老婆を買収して斎藤時頼の悪い噂を流し、横笛を自分の方に振り向かせようと画策していた。横笛は二人の男性から同時に言い寄られ、為す術を知らず、結局時頼に返事を書くことはなかった。(注4)

■しかも時頼は父親から身分違いの恋を強く反対された。「好きでもない人と結婚するつもりもないが、親に背くこともできない」と悩んだ末、時頼は出家してしまった。横笛は、自分が何もできずに時頼が出家してしまったことを知り、自分の仕打ちを悔やんだ。そして時頼が嵯峨の往生院というところで修行しているという噂を聞き、一人でそこを訪ねた。しかし時頼は人違いだ、と横笛を追い返してしまった。(注5)

■その後、時頼(=滝口入道)は、巡錫(注6)の途中で、休ませてもらった民家の老婆から、偶然にも横笛の消息を知らされることになった。その月の初めに、近くの草庵に美しい尼僧が住み着いた。村人たちは、尼僧は俗名を横笛といい恋に破れて出家したらしい、と噂した。思い患うことがあったのか、尼僧は程なく帰らぬ人となった。村人たちは草庵の傍らにその人を埋葬したという。滝口はこの話を聞いて落涙し、墓を訪れ、横笛の冥福を祈った。(注7)

■時は流れ、重盛、清盛は世を去った。頼朝が挙兵し、義仲が都へ侵攻。平家は都を追われた。維盛は一ノ谷の合戦のあと、付き人の足助二郎重景(あすけじろうしげかげ)とともに屋島を抜け出し、そのとき高野山にいた滝口入道を訪ねた。そして、出家をして姿を変えて都に戻って妻子に会いたいと言った。滝口は生前の重盛から「これから平家は衰退していく。維盛は頼りないからお前が支えてやってくれ」と言われたことを思いだした。(注8)

■その夜、維盛の付き人の重景が滝口の部屋に来て、昔のことを懺悔した。滝口が横笛に恋していたときに、横笛のところにいた老婆を買収して滝口の悪い噂を流し、横笛を自分の方に振り向かせようと画策していた男は重景であった。「貴殿を出家に追い込んだのも、横笛を死なせてしまったのも、元をたどればみな自分のせいである。許して欲しい」と詫びた。滝口は、このことは感づいていたし、何事も過ぎた昔は、恨みもなく喜びもなしと言い、水に流した。(注9)

■滝口は重盛の遺言、維盛の名誉を思い、翌朝、維盛を諫めた。「武士ならば、たとえ負け戦でも、敵に最後の一矢を報いて討ち死にするのが道であろうに、平家の嫡流が、こともあろうに自分だけ逃げ出すとは何事か。すぐにでも屋島に戻って一門と運命を共にすべし」(注10)維盛は返す言葉もなく、翌日、滝口が外出している間に高野山を下りて、和歌の浦で重景とともに入水した。滝口入道は、これを知り、後を追うように切腹した。(注11)

*****
・・・というストーリーなんだが、どうだろう。僕としては自信を持って人に勧めたい本である。(まあ全部語ってしまったあとで勧めるのも何だが)文語体を読むのにいささか苦労するが、美しい日本語なので時間をかけて読む価値はある。なお僕がこの小説で一番心を打たれたのは、滝口が横笛の墓参りをしたときの描写だった。ここは小説をそのまま引用して紹介したい。嗚呼、諸行無常。

 「滝口入道、横笛が墓に来て見れば、墓とは名のみ、小高く盛りし土饅頭の上に一片の卒塔婆を立てしのみ。里人の手向けしにや、半ば枯れし野菊の花の倒れあるも哀れなり。辺りは断草離々として跡を着くべき道ありとも覚えず、荒れすさぶ夜々の嵐に、ある程の木々の葉吹き落とされて、山は面痩せ、森は骨立ちて目もあてられぬ悲惨の風景、聞きしに増りて哀れなり。ああ是れぞ横笛が最後の住家よと思へば、流石の滝口入道も法衣の袖を絞りあへず、世にありし時は花の如き艶やかなる乙女なりしが、一旦無常の嵐に誘はれては、いづれ逃れぬ古墳の主かや。 ・・・」


******
(注1)滝口入道(たきぐちにゅうどう)・・・帝の住む清涼殿(せいりょうでん)を警護する武士の詰め所が、水路の落口の近くにあったことから、警護の武士は滝口武者と呼ばれていた。主人公の斎藤時頼は滝口武者であったことから斎藤滝口時頼と呼ばれていた。この人が出家して滝口入道と呼ばれるようになった。
(注2)ネタバレになってしまうが、だいぶ古い小説で、あらすじを紹介するくらいは許されるだろう。かつては岩波、新潮、角川から文庫本が出ていたが、今はすべて絶版で、古書でしか手に入らない。なおこれから入手しようとする人がいたら角川を薦める。挿絵が入っていて雰囲気が良いし、また難解な言葉の注釈がその言葉のページに載っている。(新潮は巻末に一括。岩波は注釈がない)
(注3)建礼門院・・・清盛の娘。高倉天皇に嫁いで安徳天皇を生んだ。結果、清盛は天皇の祖父ということになる。
(注4)花見の宴、第三者の裏工作などは高山樗牛の創作。平家物語では時頼と横笛は登場したときにすでに恋仲になっている。
(注5)平家物語では、時頼が、恋仲になっていた横笛を一方的に捨てることになっていて、あまりの冷酷さに違和感を覚えるが、小説では、恋仲になる前に時頼が相手にされず失恋したことになっていて、横笛の方にある程度の過失を設定している。
(注6)巡錫(じゅんしゃく)・・・僧侶が各地を回って人々を教化すること。
(注7)平家物語では、滝口は、自分が出家したあとで横笛も出家したことを知り、一度は文(歌)を交わしたりなどしている。しかし小説の方では「横笛が出家していた」という事実を知ったとき横笛はすでに亡くなっていた。その方が物語の演出としてはドラマチックだ。
(注8)平家物語では、生前の重盛と斎藤時頼が話をするシーンはなく、また維盛は出家して熊野三山に参拝して入水したいと考えていて、滝口入道はこれらすべてを手助けしている。
(注9)この懺悔も、平家物語にはない高山樗牛の創作である。横笛の話と維盛の話は平家物語では、無関係のエピソードになっているが、付き人の重景をこういう悪役に仕立てることで、二つのエピソードが上手く結びついている。
(注10)諫めるシーンは小説の創作である。高山樗牛には「滝口は入水の手助けなんかしていないで維盛をこう諭すべき」という思いがあったのではないか。
(注11)平家物語では、維盛の入水のあとの滝口の消息は書かれていない。


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平家物語を読みたい(12) 敦盛の最期 [読書]

 都落ちした平家の一族は、太宰府(現在の福岡県太宰府市)に拠点を築こうとしたが、地元の侍達がみな源氏方になっていて追い出されてしまい、結局四国の屋島(現在の香川県高松市)に落ち着くことになった。

 一方、義仲は、京の都を占領して一時期大きな権力を握ったが、やりたい放題で清盛の時代よりひどいことになり、鎌倉の頼朝が義経を派遣して、義仲は討伐されてしまった。頼朝は京を制圧したことになり、ここから義経が大活躍することになるが、この辺の事情は過去に何度もドラマや映画のクライマックスになっているので、知っている人は多いと思われる。

 義経軍が義仲を滅ぼしたあと、平家が滅びるところまで、小さいのを除いて代表的な合戦は一ノ谷、屋島、壇ノ浦と続く。今回書きたいのは一ノ谷の合戦のエピソードになる。なお、一ノ谷は現在の兵庫県神戸市須磨区というところで、明石海峡大橋の東側の大阪湾に面している。平家の拠点がここに一つあった。(注1)

 義経軍は、いわゆる「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の挟撃作戦により平家を追い詰め、海上に逃れるしかなくなった平家の侍たちは、海に浮かぶ船(注2)に退却しようとしていた。これを追跡する源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)という侍が、馬で海に進んでいく平家の侍の一人に「敵に後ろを見せるのか。引き返してこい」と呼びかけた。

 相手は呼びかけ通り戻って来た。組み付いて馬から落ち、そのまま直実が首を取ろうとして顔を見ると、自分の息子くらいの若者だった。直実が名前を尋ねたところ、若者は名乗らずに、「首をとって人に聞いてみれば、みんな知っているだろう」と答えた。直実はこの若者に情がうつり、助けようとしたが、源氏方の味方が後ろから来てしまった。

「助けたいが味方が来てしまった。人の手にかけるくらいなら自分が討つ」
「いいから早く首をとれ」

 直実は仕方なく、この若者の首をとった。若者は笛を腰に差していた。あとで聞いたところ、この若者は経盛(清盛の2つ下の弟)の息子の敦盛だった。笛の名手で、持っていた笛は、小枝(さえだ)という名品だった。直実は、その合戦の日の早朝に、城の中から風流な管弦の音が聞こえてきたのを思い出し、さては笛を吹いていたのはこの人であったか、と気づいた。直実はこのときのことで、心に深い傷を負い、これがきっかけで後に仏門に入ることになったという。

***

 明治時代に作られた文部省唱歌で、「青葉の笛」という歌がある。一ノ谷の合戦の後の、敦盛の最期と、それから、前の記事で書いた忠盛の話を唱歌にしたものだが、僕はこの歌を一緒に勉強会をやっていた姉から教わって最近知った。聞いたことのない方、YouTubeの動画で聞けるので是非聞いていただきたいと思う。(この動画がいつまで存続するかはわからないが)よくぞこれほど悲壮なメロディーを作れたものだと感心するくらい悲壮な曲である。
(下記URL)
https://youtu.be/8UShL2FwUNM


青葉の笛

一ノ谷の戦敗れ 
討たれし平家の公達哀れ
暁寒き須磨の嵐に
聞こえしはこれか
青葉の笛

更くる夜半に門を敲き
我が師に託せし言の葉哀れ
今際の際まで持ちし箙に
残れるは「花や今宵」の歌

*********

(注1)拠点があったといっても、都落ちしてから城を新築したとは思えない。協力者から提供された建物と思われる。

(注2)海に浮かぶ船・・・もともと清盛の父親の忠盛は瀬戸内で海賊退治をやっていた人だったので、平家は瀬戸内海に強い基盤(=協力者)をもっていた。船でこの辺を動き回ることは、もともと得意分野であって、陸上よりも海上ルートで移動することが普通のことであったと思われる。戦も終盤は海戦が多い。

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平家物語を読みたい(11) 平忠度の歌 [読書]

 さて、木曽義仲が北陸で平家軍を破り、いよいよ京の都へ迫ってきた。義仲の知略により、比叡山は義仲方につくことになり、平家方が義仲の軍に対抗できる見通しはなくなった。ここで平家方のリーダー宗盛(むねもり)(注1)は、都を捨てて、西方へ落ち延びることを決意する。

 7巻の「主上都落」「維盛都落」「忠度都落」「経正都落」「一門都落」「福原落」などの章には、一族が混乱しながら都を出て行く様子が描かれているが、この記事で取り上げたいエピソードは「忠度都落」である。平忠度(たいらのただのり)という人は、忠盛の6番目の男子(注2)で、清盛の弟である。あちこちの戦でリーダー格を担った人だったが、武士としてだけでなく歌人としても名を為した人だった。

 忠度は、都落ちをした後で、思い直して都にまた戻ってきた。そして歌の師匠であった藤原俊成(としなり)(注3)を訪ねた。忠度は自分の歌を書いた巻物を俊成に手渡し、「今後、歌集を編むことがあったときに、この中の自分の作品の中で良い物があったら、ぜひ載せて欲しい」と頼んだ。俊成は忠度の気持ちを汲み取り、この頼みを快諾した。(注4)

 一旦都を立って、また戻ってきたという、このときの忠度の心の迷いは、いかばかりであったろうか。そもそも都落ちをするときに、自分の歌を書いた巻物をもって出かけることが、どれほど歌に打ち込んでいたかを物語っている。そして都を出たあとも「この歌と共に討ち死にするべきか、それとも世に残すべきか」とか「師匠のところに預けてくればよかった」とか逡巡している様子が思い浮かぶのである。潔さを旨とすべき武士としては、いささか格好悪いけれども、とにかく忠度は都に戻って師匠に巻物を預け、ようやく迷いを断ち切って味方に合流した。

 その後、忠度は一ノ谷の合戦で戦死する。討った側の侍は、この人物が誰であるか、最初はわからなかったけれども、箙(注5)に、文が結び付けられていて、それを解いてみると歌が一首書かれてあった。

行き暮れて木の下かげを宿とせば 花やこよひの主ならまし 忠度
(旅の途中で日が暮れて桜の木の下陰に宿るならば、桜の花が今夜の主となり、もてなしてくれるであろうか)

 この歌により、討たれた人が忠度であることがわかった。このことを知った侍たちは、敵も味方もみな、その才能を惜しみ悲しんだという。

 この歌、僕のような素人でも素直に感動できる、実に美しい歌だと思う。。一ノ谷の合戦があったのは1184年3月20日。ちょうど桜の花の咲く季節だった。



**************************

(注1)清盛の長男の重盛は父より先に亡くなり、次男の基盛も早世していたから、この時点で平家一族のリーダーは三男の宗盛だった。

(注2)平家物語は、平清盛の父親の忠盛が手柄を立てて殿上人になるところから始まる。以下は第一巻の「鱸(すずき)」という章に書かれている話である。当時、忠盛には、愛人がいて、この人は、鳥羽法皇の御所に勤める女房だった。ある日、忠盛がその女房のところで一晩過ごして、翌朝、扇の忘れ物をした。その扇には月が描かれていた。他の女房たちが「これは一体誰のものかしら」と冷やかしたところ、その女房(愛人)は、
「雲井よりただもりきたる月なれば おぼろげにてはいはじとぞ思ふ」
(雲間から、ただ漏れてきた月だから、いいかげんなことではその出所を言うまいと思う)
という歌を詠んだ。「ただ漏りきたる」と「忠盛きたる」をかけている。5・7・5・7・7のリズムに乗せることは素人でもやろうと思えばできるが、この掛け言葉っていうのは、よほど熟練していなければなかなかできないのではないだろうか。忠度は、この女房の産んだ子供だという。つまり忠度が歌の名手だというのは血筋であると言いたいのだろう。

(注3)藤原俊成(「しゅんぜい」とも読む)・・・公家であり歌人

(注4)藤原俊成が後の世で千載和歌集を編んだとき、忠度の巻物の中から、次の一首を選んで載せた。
「さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」
しかし勅撰和歌集(天皇の命により編纂する和歌集)であったため、朝敵となった平家の名前を入れることが出来ず、「詠み人知らず」としての掲載となった。

(注5)箙(えびら)・・・矢を入れておく筒のこと

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