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原発の抱える矛盾 [雑文]

 東日本大震災で、福島の原発が被災した。その後の政府や東電の動きはニュースで知る通りである。世論は、原発賛成、原発反対とあちこちで議論している。僕はというと、基本的に原発反対派である。ただ、急に舵を切るわけにはいかないとも思う。世の中ってのは急に変えるわけにはいかないのだ。これをやるとどこかに必ず歪みが出る。変えるなら変えるで、なんとかしてソフトランディングを考えないといけないと思う。(後述)

 ところで、原発の抱える決定的な矛盾について考えたことがあるだろうか。人々は原発が絶対に安全であることを要求する。しかし事故が起こる確率を0%にすることは不可能である。だから事業者も政府も「絶対に安全です」とウソをつかなければ運用できない。

 例えば自動車を考えてみる。毎日のように交通事故が起こり、年間数千人も死亡者が出る。WIKIで調べたら、2009年は4914人。バブル絶頂期の1988年は1万人を超えたそうである。これは事故発生から24時間以内に死亡した人数だから、一週間以内とか1ヵ月以内の人数を数えればもっと多いはず。今回の震災の死亡者・行方不明者の数字と比べて、なんと桁が同じである。自動車とはそういう乗り物なのだ。それにも関わらず、自動車を無くそうという声は上がらない。それは人々がその利便性を認めていて、事故がおこるリスクを許容していることを意味している。

 じゃあ原発はどうなのかと言うと、これは非常に特殊な例で、事故が起こって放射性物質を外部に撒き散らすと、その危険が何十年も何百年も、時には何万年も残る。他の事故と違って一過性の被害では済まない。だから人々は絶対に安全であることを要求する。つまり原発のリスクは許容できないのである。今回の事故では被爆による死者がまだ一人も出ていないにも関わらず、事故が起こったというだけでこれだけ世論が盛り上がる。

 「絶対に安全である」とはすなわち「絶対に事故が起こらない」=「事故の起こる確率は0%である」ことを意味する。(注)しかし、数学を少しでも勉強したことのある人なら、確率0%と100%は概念に過ぎず、現実の話ではないことを知っている。太陽が明日東から昇る確率は100%に近いが、それでも宇宙にどんな異変が起こるかわからないのだから、100%とは言えないのだ。

(注)ここで事故というのは人間に被害が及ぶようなものを指す。例えば「緊急炉心冷却装置が作動する」というのは事故とは言わない。あれは安全装置がトラブルに対して正常に作動しているのである。

 原子力発電所を建設するとき、その強度は、ある想定をして、その想定に耐えられるように設計する。例えば「関東大震災クラスの地震が起こっても壊れません」というようにである。「では、それを超える地震が起こったらどうなるのか」という質問には、原発推進派は「そんなことは有り得ませんよ」と笑って答えるしかない。本当は「有り得ない」のではなく「有って欲しくない」のである。つまりそこから先は思考が停止してしまって答えられないから、煙に巻いているのである。

 しかし、「有って欲しくない」ことが現実に起こってしまった。今回の事態は耐震強度の設計基準が古いからだったという話があるが、本質はそうではないと思う。あらゆる意味において、確率を0%にすることはできないのだから、起こっても別に不思議ではないのである。仮に、今回の地震の10倍の揺れや津波を想定した設備を作ったとしよう。安心していたら、ある日突然、隣の国がミサイルを撃ち込んでくる。これを想定して作っていなければ、その時点でおしまいである。

 政治家は無学な一般大衆とは違う。それなりに学問をした人が政治家になるのである。(たまにそうではなさそうな人もいるけど)ならば、ありとあらゆるリスクを想定して対策を講じておかなければならないのだ。あらゆるリスクを想定すれば原発という選択肢は必然的になくなるはずなのに、「そんな事態は有り得ませんよ」と言ってごまかす。「考えたくない」と言っているのと同じだと思う。原発を選択するなら、そのリスクを国民にきちんと説明しないといけないのに、説明すれば反対されるからリスクは隠す。

 「リスクの想定」を怠ると何が起こるか。ここに良い例がある。今回の災害で最初に活躍したロボットはアメリカ製だったそうだ。まあそうだろう。政治家が「絶対に安全である」と言っておきながら、その一方で「万が一に供えて・・・」と言っていたら、二枚舌だと言って笑われる。ウソをついているから供えもできない。「戦争は絶対に起こりません」と言っていたから軍事用ロボットも開発しなくなってしまった。かくして、日本では放射線の降り注ぐ原子炉建屋に進入できるロボットはなくなってしまったのである。あるのは産業用ロボットと二足歩行のアシモだけ。世界に名だたるロボット大国が世界に恥をさらしてしまった。

 さて話を戻して、ではそんな矛盾をかかえた原発を廃止するために、代わりの電力はどうすればいいのかって話になる。最初に書いた「ソフトランディング」の方法だが、やっぱり他の方式の発電設備の数を増やして対応するしかないんだろうな、と思う。まるで携帯電話の基地局みたいに、そこら中に発電所がある状態を作るのである。方式は太陽光でも地熱でも潮力でも風力でも何でもいい。いろいろ試してみれば、メリットもデメリットも理屈でなく現実でわかってくる。最後に良い物が残るだろう。そういう状態を作りつつ、少しずつ、原子力発電を廃止していく。

 そして、こういうのは、やっぱり政治家が旗振りをしないと、なかなか難しい。何しろ発電所の建設とか家庭用太陽光パネルの設置にはそれなりのコストがかかる。だったら補助金を90%出すとか、税制を90%優遇するとか(大袈裟かもしれないげど)、そんな政策を考えて推進するしかないのではないか。そんな気がする。あとはソ○トバ○クの社長みたいな金持ちに協力を仰いで、太陽光パネルつきのアパートをたくさん作ってもらうとか。うまくいくのかどうかはやってみなけりゃわからない。でも、うまくいかなかったらそれを教訓にして、また別の案を考えればいい。とにかくやってみなけりゃ始まらないよ。

 それにしても、原発事故現場で必死で働いている人達には頭が下がる。自衛隊も消防も、東電やその下請け会社の人も必死だ。こんな悲惨な戦場みたいなところで、自分の職務を全うしようとしている。その一方で政治家は延々と政争に明け暮れる。いいかげんうんざりする。台湾の人たちが日本の震災対応を見て言ったそうだ。「超A級の国民にC級の政治家」とかなんとか。しかし、国民が超A級だとしたら、その国民が選挙で選ぶ政治家が、なんでC級なんだろうね。


**************
【蛇足】
 もしかしてこういうことなんじゃないのかな。つまり日本の国民てのは、仕事第一なのだ。その分、政治のことを考える時間がなくて不勉強になる。だから選挙のときは、わかりやすいことを単純明快に言う政治家を選んでしまう。その公約が実現可能かどうかは、検証しない。要するにだまされちゃうんだよね。人がいいから仕事一途→超A級。人がいいからだまされやすい→C級の政治家が揃う。
 政治家がC級の場合でも国民がA級なら少なくとも平時は国内の秩序は保たれる。(外交はおかしくなるが)でも緊急事態のときは話は別だ。こういうときこそ政治家の本当の出番で、真価が問われるときなのに、足の引っ張り合いなんかやってる場合かね。
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