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はまぐりの碑 [雑文]

 GWの後半は、いつもの通り、実家に帰省した。帰省したからと言って特別なことをするわけでもないが、親父が健康のために毎日ウォーキングをするので、姉と姪と一緒に親父についていくことにした。

 千葉県市原市の臨海部には、かつてサッカーのJリーグが発足したばかりの頃に「ジェフ市原」というチームがホームグラウンドにしていた臨海競技場があり、このすぐ近くの公園に「はまぐりの碑」というものがある。碑の存在そのものは知っていたのだが、書かれている碑文については今まで全くの無関心だった。今回、よく読んでみて感動してしまった。長いけれども全文紹介する。
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建立由来
 京葉臨海工業地帯として石油コンビナートの煙突が林立するこの地帯は、東北は八幡から西南姉崎にかけて太古より内湾漁場として魚介類の宝庫であり、私達の祖先は網を曳いて魚を捕え、貝類を掘って生活の資とし、この無限の海の幸の中に生きて来たのであります。特に近年の海苔の養殖、採取はこの海岸地帯の重要な産業として、その生産数量、品質ともに広く国内外にその名を知られ、海辺沖合いに延々櫛比*する海苔しび**に無数の小舟が群れ集い、香高い海苔を採取する状は晩秋から冬にかけての此の地方独特の風物詩であり、又季節にはこの遠浅の海で海水浴や潮干狩又簀立て***を楽しむ人達が遠くバスを連ねて訪れ、内湾の観光地としても賑い栄えて来たものであります。
 戦後我が国の目ざましい経済成長に伴い、本県の方策としてこの地の工業開発が計画実施に移され、昭和32年より同37年に亘って漁業補償の交渉が県と漁民との間に続けられ、地区毎に逐次妥結した結果、関係漁民3284名は漁業権を放棄する事になり、海岸より沖合い約4キロメートルに亘る面積2142万平方メートルは埋立てられて工場用地に造成される事となり、情緒豊かな往時の海辺は一変して近代産業の用地となり、関係漁民の生活も又大きく転換されることとなりました。
 現代科学の粋を集めたこの工場群の建物の下には、今尚生きながら葬られた幾千万の成貝稚貝があり、この供養を通じて併せてこの海に生活して来た私達の先祖の霊を慰めんとするものであります。
昭和44年8月
市原市長 鈴木貞一 撰
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 幼い頃、母からよく言われた。「昔は、この辺は全部海だったんだよ」 母はこの土地で生まれ育った人間だから、埋め立ての前も後もよく知っているのだ。母からそう聞かされても幼い頃は、「へえ、そうなんだ」と思うだけだったが、この言葉の裏には、昔の豊かな海を懐かしむ気持ちがあったに違いない。僕が幼かった当時は、埋め立てが「つい先日」のことだったのだ。今では、母はそんなことは言わなくなった。

 漁業補償の交渉は昭和32年~37年に行われたとある。埋め立てが始まれば、魚なら沖へ泳いで逃げることができるが、貝は逃げることができない。つまり生き埋めにすることになる。それにこの海は自分たちの先祖が代々、漁をして生活してきた海である。それを自分たちの代で終わらせてしまう。ご先祖様に申し訳が立たないではないか。交渉の中で怒号が飛び交う様子が目に浮かぶ。

 この海で魚を取っていた漁師たちの気持ちもさることながら、漁師の交渉相手をしていた県の役人だって、埋め立て作業をした土木作業員だって、きっとみんな子どもの頃から、この海で潮干狩りをしたり魚を取ったりした思い出があったと思う。それを埋めなければならない。地元の人たちは、みな、それぞれの立場で断腸の思いを感じていたはずである。

 変化を嫌って「断固反対!」を叫ぶ人が多ければ、この地域の工業化は非常に難しかったと思う。漁業の町から工業の町へ転換するのだから、抵抗もあったと思うが、交渉がわずか5年で妥結したということは、お上の説明に説得力があったのだろうし、それに従った漁民たちだって、ただ単に魚をとるだけの民ではなく、時代の流れを理解する教養や知性があったことを物語っている。

 これは漁業従事者を馬鹿にしているように聞こえるかもしれないがそうではない。年代を考えていただきたい。昭和30年代の現役の漁民には明治生まれがたくさんいたはずである。もしも民が愚かなら理屈が通用しないから暴力で捻じ伏せるしかない。「愚民の上に苛政あり」である。この時代に話合いですべて解決できたということは、明治生まれの国民が、それだけの教育を受けていたことを示している。無論、補償金は必要だったろう。その金額の根拠だって理解しなければならないのだ。

 明治政府が「学制」を公布して近代的な学校制度を定めたのが明治5年だった。国を変えるために国民を教育しようとした明治政府の目的が、ここに結実しているではないか。日本が戦後、どうやって復興・発展してきたか、この碑文からある程度読み取れる。感動した。

***
【余談1】
 うちの親父は高校を卒業してすぐに静岡から上京し、ある建設会社に就職した。そして、このエリアにある支店に勤務していたときに母と知り合った。この工業地帯が無ければ僕は存在しなかったということである。何だか、自分という存在が、この海に埋められた貝たちの犠牲の上に生まれてきたような気がしてきたぞ。ちょっと考えすぎか。(笑) 僕が生まれたのは昭和38年だった。漁業補償の交渉が終わった翌年である。つまりこの工業地帯と僕は同じくらいの年齢だということである。そうか・・・そう考えると感慨深いな・・・

【余談2】
 写真をよく見るとわかると思うが、この神聖な碑文にいたずら書きをする奴らがいる。恥知らずとはこのことだ。これじゃあ、死んだ貝たちも浮かばれまい。

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(以下、参考)
*櫛比・・・しっぴ。櫛の歯のように隙間なく並んでいること。
**海苔しび・・・のりしび。海苔ひびの転。海苔などを養殖するために海中に立てる竹や枝
***簀立て・・・すだて。海中に簀をたてておき、干潮時に逃げ遅れた魚を捕える漁法。またその仕掛け。
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