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平家物語を読みたい(10) 斎藤実盛の話 [読書]

 2020年5月からやっていた平家物語の勉強会だが、今年2021年7月に終了した。1年2か月かかったことになるが、充実した勉強会だった。終わってから4か月もたってしまったが、後半の振り返りを年内に終わらせたいと思う。

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 保元の乱が起こる1年前、1155年のことになる。当時、都を遠く離れた関東では、源為義(ためよし)とその長男の源義朝(よしとも)が勢力争いをしていた。義朝は鎌倉幕府を開いた頼朝(よりとも)の父親である。この勢力争いの構図というのは複雑で、文献を読んでもそれを自分の言葉で語る自信が全くない。だから、とにかく、今は話を簡単にするために「為義と義朝の勢力争い」であるとしておく。(注1)

 この勢力争いは武力衝突に発展し、為義の次男(嫡男)の義賢(よしかた)を、義朝の息子の義平(よしひら)が討った。これを大蔵合戦という。討たれた義賢には駒王丸という2歳の男の子がいた。戦の常で、駒王丸も殺されるはずだったが、この幼子をかくまって助けた人がいた。斎藤実盛(さねもり)である。

 斎藤実盛は、義朝にも義賢にも仕えたことのある人だった。駒王丸を育てていた乳母の夫で中原兼遠(かねとお)という侍が信州にいて、駒王丸はその人のところに斎藤実盛により送り届けられた。駒王丸は中原兼遠の実子と一緒に育てられ、成長して後、木曽義仲となる。

 平家物語の下巻は、木曽で挙兵した義仲が北陸に進出したあたりから始まる。平家はこれを討つため、北陸へ十万の軍を差し向けた。その軍の中に斎藤実盛がいた。実盛は平治の乱のあと、平家方に仕えるようになっていた。これは別に日和見をしているわけではなく、たまたま源氏と平家が敵味方に分かれて戦う前に、縁があって仕える主君が変わっただけと思われる。現代風に言うなら転職であろう。

 斎藤実盛は、北陸の篠原の戦いで木曽義仲の部下に討たれてしまった。このときのエピソードが、印象的だったので紹介したい。

 斎藤実盛を討った義仲の部下の話によると、平家方の侍のほとんどが敗走する中で、この人一人が善戦しており、戦いぶりは見事だった。そこで名を聞いてみたが、名乗りを拒み、そのまま討たれて死んだ。これはおそらく「自分が斎藤実盛であることがわかれば情をかけられて、おそらく助けられるであろう」と思い、それを嫌ったためであろうと思われた。

 義仲は戦が終わったあとの首実験(注2)で、この首は斎藤実盛らしいと考えたが、年齢の割に髪が黒いことを不審に思い、部下の樋口兼光(乳兄弟)にそれを話した。すると兼光は、斎藤実盛が昔、「六十を過ぎて戦に行くなら髪を染めて若々しく戦いたい」と言っていたことを話した。(注3)首を洗ってみると、髪がみるみる白髪になり、斎藤実盛であることがわかったという。

 斎藤実盛は義仲にとって命の恩人であった。2歳の幼子を関東から信州まで、電車や車でなくて徒歩で送り届けることを考えれば、それが大変な苦労であったろうことは想像がつく。実盛は義仲にとってはやさしい父親のような存在だったのではなかろうか。そんな恩人を義仲は殺してしまった。昔親しみ合った者同士が、今日は敵味方に分かれて戦わなければならない。武士の運命とは過酷なものだとつくづく思う。

 なお平家物語には、実盛が義仲(駒王丸)を助けた経緯が書かれていない。だから実盛が義仲にとって恩人であることが明確に伝わってこない。人の世の不条理ともいうべき、このドラマチックなエピソードは、多少の脚色を加えてもよいから書いてほしかった。この点は不満が残る。

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 さて、このあと義仲は京の都に攻め入り、平家を都から追い出した。その結果、西国は平家、都は義仲、東国は頼朝が支配するという状況が発生。やがて義仲は、頼朝の勢力に討たれる、という流れになる。

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(注1)「大蔵合戦」で検索すれば詳しい情報が得られるが、専門性の高い複雑な内容である。
(注2)切った首を実際に見て、人物を特定すること
(注3)兼光は中原兼遠の実子であり、また義仲は兼遠に育てられた。源平の合戦の前の時代には、親交があったわけで、その中で、このような話をしたのだろう。

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