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Mちゃんとその息子(1) [雑文]

 僕は生まれも育ちも千葉県市原市だが、ここはお袋の出身地である。親父は静岡の出身で、こちらの親類の多くは静岡に住んでいる。親父は滅多に静岡に帰らなかった(おそらく旅費の節約が主な理由だったと思われる)ので、結果、子供の頃から、父方の親類との交流はあまりなかった。従兄弟、従姉妹の人数そのものも少なかった。その中にあって、従妹のMちゃん(叔父の娘)とは、例外的に交流が多い方だったと思う。しかしMちゃんが結婚したあとは、付き合いはなくなっていた。

 先日、3月の中旬の話である。Mちゃんから電話があった。実に15年ぶりである。突然どうしたのか。話を聞いてみると、子供の教育に関する相談だった。

 4月から中3になる、長男のKr君がまるで勉強せず、困っているという。ここまで聞くと世間一般の親が誰でも抱く心配のように聞こえるが、Kr君の場合、幼い頃から持病があって、それに対する心配と複合している。母親の気持ちとしては、ちゃんとした大人に育てることができるのか、という不安が、普通の親に比べて強いようだ。本人は技術的な嗜好を持っていて、家電製品にやたら詳しかったりするらしい。だから、僕の現在の職業と関連付けて勉強する意味を教えてあげてくれないか、と言う。

 すげームチャ振りだと思った。(注1)何しろ相手は一度も会ったことのない男子中学生である。相手にとっても僕は会ったことのない相手である。そういう相手から説教をされて、そもそも聞く耳を持つのかという素朴な疑問がある。しかし、まあ困っているときはお互い様だ。何日か考え込み、それなりに教育プログラムらしきものを作り、Mちゃんに送った。すると、なんとKr君は乗り気になっているという。そうかそうか。本人にやる気があるならば心配は八割方解消である。

 3月24日(土)の夕方、辻堂駅で待ち合わせをした。初対面だから、一応、持ち物や服装の特徴を事前に知らせあった。写メールのある時代なんだから顔写真を交換すればよさそうなものだと言う人もあろうかと思うが、いざその時になってみると、自分の顔写真を送ることをためらう人の方が多いのではないだろうか。つまり「こんな見苦しい顔の写真を送れるか」ということである。結局僕は目印に自分のカバンの写真を送っておいた。

 Kr君は、連絡通りの服装をしていて、すぐにわかった。しかもMちゃんの小学生の頃の面影があった。初対面ではあったが、すぐに打ち解けたと思う。やはり血のつながりがあるからだろうか。それとも同類の人間なのだろうか。夕食は僕の手料理をご馳走しようかとも思ったが、そちらに時間をとられるわけには行かない。だから外食にした。話したいことがたくさんあったのだ。

 さて、家について何を話したか。それは「僕に子供がいたらこういうことを話すだろうな」と思うことである。まずは福沢諭吉の「学問のすすめ」。天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずと言われているが、現実の世の中に、賢人と愚人、金持ちと貧乏人、いろいろな差があるのはどうしてなのか。福沢はその原因を学問をするかどうかの差であると説き「だからみんな勉強しよう」と啓蒙している。(注2)

 それから、国民の三大義務の納税、勤労、教育の話。親の役割、子供の役割、僕の職業の話、Kr君の進路のシミュレーション、勉強の仕方、などなど。集中力が続くのはおそらく3時間程度であろうと思ったので、途中の休憩を挟んで、そのくらいの時間で話を終えた。Kr君にとって面白い話であったかどうかはわからない。しかし少なくとも反応があった。「つまりこういうことですね」と自分なりに咀嚼している様子が伺えた。なんらかの形で頭に残ってくれれば僕としては満足である。たまに会って話せることと言えば、この程度が限度だ。ベストは尽くした。あとはKr君がやるだけだ。
(つづく)

*****
(注1)
Mちゃんのムチャ振りには前科がある。インターネットが普及し始めた頃のことだから、もう20年くらい前だったと思う。Mちゃんの趣味はガーデニングで、バラの花を育てていた。そして、これの情報がインターネットでたくさん見られると言うことをどこかで聞きつけてきて、僕に電話をしてきた。あるサイトを開いて、そのページをプリントして送って欲しいと言う。
 いいよ、と気軽に引き受けては見たが、やってみたら、すごいページ数になってしまって、引き受けたことを後悔した。本を一冊買った方がましだと思った。WEBサイトというのは情報機器で閲覧するものであって、紙に印刷するものではない。今の常識で判断すればそうなるが、ネットが普及し始めの頃はそんなもんだった。
 今回のことを引き受けたとき、そのときのことを思い出して可笑しくなってしまった。

(注2)
 「学問のすすめ」は岩波文庫のものを通読したことがあるが、学校で内容を教わったことはない。なぜ教えないのかと考えるに、現代の感覚とずれている部分があるからだと思う。この本は明治5年に書かれた本である。これから日本が近代化しなければならない時代に、民衆のほとんどが農民だった。その時代に「学問をすれば豊かになれる」という話はかなり説得力があったと思う。しかし、ホワイトカラーを「優」、ブルーカラーを「劣」とする記述は、ほとんどが農民だった明治初期ならまだしも、職業が多様化した現代においては、共産主義者でなくても違和感を感じるところだろう。また昔の本にありがちな人種差別的な記述(それは時代による考え方の差ではあるが)も散見される。
 とは言え、学校に行きたくてもいけない人がたくさんいた昔に比べ、現代は当たり前のようにみんな学校に行くので、教育の意義と言うものがわかりにくい。それに今のような就職難の時代にあっては、職にありつけるかどうかに、学歴が露骨に影響する。だから最初にKr君にこの本の冒頭の部分を紹介した。
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