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上総国分寺の謎解き [雑文]

 昨年の秋から今年の初めにかけて、「ひぐらし大旅行」というシリーズを書き、そのうちの東大寺に行ったときの記事で聖武天皇の「国分寺建立の詔」について言及した。その一部をちょっと引用する。

*****引用ここから
国分寺と言う地名は今でも各地に残っている。有名どころで言えば武蔵(むさし)国分寺。現在の東京都国分寺市である。僕の故郷の千葉県市原市にも上総(かずさ)国分寺がある。実家から歩いていける距離に奈良時代の史跡があるなんて子供の頃は全く知らなかった。(遠足で行ったような気もするが)
*****引用ここまで

(参考)URLは下記
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2013-12-29

 さて、上記の引用で「(遠足で行ったような気もするが)」と書いたのにはわけがある。それらしい写真が残っているのだ。一番前のVネックのセーターを着ているのが僕である。
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 周りにいる友達から判断して、おそらく小学校4年生くらい。つまり1973年頃、今から約40年前ということになる。アルバムのメモには、「廿五里へ遠足」(注1)とだけ書かれていた。この遠足は記憶に全くない。いままでは、それだけの写真だった。

 しかし上記の通り、旅行記で国分寺のことを書いていたときに、「もしかしたら、あの遠足の写真は、上総国分寺ではないだろうか」と、ふと思った。実は、2009年の8月に帰省したときに姉と一緒に国分寺と国分尼寺を訪れているのである。このときは遠足の写真と国分寺が頭の中で結びつかなかったが、建物のイメージがなんとなく頭の中に残っていて、「ひぐらし大旅行」を書いたことがきっかけになって、それが写真と結びついた、と考えられる。

(参考)2009年の記事は下記
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2009-08-22

 この謎については、帰省の機会に国分寺に行って確かめてみようと、年明けからずっと思っていた。そして今年のGWにそれを実行に移そうと考え、下調べをした。グーグルの地図を見ると、僕の通っていたC小学校から、廿五里を通って上総国分寺に行くコースは、小学校の遠足としては有り得るコースである。ただ、小学校4年生くらいの子供の体力を考えたら、このコースはちょっと長すぎるような気もした。(注2)廿五里という地名のエリアの中には、神社やお寺がいくつもある。そのいくつかの中のどれかで休憩しているところを撮った可能性もある。

 そんなわけで、念のため、廿五里のエリアにある神社とお寺を10か所ほどピックアップした。この10か所をすべて回り、見つからなかったら上総国分寺に行き、それでもだめなら諦めようと決めた。

 まず5月4日、姉と姪に付き合ってもらって廿五里に行き、リストアップした10か所をすべて車で回ってチェックした。しかし残念ながら、リストしたところは小さなところばかりで、写真のような場所は見つからなかった。

 翌日5月5日、親父とウォーキングに上総国分寺跡に行った。そこでわかった。遠足の写真は、やはり上総国分寺だった。そこにはまさしくあの40年前の写真の建物があったのである。見つけたときは本当に嬉しかった。写真に書かれていた「廿五里へ遠足」というメモは、正しくは「廿五里を通って上総国分寺へ遠足」と言うことだったのだ。

 まずは、国分寺跡の入口。
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 入口の案内図に薬師堂と書かれている。(写真をクリックすると拡大)
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 この薬師堂とは下の写真の茅葺き屋根の建物である。屋根の正面の部分が出っ張っているため、両脇に切欠きがあるように見えるのが一つの特徴である。
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 それともう一つ、薬師堂の近くに小さな蔵のような建物がある。この二つの特徴が、40年前の遠足の写真とそっくりである。
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 洒落で、昔と同じ写真を撮ってみた。昔10歳、今50歳。同一人物である。老けるやら太るやらで、変わり果てた姿になってしまったが、謎が解けて大満足である。
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(再掲)
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*****
(注1) 廿五里
 「にじゅうごり」と読んでしまいそうだが正解は「ついへいじ」。珍しい地名である。なお地元の人は「つうへいじ」に近い発音をする。僕も子供の頃から今まで、すっとそのように発音してきた。地名の由来は未確認だが、当て字であることは確かである。(注3へ)

(注2)グーグルの地図でC小学校から国分寺までの道のりを改めて計算したら、片道6.3kmしかなかった。小学校4年生の歩く速さを3km/h程度と見積もると片道約2時間。休憩を入れても一日で十分に往復できる距離である。

(注3)廿五里の地名の由来 (2018年1月6日追記)
 廿五里に宇佐八幡神社という立派なお宮がある。宇佐八幡と名の付く神社は日本全国にあり、この神社はそのうちの一つなのだそうだ。昔、源頼朝が伊豆で挙兵し、上総に来たときにこの神社に武運を祈った。頼朝は鎌倉幕府を開いたあとも、折に触れて鎌倉から使者を送って感謝の誠をささげたという。この土地が鎌倉から25里(約100km)の距離があったことから、二十五里つまり廿五里と呼ばれるようになった・・・といういきさつが、神社の石碑に書かれている。ちなみに約100kmという距離はおおむね正しい。
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ぶたりんんご

この謎解きで思ったことが二つ。神社、寺がこんな小さな地域にずいぶんたくさんあるのだなということ。公衆トイレのような(言葉は悪いが)小さな社殿が地元の人たちによって、きちんと維持されている。日本人の祖先からのものを引き継ぐという意識は、世界に類を見ないのではないかと。名もない人たちの小さな力によって、今日の日本はあるのだと、誇らしく思った。
二つ目は、悠久の歴史の中で生きているんだなということ。40年前に訪れた上総国分寺は昔とほぼ変わらない姿でそこにある。750年ごろ建立されて、その後再建されてはいるが2014年の今も残っている。それに比べ人間は、人生はなんとちっぽけではかないものか。あんなに可愛かったひぐちゃんも歳をとってしまったね。だったら、人生思う存分楽しもうね。
by ぶたりんんご (2014-06-21 13:40) 

ひぐらし

ぶたりんごさん。こんにちは。実は、廿五里の小さな神社をしらみ潰しにあたっていたときに、全く同じことを考えていました。
まずグーグルの地図に載っていた神社が、実際に行ってみると予想外に小さいことに驚きました。こんな小さくて、宮司がいるとも思えないような神社が、田んぼの真ん中で神社として成立しているということは、すなわち地元の人が豊作を神に祈る信仰心と共に大切に保存していることに他ならないと思いました。グーグルの地図なんてITが発達してから出来たもので、その元になったのは、古い紙の地図に決まっているわけですが、紙の地図の時代から、地図が更新されるたびに、そこに確かにあるということが確認され続けたのでしょう。
 それは農耕民族としての日本人の素朴な信仰心であり、伝統を守ろうとする心の豊かさであると思います。古い伝統と科学技術が共存しているところは、日本が世界に誇ってよいところだと思います。
by ひぐらし (2014-06-28 19:15) 

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