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ひぐらしのルーツ(1) [雑文]

 湘南キット研究所の開設10周年を記念して何かやりたいと思い、この機会に前から書きたかったネタを書くことにした。題して、「ひぐらしのルーツ」シリーズである。2013年に書いた「はまぐりの碑」という記事の中で、自分のルーツが京葉工業地帯に密接に関係していることを書いたが、これをすこし詳しく掘り下げてみたいのである。2013年の「はまぐりの碑」の記事は、下記URLを参照。
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2013-05-17

 さて。例によってまず歴史のお話をしたい。学生時代は歴史の勉強は苦手だったが、学校を離れて自分の人生に絡めてすると結構楽しいものだ。京葉工業地帯ができたいきさつは、簡単に言うと、首都圏にすでにあった京浜工業地帯が過密状態になっていたため、それを緩和するために、千葉県の沿岸部に工業地帯を作ったということらしい。だから、まず京浜工業地帯から調べてみた。
 
 話は江戸時代まで遡る。徳川家康が征夷大将軍になって幕府を江戸に開き、そして日本橋から現在の神奈川県を通って、京の都に至る東海道が整備された。明治時代には、横浜港が国際港として開かれ、日本初の鉄道は、新橋から横浜の間に敷かれた。江戸時代からの歴史的な流れからみて、東京~横浜のいわゆる「京浜」と呼ばれる一帯に、人が集まり産業が発達するのは、きわめて自然なことだった。

 90年代の話になるが、僕は東京の大田区の六郷(品川と川崎の間)という所の事業所に勤務しており、京浜工業地帯を自分の目で見ていたから自信をもって言える。この地域には、電気機械関係の中小企業が非常に多い。もちろん大企業の大工場だってあるにはある。しかし、この中小企業の町工場の多さがすなわち、自然発生的に、つまり人が自然に集まって形成された工業地帯であることを端的に物語っているとは言えないだろうか。

 そんなわけで、京浜工業地帯は、政府の意図とは関係なしに自然に形成されたわけだが、京葉工業地帯の起こりについては、ちょっと国のてこ入れがあった。1950年(昭和25年)に、国土総合開発法という法律ができ、京浜工業地帯への過度な集中を防ぎ、分散させるために千葉県の臨海地域を工業地帯にする方針が示された。千葉県は、これをもとに、京葉臨海工業地帯の造成に着手したのだそうだ。

 1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約が調印され、翌年1952年に発効。これにより占領政策が終わり、日本は主権を回復した。だから昭和25年とは、まだGHQの占領下の時代だったことになる。GHQは占領政策を日本政府に施行させる機関だったが、この国土総合開発法が占領政策だったとは思えない。おそらく日本政府が独自に作った政策だと思われる。GHQの承認は必要だったと思われるが、占領政策も終わりに近づいた時期でもありたぶん何の問題もなく承認した、という程度だったのではなかろうか。
(つづく)
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