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ひぐらしのルーツ(3) [雑文]

(つづき)
 うちの親父は昭和8年(1933年)4月、静岡の金谷(当時は榛原郡金谷町、現在は島田市に統合されている)で生まれた。金谷といえば蒸気機関車の動態展示で全国的に有名な大井川鐡道が走っているところである。親父はここで商業高校を卒業し、職を求めて上京、四谷にあったM建設という建設会社に就職した。高卒で就職しているから、このときの年齢を19歳とすれば、就職したのは1952年のことだった。

 この頃の日本は、朝鮮戦争(1950~1953年)による特需景気に沸いていた。また前の記事で書いたように、国土総合開発法が施行されたのが1950年、ちょうど千葉県が京葉工業地帯の造成に着手した頃と一致している。つまりこの時代は、就職活動をする学生にとっては売り手市場だったと思われる。親父は就職してまもなく千葉の営業所に転勤した。この人事が、京葉工業地帯の造成のための人員補強であろうことは、まず間違いない。

 一方、お袋の方はというと、昭和10年(1935年)4月、千葉県市原市生まれではあるが、ルーツは新潟(現在の新潟市西区)の五十嵐(いからし)というところにある。祖父と祖母はともにここの出身で、ここで結婚した。新潟でとれた海産物(主にわかめやこんぶ)を千葉に運んで売る行商人だった。

 地元の産物を個人で関東に運んで売るというのは、流通の発達した現代ではあまりピンとこない話であるが、昔のやり方としては普通だったのだと思う。つまり新潟が特別なのではなく、海産物が特別なのでもなく、千葉に来るのが特別だったわけでもない。地元の産物を、個人が、他所の土地へ運んで売る。特に首都圏の人口の密集した地域は良い市場だったのではないか。そして、こういう商いがどこの土地でも普通に行われていたのではないかと思われるのだがどうだろう。

 祖父と祖母が新潟と千葉の間を往復していたのは大正時代だった。やがて昭和になり、子供ができて、それまでのように自由には動けなくなった。その頃、ちょうど東京に海産物の問屋ができて商品をそこから仕入れることができるようになったので、千葉県市原市に定住するようになったということらしい。

 商売のやり方としては訪問販売ではあったが、知らない家にいきなり飛び込んで売るわけではなかった。すでに開拓された得意先があって、そこに行けばたいてい買ってくれたのだという。つまり祖父と祖母は顧客に近いところに居を定めたということである。うちのおふくろも中学校を卒業したあと、高校には進学せず、両親の商いを手伝っていた。主要取引先は、成田山新勝寺の近所の旅館だったという。

 さて、お袋にはMっちゃんという小学校以来の友達がいて、この人は独身時代、S井さんという人の経営するガソリンスタンドで働いていた。そのスタンドで給油するお得意さんの中に、親父の会社があった。
(つづく)
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