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平家物語を読みたい(9)頼朝の挙兵 [読書]

(勉強会も半分が終わり、今、前半の振り返りを書いています)

大庭城最中.jpg

 このシリーズの最初の頃に、1159年の平治の乱で源義朝が負けて討たれ、三男の頼朝が伊豆に流された話を書いた。(注1)その頼朝は伊豆で何をしていたかというと、地元の有力者北条氏(流刑先の監視役)の娘の政子と恋仲になって結婚し、平穏無事に暮らしていたらしい。(注5)

 頼朝と同じように都を追われて伊豆に流されていた文覚(もんがく)という上人がいた。この人が頼朝に挙兵を促すが、頼朝は「自分は命を助けてくれた池禅尼の恩に報いるために読経三昧の日々を送るだけだ」と一旦は断っている。しかし結局、歴史の大きなうねりには逆らえず、担ぎ出されるような形で挙兵を決意。1180年、これを実行に移した。

 他の歴史書はいざ知らず、平家物語に描かれている頼朝の挙兵の様子は、第5巻の「早馬」という章に書かれている内容がすべてのようだ。相模の大庭景親が京に早馬を飛ばし、報告した内容は下記の通りだった。原文の情報不足のアピールのため、あえて原文をそのまま記載する。(注2)文中の(1)~(4)は僕が便宜的につけた見出しである。

1)挙兵
 去んぬる、八月十七日、伊豆の国の流人、右兵衛佐頼朝、しうと北条四郎時政をつかはして、伊豆の目代、和泉判官兼高を、やまきが館で夜うちにうち候ひぬ。
2)石橋山の合戦
 其後、土肥、土屋、岡崎をはじめとして三百余騎、石橋山に立て籠もって候ところに、景親、御方に心ざしを存ずる者ども、一千騎を引率して、おし寄せせめ候程に、兵衛佐七八騎にうちなされ、大童にたたかひなって、土肥の椙山へにげこもり候ひぬ。
3)由比ヶ浜の合戦
 其後、畠山五百余騎して御方を仕る。三浦大介義明が子供、三百余騎で源氏方をして、湯井戸、小坪の浦でたたかふに、畠山いくさにまけて、武蔵の国へひきしりぞく。
4)衣笠城の合戦
 その後、畠山が一族、川越、稲毛、小山田、江戸、笠井、惣じて其外、七党の兵ども、三千騎を相具して、三浦衣笠の城に押し寄せてせめたたかふ。大介義明うたれ候ひぬ。子供はくり浜の浦より舟に乗り、安房上総へわたり候ひぬ

 この記述からは「頼朝が挙兵して、伊豆の国の目代、山木兼隆を討ったあと、石橋山の戦いで負け戦になり、土肥の椙山に逃げ込んだ」、というところまで読み取れるのだが、それ以外は頼朝の情報がない。つまり平家物語では頼朝が挙兵したときの戦の情報はほぼ無いに等しくて、しかもその後はもう、いきなり富士川の合戦になってしまう。このままでは途中に何があったのか全然わからないので、ここは結構なリサーチ(主にネット情報)をせざるを得なかった。(注3)

 現代文にしてわかりやすい内容に書き換えると次のようになる。
1)挙兵
 当時、伊豆の国の目代、山木兼隆は平家方だった。頼朝は自分の舅の北条時政と、自分に味方する地元の武将とともに伊豆で挙兵し、まずは山木を討った。
2)石橋山の合戦
 その後、三浦一族の応援と合流するために、伊豆半島の東岸を北上したが、石橋山(現在の東海道線の早川~根府川付近)で相模の大庭景親の軍勢(平家方)の攻撃を受けて破れ、土肥の椙山に隠れ、かろうじて難を逃れた。その後、真鶴から舟で脱出し、安房上総方面に渡った。
3)由比ヶ浜の合戦
 頼朝の敗戦を合流前に知らされた三浦軍は、やむなく兵を引き上げたが、その途中で、武蔵の畠山重忠の軍(平家方)と、鎌倉の由比ヶ浜で鉢合わせした。小競り合いがあったが停戦が成立。
4)衣笠城の合戦
 その後、畠山の一族は、再び三浦の衣笠城を攻めた。三浦一族は抗しきれず、城を捨てて脱出。久里浜の港から舟で安房上総方面へ渡った。

 そして安房上総に渡った頼朝は三浦一族と合流し、安房、上総の武将達を味方につけ、巨大勢力を形成しながら、東京湾をぐるっと回って、古くからの源氏ゆかりの地、鎌倉に入った、ということらしい。

 この部分は、原文があまりにも簡単に書かれていたので、緊迫感は無かったが、情報不足が逆に幸いして調べ物の楽しさを味わえた。また、僕の出身地の千葉県、今住んでいる神奈川県に、頼朝の挙兵に関する旧跡がいろいろあることを知ったので、これから少しずつ観に行って見ようと思っている。(注4)そんな楽しみも増えた。

 年明けから後半に入る。


***
(注1)平家物語を読みたい(3)保元の乱・平治の乱(パート2)
https://shonankit.blog.ss-blog.jp/2020-08-12

(注2)わかりにくいが悪しからず。読者を煙に巻こうと思っているわけではない。

(注3)今の時代なら、誰でも同じことを考えているとは思うが・・・。ネットで調べ物をするとき、その情報が信頼できるかどうかは、ある程度慎重に考える必要がある。複数の人の利害が絡むような話とか、政治的な内容などでは、世論を誘導する目的に使えるわけで、そういう内容のときは、そのまま信じるわけにはいかない。
 しかし平安時代の歴史の記述で、そのような事がおこるとはまず考えられない。これで人を騙しても得になることはないだろうし、研究者の間で見解の相違が起こることはあるかも知れないが、それはもはや素人レベルを遙かに超えた話になるだろう。よって記載内容はおおむね信用できると考えている。ネット情報のおかげで、昔と違って今は勉強がしやすい環境が整っている。

(注4)とりあえず特記したいのは、石橋山で頼朝をボコボコにし、京に早馬を飛ばして関東の動向を知らせた、相模の大庭景親である。この人の城が有った場所は現在、大庭城址公園として整備されているが、これがなんと僕の家のすぐ近く、散歩に行ける距離にある。ちょっと感動してしまい、よく知りもしないのに大庭景親のファンになってしまった。しかも近所の和菓子屋さんでは銘菓「大庭城最中」が売られている。

(注5)2022年1月10日追記
頼朝が伊豆でどんな生活をしていたかは、平家物語には詳細に書かれていない。この点が2022年の大河ドラマの初回で、非常にわかりやすく説明されていた。誤認識に気づいたので、ここに改めて書くことにした。頼朝の監視役をしていたのは、北条家ではなくて、伊東家(伊東祐親・平家方)だった。北条家と伊東家は親戚。というのは、北条時政が、伊東祐親の娘を嫁にもらっていたのだった。
祐親が都仕えをしていたときに、祐親の娘の八重と頼朝ができてしまって、しかも男の子が生まれた。伊東に戻った祐親はこれを知って激怒した。立場の危うくなった頼朝を匿ったのが伊東家の次男と北条家の長男。伊東家の次男は妹の八重の気持ちを慮ってのことだったが、北条の長男は、平家の支配に不満をもち、頼朝の求心力による平家打倒を目論んでいた。大河ドラマのシナリオがどこまで史実に忠実か、という問題はあるが、まああり得る話だなと思う。



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