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忍者チビッコ道場 [読書]

 小学生の頃の愛読書で「忍者チビッコ道場」という本があった。忍者の歴史とか、どんな仕事をしていたとか、どんな武器を使っていたとか、忍者に関するあれこれを小学生向けに解説した本だった。今はもう実家にもない。成長するにつれて処分したのだろう。

 さて、ヤフオクで懐かしいものをいろいろ買うようになって以来、この本が時折出品されることに気づいていた。ただ意外に高い。「この本をこの値段で買うか?」と、ちょっと考え込んでしまう。さりとて無理な値段でもない。そんな微妙に高い値段がつく。しばらく考え込んでいるうちに売れてしまい、忘れた頃にまた出品される。どうやらレア本というほどでもなく、中古市場には結構あるらしい。当時の人気を物語っている。結局なんだかんだ考えて、その微妙な値段でとうとう落札してしまった。
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 内容の方は、当時何度も繰り返し読んでいたのでほとんど覚えていたのだが、その中で、特にひとつ気になる記事があったのを思い出した。「時計と太陽を利用して方位を知る方法」というもので、時計の短針を太陽に向けると、短針と12時の方向のちょうど真ん中が南になる、と言う。
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 そう、これこれ。なぜそうなるのか、子供の頃はまるでわからなかった。本文に「この位置が必ず南だから不思議です」なんて書いてある。そもそも書いている人が、理由がわからず不思議がっているというのが可笑しい。

 さて今、大人になって久々にこの本をまた読んで、図を描きながら、よく考えてみたら意味がわかった。「なるほどそういうことか」と感動したので、このブログに載せてみたくなった。しかし言葉や式や絵で説明しようとしても、何だかとてもわかりにくい説明になってしまう。そこでこのたび新しいチャレンジ。GIFアニメを作ってみようと思い立った。今ではネットのあちこちに、この方法の丁寧な説明があるようだが、まあそれはそれとして・・・

1)地球の自転周期は24時間である。だから地上から見ると太陽は、24時間で我々の周りを一周する。(注1)
2)太陽は朝6時に真東にある。その6時間後の正午に南中する。さらにその後18時に真西に来る。(注1)
3)時計の短針は、12時間で一回転、つまり日周運動よりも2倍速いスピードで回転する。

 これをアニメにすると下のようになる。6時の時点をスタート地点に定め、そこから時間が経過していくと、太陽と時計の短針がそれぞれ回転するが、時計の針が太陽の2倍のスピードで回転し、差がついていくのが容易に確認できる。後の理解の助けのため、文字盤の12時方向と短針で作る扇形に色をつけた。
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 次に時計をちょっと回して、短針が太陽の方向を常に向くようにする。速く回りすぎた分を戻してやらないといけないので、時計全体を左に回すことになる。結果として、文字盤の12時方向と短針で作る扇形は、南北の方向を軸にして線対称になる。これは文字盤の12時方向と短針の真ん中が南になることを意味している。
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 原理はアニメを見れば一目瞭然だ。45年前の疑問が氷解して満足満足。なお普通の時計は12時間で一回転するが、仮に24時間で一回転する時計を作って、短針を太陽に向ければ、文字盤の12時の方向が常に南になる。つまり話はもっと単純になる。

***
(注1)ここに書いた天体の運行は単純化したものであって、厳密にはそんなわかり易いものではない。このイラスト(アニメ)は、観測者が北極付近にいて、太陽が地平線ぎりぎりを運行している絵である。しかし日本は北緯35°付近にあるので、太陽は斜めに昇り、斜めに沈む。太陽が単位時間に動く角度を大地に投影すれば、地平線付近よりも子午線通過付近の方が大きくなるはずである。その意味で、このイラストは正確ではない。しかし、そんな精密な考察が必要な内容ではない。南はだいたいどっちか、という話である。


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源氏物語を読みたい(3) [読書]

(引き続き、「あさきゆめみし」を読んで考えたこと。前の記事からのつづき)

 さて、そのバックアップ体制が充実して皇子がたくさん生まれ、その中から、一人が後を継いで次の帝になったとする。そうすると、それ以外の子供は当然帝にはなれない。そういう人は「○○の宮」として、皇室に残る場合もあるが、皇室から離れて臣下に下る場合もあって、そのときは「氏(うじ)」(今日的な意味での苗字)をもらう。それが「源(みなもと)」であったり、「平(たいら)」であったりしたのだという。桐壺の更衣が男の子を生んだとき、帝にはすでに第一皇子がいた。だからここで後継者争いが起こらないよう、帝はこの子が元服したときに「源」の氏を与えて臣下に下ろした。これを臣籍降下という。(ここ重要)

 少し話がそれるが、ちょっと源氏物語の中の人物の呼び方について考えてみたい。この物語の読みにくさを作っている原因のひとつに、人の呼び方があると思うからである。ある人物をどのように呼ぶか、というと、現代人の我々は、その人の名前で呼ぶのが当たり前だと思っている。日常生活でも小説でももちろんそうだ。しかし源氏物語の場合、必ずしもそうではないことに気づかされた。

 平安時代の戸籍の制度は、今のように厳密に管理されていたとは思えない。だから、自分で好きなように名乗ることができたはずである。また宮中では固有名詞よりも役職(地位)の方が大切であったようだ。左大臣、右大臣、大将、中将、女御、更衣、などなど。他に一の宮、二の宮、三の宮などと、生まれた順番だけで呼ばれる人もいる。源氏物語の登場人物は、おしなべてそういう呼び方になっている。はっきり言ってしまえば、人の呼び方なんかどうでもいいような印象を受けるのである。

 さてここから本題。呼び方と言えば僕は昔から「光源氏(ひかるげんじ)という呼び方はどこが「姓」でどこが「名」なんだ?」と気になってしょうがなかった。日本では人の名前は姓、名の順に構成されるものである。だから源光(みなもとのひかる)と言うなら納得がいく。それなのに光源氏とはこれ如何に? 「山田太郎」さんに対して、「太郎山田氏」と言っているようなものではないか。こんなキテレツな名前があろうか。しかも、名、姓の順に並べるのは欧米の習慣ではないか。

 そんな話を姉にしてみたら、姉が知り合いの、元高校の国語の先生という人に聞いてくれた。その人によると源氏物語の人物はみなニックネームで、しかもその名前は必ずしも作中で使われているとは限らず、後世の読者や学者が勝手につけてそれが通称になってしまったものもあるのだそうだ。原作(原文)の中では光源氏という呼称は出てこない。原文では「光る君」と呼ばれている。「光る○○」というのはあの時代に美しさを形容するときの最上級だったのだそうで、「最高の美男子」という意味になるらしい。

 その他に「源氏の君」という呼び方もある。少なくとも第一帖の「桐壺」にはその呼び方がいくつか出てくる(注1)。これは僕の考えだが、「帝の子供でありながら、源(みなもと)という氏(うじ)を賜って臣下に降りた、かっこいい人」という意味で「源氏の君」という呼称が生まれたのではなかろうか。源氏の姓をもらったばかりの時期に、彼の周囲にいた人たち、特に女性がキャーキャー言いながらそのように呼びたくなるのは自然である。「キャ~源氏の君~~」って。

 そうすると「光る君」「源氏の君」「光る源氏の君」から変化して「光源氏」というニックネームが生まれ、それが後世の読者や研究者の間で自然に定着したとしても不思議ではない。長年の疑問がようやく解けた。

*     *     *

 というわけで、今年の大型連休は家に籠もりきりではあったが、それなりに充実していた。(一つ仕事を成し遂げたような気がする 笑)なお今回は「あさきゆめみし」をメインにしたが、他にも読んだものがあるのでこれを付記して終わろうと思う。

 江川達也という漫画家が書いた源氏物語。これは青年雑誌に連載されたものだけあって性描写のビジュアルが露骨である。男性の目から見ると大歓迎なのだが(女性が見たら別のことを言うだろうが)、その反面、熟読するとかなりアカデミックな側面を持っている。というのは原文(古文)がコマの中に(おそらく)全部書いてあってそれを逐一現代語に訳しているからである。

 注釈も大変充実している。僕の場合、この年になって古文を復習するだけの情熱はないが、高校生ならば、これを丁寧に読み込むとかなり勉強になるのではないだろうか。(絵が邪魔して勉強にならないか)

 全七巻で一巻が一帖に当てられている。第一巻が「桐壺」、第二巻が「箒木」、・・・、第七巻が「紅葉賀」。つまり全54帖のうちの最初の7帖しかないわけだが、原文を丁寧に説明していることを考慮すればこれだけでも偉業だと思う。

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(注1)江川達也の源氏物語に記載されていた原文で確認した結果

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源氏物語を読みたい(2) [読書]

 「あさきゆめみし」を読んで気づいた時代のギャップの中で、もっとも重大と思われること、それは、「平安時代は医療が未発達で、人が病気で簡単に死ぬ」という厳しい現実だった。(注1)現代では、病気にかかったときは、病院に行けばお医者さんがいて、いろいろ調べて治療してくれる。しかし平安時代では、病気の治療イコール祈祷であった。僧侶を呼んで御仏に祈ることしか方法がなかったのである。そんなことで病気が治るわけがない。少なくとも現代人の我々はそう承知している。

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 主人公の光源氏を生んだ桐壺の更衣という人は、もともとそんなに健康な人では無かった。そこへ加えて、帝の寵愛を一身にうけたことから、周囲の女御・更衣の反感を買って陰湿なイジメに遭い、ストレスから病気になってしまった。その病名がなんなのかはわからないが、とにかく光源氏が三歳のときに死んでしまった。

 ちなみに女御とか更衣というのは、帝の夜の相手をする女性である。帝のお后候補になる人だから大臣の娘など地位の高い女性達であり、いわゆる市井の娼婦などとは違う。こういう人達を後宮に何人も住まわせて、帝が順番に回って夜の営みをするということが行われていた。なぜこういう制度があったかというと、それは端的に言えば、人が簡単に死ぬからだと言ってよいと思う。

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 こんな時代では、乳幼児の死亡率だって非常に高かったと思う。帝のお后が一人の場合、その人に子供が出来ないかも知れないし、お后が子供を産む前に死んでしまうかも知れない。生んだとしてもその子供がすぐに死んでしまうかもしれない。そうなれば皇統が途絶えてしまう。皇室はこれを恐れ、強大な権力を背景にお后候補(女御・更衣)を何人も持って、子供をたくさん産ませたのだろう。

 言ってみれば、人海戦術によるバックアップ体制を構築(注3)しているわけで、現代の我々の感覚からすれば、考えられないことである。(注2)しかし医療が発達していない時代において皇室がその血を絶やさないためには、とにかく子供の人数を稼ぐしか方法がなかったのだろう。以前の僕は、ただ単に昔の権力者が肉欲丸出しの助平だからこういうことをするのだと思っていた。もちろんそれもあったとは思う。が、そうそう単純ではないことが良くわかった。

(つづく)

****
(注1)人生50年、なんて言われていた時代があった。これは40代、50代になると、現代で言うところの成人病(生活習慣病)にかかり、医療が未発達の頃はこれに抗う術がなかったということなのだろう。昔の人が今に比べて早婚だったというのも、これで説明がつく。子供が作れる体になったらさっさと作っておかないと、あっという間に寿命が尽きてしまうのだから。

(注2)現代では医療も避妊の技術も発達して計画的な出産が出来るようになっているし、子供は天からの授かりものだから、という考えが広く定着し、子供のいない夫婦でも円満に生活している。ただし少子高齢化が進行するということも、国家的な問題として浮上している。平安時代と現代を比較することで改めて見えてくることもあって興味深い。

(注3)帝が一人の更衣だけを寵愛することは、この趣旨に鑑みても宜しくないことは明らかである。


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源氏物語を読みたい(1) [読書]

 新型コロナウイルス感染症対策の在宅勤務から、そのまま大型連休に突入した。勤務でも休日でもいずれにしても家にいなければならない。帰省も断念した。だから、普段ではできないようなことにチャレンジしようと思い、源氏物語を読んでみようと思い立った。

 とは言っても古文のまま読むのは敷居が高すぎるし、現代語訳だって十分敷居が高い。昔の話になるが、高校生の頃(1980年頃)行きつけの本屋で円地文子訳の源氏物語を見つけた。新潮社で全十巻。文庫本ではなくハードカバーの立派な本だった。憧れた。欲しいと思っていたが、高校生の小遣いで気軽に買えるようなものではなかった。

 それで、何か別の手段で(図書室で借りるなどして)読み始めたのだが、何が書いてあるのか、さっぱりわからない。だから次に少年少女向けの簡単な本を買ってみて読んでみたのだが、やっぱりわけがわからない。ぜんぜん面白くない。この時点で「源氏物語は自分とは縁のない作品なのだ」と諦めた。(注1)

 やはり同じ日本人の書いた小説であっても、1000年も時間が経過してしまうと、言葉も文化も違ってしまい、当時書かれた小説は外国の小説と同じになってしまう。それを現代の言葉に翻訳したとしても、文化的、政治的背景が理解できなかったり、訳が自分に合わなかったりすれば、話が頭の中に入ってこない。わけがわからないものになってしまう。

 つまり一人で読めない本というのが確かにあって、そういうときは先生が必要になる。(注2)それで、このたび実際に読んだのは、大和和紀の「あさきゆめみし」という少女漫画である。源氏物語を題材にした漫画はいくつか出ているが、この漫画は、全54帖を比較的正確に満遍なく描いているという評判があったのでこれを選んだ。結果、大変よい先生になってくれたと思う。全貌がつかめたので、次のステップ、現代語訳の小説に取り組むのも、ずいぶん楽になると思われる。

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 現時点での感想。紫式部はよくもまあ、これだけの壮大な小説を書いたものだと感心した。登場人物が非常に多く、それぞれが何らかの親戚関係や利害関係を持ち、その中で恋愛をし、肉体関係を持ち、喜んだり、悲しんだり、人を憎んだり・・・といった、様々な人間模様が描かれる。ストーリーも面白い。ただし現代人の我々がこれを読むことによって人の生き方を学べるような、そういう種類の小説ではない。なにしろ倫理観が現代の我々のそれとはかけ離れている。あくまでも娯楽小説、大衆小説であると見た。まあ小説なんだから面白ければそれで十分だと思う。

 面白ければそれで十分。うん、確かにそうなんだが・・・。そうは言っても、平安時代に書かれた小説が1000年経った今でも愛読され、学術的にも研究されているところを見ると、そんな単純な感想で語りきれない奥深さがあることは想像がつく。それがどんなことなのか今はわからないが、いずれにせよ概要が理解できたので、これから先、いずれ現代の小説家の訳した現代語訳に進んでみようと思っている。今までの自分の人生において、この作品にほとんど触れたことがなかったが、今回触れることが出来て良かったと思う。

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(つづく。他にも考えたことがあるので)

***
(注1)少年少女向けの本で挫折した思い出。「夕顔」という女性が死んだ経緯が全く理解できなかったのだが、「あさきゆめみし」を読んでようやくわかった。嫉妬に狂った「六条の御息所」という女性の生き霊に取り憑かれて殺されたのだった。少年少女向けだったからこういうオカルトっぽい内容は曖昧にしたのかもしれないが、そうするとわかりにくくなってしまう。そういうボカした感じの捉え所の無い話が延々と続き、根気が続かなくて読むのをやめてしまったのだった。そもそも成人向けの小説を少年少女に読ませようというのだから、よほど上手く文を書かないと、モザイクだらけのアダルトビデオみたいになってしまって、わけのわからないものになるのは明らかだ。

(注2)昔、僕が20代の頃、ある武道の道場に通っていた。その道場に慶応の哲学科の学生がおり、その人に聞いて印象深かった話。「高校時代にカントとかヘーゲルとかデカルトなどの高名な哲学者の思想に触れて憧れをもつと、そういう人の書いた本をきちんと読みたくなる。しかし難しくて普通は一人では読めない。だから専門の先生について学びたくなり哲学科に入る。そういう学生が多い」とのことだった。


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