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源氏物語を読みたい(1) [読書]

 新型コロナウイルス感染症対策の在宅勤務から、そのまま大型連休に突入した。勤務でも休日でもいずれにしても家にいなければならない。帰省も断念した。だから、普段ではできないようなことにチャレンジしようと思い、源氏物語を読んでみようと思い立った。

 とは言っても古文のまま読むのは敷居が高すぎるし、現代語訳だって十分敷居が高い。昔の話になるが、高校生の頃(1980年頃)行きつけの本屋で円地文子訳の源氏物語を見つけた。新潮社で全十巻。文庫本ではなくハードカバーの立派な本だった。憧れた。欲しいと思っていたが、高校生の小遣いで気軽に買えるようなものではなかった。

 それで、何か別の手段で(図書室で借りるなどして)読み始めたのだが、何が書いてあるのか、さっぱりわからない。だから次に少年少女向けの簡単な本を買ってみて読んでみたのだが、やっぱりわけがわからない。ぜんぜん面白くない。この時点で「源氏物語は自分とは縁のない作品なのだ」と諦めた。(注1)

 やはり同じ日本人の書いた小説であっても、1000年も時間が経過してしまうと、言葉も文化も違ってしまい、当時書かれた小説は外国の小説と同じになってしまう。それを現代の言葉に翻訳したとしても、文化的、政治的背景が理解できなかったり、訳が自分に合わなかったりすれば、話が頭の中に入ってこない。わけがわからないものになってしまう。

 つまり一人で読めない本というのが確かにあって、そういうときは先生が必要になる。(注2)それで、このたび実際に読んだのは、大和和紀の「あさきゆめみし」という少女漫画である。源氏物語を題材にした漫画はいくつか出ているが、この漫画は、全54帖を比較的正確に満遍なく描いているという評判があったのでこれを選んだ。結果、大変よい先生になってくれたと思う。全貌がつかめたので、次のステップ、現代語訳の小説に取り組むのも、ずいぶん楽になると思われる。

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 現時点での感想。紫式部はよくもまあ、これだけの壮大な小説を書いたものだと感心した。登場人物が非常に多く、それぞれが何らかの親戚関係や利害関係を持ち、その中で恋愛をし、肉体関係を持ち、喜んだり、悲しんだり、人を憎んだり・・・といった、様々な人間模様が描かれる。ストーリーも面白い。ただし現代人の我々がこれを読むことによって人の生き方を学べるような、そういう種類の小説ではない。なにしろ倫理観が現代の我々のそれとはかけ離れている。あくまでも娯楽小説、大衆小説であると見た。まあ小説なんだから面白ければそれで十分だと思う。

 面白ければそれで十分。うん、確かにそうなんだが・・・。そうは言っても、平安時代に書かれた小説が1000年経った今でも愛読され、学術的にも研究されているところを見ると、そんな単純な感想で語りきれない奥深さがあることは想像がつく。それがどんなことなのか今はわからないが、いずれにせよ概要が理解できたので、これから先、いずれ現代の小説家の訳した現代語訳に進んでみようと思っている。今までの自分の人生において、この作品にほとんど触れたことがなかったが、今回触れることが出来て良かったと思う。

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(つづく。他にも考えたことがあるので)

***
(注1)少年少女向けの本で挫折した思い出。「夕顔」という女性が死んだ経緯が全く理解できなかったのだが、「あさきゆめみし」を読んでようやくわかった。嫉妬に狂った「六条の御息所」という女性の生き霊に取り憑かれて殺されたのだった。少年少女向けだったからこういうオカルトっぽい内容は曖昧にしたのかもしれないが、そうするとわかりにくくなってしまう。そういうボカした感じの捉え所の無い話が延々と続き、根気が続かなくて読むのをやめてしまったのだった。そもそも成人向けの小説を少年少女に読ませようというのだから、よほど上手く文を書かないと、モザイクだらけのアダルトビデオみたいになってしまって、わけのわからないものになるのは明らかだ。

(注2)昔、僕が20代の頃、ある武道の道場に通っていた。その道場に慶応の哲学科の学生がおり、その人に聞いて印象深かった話。「高校時代にカントとかヘーゲルとかデカルトなどの高名な哲学者の思想に触れて憧れをもつと、そういう人の書いた本をきちんと読みたくなる。しかし難しくて普通は一人では読めない。だから専門の先生について学びたくなり哲学科に入る。そういう学生が多い」とのことだった。


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ハインライン 「銀河市民」 [読書]

 以前、中1の終わりの頃に本の虫になったことを書いたが、その当時読んだSF小説の中で、唯一、<読めなかった> ものがあった。それが今回紹介する「銀河市民」という作品である。作者は、アメリカのロバート・A・ハインライン。確か中2のときだったと思う。
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***
 下の文は、ハヤカワ文庫の扉のページに書いてある紹介文である。
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「太陽系を遠く離れた惑星サーゴンでは、今およそ時代離れした奴隷市場が開かれていた。物件97号――薄汚れ、痩せこけた、生傷だらけの少年ソービーを買い取ったのは、老乞食<いざりのバスリム>である。彼の庇護の下、ソービーの新たな生活が始まった。だが、ただの乞食とは思えぬ人格と知性を持ち、時おり奇怪な行動を見せるバスリムとは何物? そして死の直前彼が催眠学習法によってソービーに託した、宇宙軍X部隊への伝言とは? 自己の身許を確認すべく、大銀河文明の陰にうごめく奴隷売買の黒い手を追って、やがてソービーは人類発生のふるさと地球へと向った・・・! SF界の王者遂に本文庫初登場!」

 そして巻頭に宇宙戦争のイラストが・・・
「襲い来る海賊船をめがけ、ソービーは原子弾頭つきミサイルを発射させた・・・」
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「これはおもしろそうじゃん!」と思い、買ったのだった。

 <読めなかった> とはどういう意味かと言うと、つまらなくて途中でやめたというわけではない。面白いことはわかるが、難しくて意味が理解できなかったのである。難しくても読み進めていけばなんとかわかるだろうと思って、とにかく読み進んだが、結局意味がほとんどわからないまま終わってしまった。「意味がわからないなら面白いかどうかわかるわけがないだろう」と言われるかも知れない。正確に言うと「これが理解できたらさぞかし面白いだろうな」という印象だけは残ったのである。

 今年の始めに帰省したときに、書棚にあったこの本を持ってきて読んでみた。さすがに大人になっただけあって今度は読めた。なるほどそういう話だったのか。面白かったので、さらにもう1回読んでみたら、新しい発見があってもっと面白かった。話に深みがある。噛めば噛むほど味が出る。スルメみたいだ。(笑) 中学生のときのを含めると都合3回通読したことになる。簡単にあらすじを書いてみよう。

***
 バスリムは惑星サーゴンで乞食に身をやつし、あるスパイ活動をしていたが、サーゴンの治安当局にマークされ追跡の過程で死んだ。バスリムは自分の死後、重大な調査結果をメッセージとしてソービーに催眠学習で教え込み、銀河連邦宇宙軍のX部隊に届けようとしていた。

 そのためソービーは自由貿易商人(宇宙のあちこちの惑星を巡って、貿易を行う商人)の貿易宇宙船シス号に乗ることになった。船の一等航宙士はソービーを引き受けるときに、バスリムから受けた借りは返さねばならないと言った。宇宙をまたにかけて渡りあるく貿易商人が、一介の乞食バスリムから受けた借りとは一体何なのか。物語が進むにつれて、バスリムの正体と、「借り」の意味が少しずつ明らかになっていく。

 バスリムのメッセージの要請通り、ソービーはシス号から、銀河連邦宇宙軍の巡視艇ヒドラ号に引き渡された。そこでソービーは、バスリムと旧知のブリスビー大佐から、過去の全てのいきさつを聞いた。さらにソービーの身許が確認され4歳のときに海賊船にさらわれたある○○の息子であることが判明した。宇宙軍の船で地球に戻ったソービーは銀河の市民としての責任からバスリムの仕事を引き継ごうと決心するのだった。

***
 この作品を中学生の頃に読めなかった理由を考えてみたが、大きくわけて二つある。まず徹底的なリアリズム。あらゆる場面が、いかにも現実の世の中にありそうな世界として描写されている。一つ例を挙げてみると、バスリムがソービーを奴隷市場で安価で競り落としたときに売り渡しの証書を書くが、そのときに印刷税というものがかかり、売値よりも税の方が高くなってしまった、などというエピソードである。世の仕組みを知らない子供は、大人の話についていけない。

 それからもう一つ、謎をあえて明確にしないところも特徴のひとつで、例えば自由貿易商人が「借り」と呼んだ事件の全貌は、大部分が商人側のタブーとして語られるので完全に語りつくされることはなかった。また、奴隷貿易の黒幕が誰かとか、幼いソービーが両親と共に乗っていた積荷の全くない、つまり襲う価値の全くない宇宙船を、海賊船が敢えて襲った理由などは、登場人物が推定として語るのみである。このような描写方法は、やはりリアリズムを追及するための意図的なものだと思われるが、これも中学生の頃の僕には「わかりにくさ」のひとつの原因になっていたのである。

 ヒドラ号のブリスビー大佐が、「地球(テラ)の歴史」としてソービーに語った興味深い話がある。「未踏の地を開拓者が訪れるときに起こることは、まず交易者がそこに入り込み、一山当てようとし、次に無法者どもが正直者を餌食にし、そして奴隷貿易が始まる」 この歴史に着眼したのが、そもそもこの小説の原点であり、ハインラインがそれをブリスビー大佐に語らせているのだと僕は理解した。

 大航海時代に欧州人が新大陸に進出したときに起こったことを、宇宙的な規模に拡張して発想したことは明らかなのだが、単なる空想では片づけられない現実味がある。実際に宇宙の果てに行けるかどうかは技術的な問題だし、そこに人がいて交易が出来るかどうかもわからないが、そのような科学的な検証はさておき、仮にそのような条件が整っていたら同じようなことがおこりそうではないか。21世紀の現代でも、まだ人身売買が摘発されているのである。

 奴隷貿易をテーマにしたこのような小説は、日本人にはなかなか書けないと思う。なぜなら、日本にはこのような制度(よその土地から人を捕まえてきて自国で奴隷として使う)が存在したことがなく、従ってこれを問題視する意識が低い。つまり、そのような発想が湧く環境にないのである。実際に奴隷制度があり、かつそれを撲滅した歴史をもつアメリカに生まれ育った作者ならではの発想だと思った。

 本の扉についている宇宙戦争のイラストは派手である。だからこの本を買ったときは、派手にドンパチやる話かと思った。ソービーはシス号に乗っていたときに、「火器管制員」という役割を任されていた。つまり兵器オペレーター(=戦闘員)である。海賊船がシス号に接近してきたときに、ソービーがこれを撃破するシーンは確かにある。しかしこれは作中では比較的地味に描かれており、それを敢えてこのような派手なイラストに仕立て上げたのは、本屋で立ち読みする客に「おや、おもしろそうだ」と思わせて買わせるための方便であろう。

 この作品のメインテーマは宇宙戦争ではない。奴隷貿易、人身売買のような社会問題を見たとき、市民(公民=Citizen)が、それぞれ、どのような責任を果たすべきなのかを考えさせるところにあると思う。


【蛇足】
 「銀河市民」を読むというのは、まあこれも「青春の忘れ物」のひとつだったわけで、今、読むことが出来て、しかも予想以上に面白くて満足している。昔読めなかった小説は他にもある。つまらなくて途中で投げ出したものもあったし、見るからに難しそうで最初から諦めたものもあった。そういうのをこれから少しずつ攻略していくのも、楽しいかも知れない。

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内田庶「人類のあけぼの号」 [読書]

 僕は今でこそ普通に本や新聞を読むが、小学生の頃はマンガしか読まない子供だった。文字がたくさん並んでいる本が苦手だった。だから夏休みの宿題の読書感想文なんて苦手中の苦手だった。この傾向は中学校になってもしばらくは変わらなかった。

 中1の終わり、たしか3月だったと思う。姉が友人からある本を借りてきた。タイトルは「人類のあけぼの号」、著者は内田庶(うちだちかし)。少年向けのSF小説だった。(いわゆるSFジュブナイル) テーブルの上に置いてあったのを何気なく手に取って読み始めたら、夢中になってしまい、ごく短時間で読み終えたことを覚えている。この出来事は僕にとって非常に大きな意味のあるものだった。このことをきっかけにして、僕は読書の楽しさを知り、以後、貪るように読書に熱中し始めたのだった。(僕が眼鏡をかけ始めたのはこの頃からである)

 この「人類のあけぼの号」という作品、あれほどまでに感動したにも関わらず、その後、人気が出ることもなく、月日が流れて忘れられてしまったように思う。しかし僕にとっては忘れられない本だった。最近ふとしたことから、この本をネットの古本屋で見つけ、懐かしくて買ってみた。送られてきた本は、傷みや変色がほとんどなく、非常に保存状態のよいものだった。
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 初めて読んだときのインパクトが大きかったので、ストーリーはよく覚えている。しかし、再び読んでみて、当時の興奮が蘇ってきた。どんなストーリーだったかを紹介したい。作品としては残念ながら、もう時の洗礼を受けて忘れられてしまった感があるが、僕にとっては事実上、人生で初めて出会った本と言っても過言ではない。読書の楽しさを初めて教えてくれた、初恋のような、忘れられない本だった。

***
 ストーリーは2026年の未来から始まる。16歳の少年が築地の冷凍倉庫から凍死状態で発見され、2026年の進歩した医学によって蘇生する。この少年は1975年に、ある事故で冷凍倉庫に閉じ込められたのだった。結果的に51年のタイムスリップをしたわけである。

 少年は自分の生い立ちを医師に語った。少年の名前は加藤真琴、父親はロボット工学の権威の加藤徳三博士だった。1975年、真琴は父親の助力を得て、従来にないほど精巧な人間形のロボットを開発した。少年はこのロボットに「人類のあけぼの号」と名付けた。このことは大ニュースになり、資本家たちは製造権を獲得して儲けようとし、労働者たちは失業を恐れて連日研究所にデモに押し掛けた。

 そんな矢先、「人類のあけぼの号」が加藤徳三博士を撲殺するというショッキングな事件が起きた。現場では加藤博士が頭から血を流して死んでおり、「人類のあけぼの号」は、腕に博士の血がべっとりついた状態で故障していた。発明者の真琴が真っ先に疑われた。加藤徳三博士はロボットの特許を無償で公開しようとしていた。真琴はそれが気に入らなくて(つまり儲けたくて)加藤博士を、ロボットを利用して殺したのだと思われてしまったのだった。

 真琴は警察からマークされ、連日押し寄せるデモに精神的に疲れ果てた。そして従兄の竜平に勧められ、南米に逃亡することを決意。船に乗るために晴海埠頭に来たところで、警察に追い詰められてしまう。そして冷凍倉庫に逃げ込んだところで自動扉が閉まってしまったのだった。

 51年後の未来で、真琴は自分が父親殺しの汚名を着せられたままであることを知った。そして2026年に発明されたばかりのタイムマシンで人生をやり直すことを決意した。1975年の、ちょうど殺人事件が起きた晩に真琴は戻った。そこで見たものとは・・・・・・

***
 あとは言えない(笑)。この記事を読んで興味をもち、読む人もいるかも知れないので、肝心なところは隠しておこう。ロボットの特徴を利用した、「なるほど、その手があったか」と思わせるようなトリックが使われている。SF小説と推理小説を合体させたような、非常によくできたストーリーだったと思う。どうしてメジャーにならなかったのか不思議なくらいだ。

 この本は、鶴書房のSFベストセラーズというシリーズの中の一冊だった。巻末にシリーズ14冊の広告が載っている。当時人気のあった作品を14冊選んだものだろう。僕はこの14冊をすべて中2の頃(1977年)に読んだと思う。しかし、ほとんどの作品は淘汰されてしまった。唯一、筒井康隆の「時をかける少女」だけが残っていて今でも繰り返し映画化されているようだ。
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 懐かしかった。新しい本を読むのもいいが、年を取ると、昔の感動を思い出すというのも楽しみの一つになる。それが年寄の懐古趣味だ、などと言われても一向に構わない。楽しいものは楽しい。もう一度読みたくなるような本に出会えたことを幸福に思う。

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安房直子「雪窓(ゆきまど)」 [読書]

 ひさびさに童話を読んで感動してしまった。タイトルは「雪窓(ゆきまど)」という。
作者は児童文学者の安房直子さん。1973年の作品である。
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 写真を見てわかると思うが、これは絵本である。なぜこれを買ったかというと、別の絵本を見る機会がたまたまあって、イラストレーターの山本孝さんの絵に惚れ込んでしまったのである。この人が挿絵を描いている絵本をネットで検索したところ、リストの中にこの「雪窓」があった。書評を読んで、なんだかそそるものがあったので、アマゾンで買ってみた。

 いや~~。良かったよ~~。最初のところだけストーリーを紹介してみる。山のふもとの村に、「雪窓」というおでん屋の屋台をひくおやじがいた。ある晩、一人の若い娘が屋台にやってきた。  ・・・

***
 ・・・もっと書きたいのだが、我慢してここでやめておこう。とは言うものの、自分が感動した本は、みんなに薦めたいので、この本の中で一番印象的だったところを、ちょっとだけ抜粋したい。おやじさんが10年前を回想する場面である。熱を出した6歳の娘をおんぶして、峠を越えて医者の家へ連れて行くが、着いたときはもう冷たくなっていた。
 
【本文抜粋】
 そのとき、おやじさんは、本気でこう思いました。いまとおってきた道の、いったいどこで、美代のたましいは、とんでしまったんだろうと。いますぐひきかえしたら、峠のあたりで、しくしく泣いている美代のたましいをとりもどせるのじゃないだろうかと。十年たったいまでも、おやじさんはやっぱりそう思うのでした。

***

 ああ切ない。ひとりひとりに人生がある。抱えている過去がある。悲しみがある。生きていれば16歳の娘がいるおやじさんなら、僕とだいたい同年代ではないか。可愛い盛りの6歳で娘を亡くした悲しみは、10年経ってもなかなか癒えることはないだろう。お話なんだから、どんな設定でもできると言えばそれまでだが、ここまで感情移入してしまうのは、物語が生きている証拠である。プロの力には恐れ入る。子供用の絵本で、おやじの人生に共感するとは思わなかった。

 たぬきがおでん屋の助手になったり、山の中で天狗や子鬼が出てきたりと、童話らしいエピソードもたくさんある。最後は暖かい、ほのぼのとしたハッピーエンド。ストーリー良し、イラスト良し、純粋な子供の心に深く刻まれそうな一冊だと思った。大人にも是非薦めたいと思う。
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新田次郎 「孤高の人」 [読書]

 6月20日、話題の映画「剣岳・点の記」が公開された。月刊誌「山と渓谷」も、これに便乗し、6月号で「剣岳と新田次郎」という特集を組んでいたので買ってみた。新田次郎の小説の人気ランキングがあって、第1位になっていたのは、「孤高の人」だった。新田次郎の小説は一冊も読んだことがない。だから、まずはこれを読んでみようと思った。
(剣岳の映画の方は、多分混んでいると思うで、ピークが過ぎたあたりで観に行こうと思っている)

 さて。かつて加藤文太郎という人がいた。この人は、単独山行で有名だった人で、100kmの山道を17時間で歩くという超人的な脚力を持ち、大正の末から昭和の初めの頃に数々の記録を打ち立てた人だった。新田次郎がこの人に題材をとり、未亡人の強い要望で”加藤本人を実名で”小説化したのが「孤高の人」である。

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 登山には、昔から良いとされてきたやり方がある。その代表的なものが、「複数でパーティを組み、団体行動する」というものだと思う。この考え方が定着するのは極めて自然だ。いざと言う時に、互いに助け合うことが出来るからである。(注1) つまり定跡には、そうするだけの意味があるのだが、それが常識になったとき、これに従わない人を見ると、その非常識を咎めるようになる。加藤文太郎の単独行に出会ったパーティは加藤を一様に非難した。

 しかし、加藤文太郎は、単独でしか行動できない人だった。何しろ人と上手に付き合えない人だった。必ずしも人嫌いなわけではなかったが、その能力が常人のそれから、あまりにもかけ離れた、つまりは超人的なものだったため、定跡に従う必要がなかった。これが普通の登山者の反感を買った。山で出会ったパーティに加藤が挨拶しても、その表情が冷笑に誤解されて、ますます反感を買うことになった。天才とは孤独なものだ。

 一人でしか行動できないから、加藤は一人でいろいろな工夫をした。山の食事も加藤オリジナル。下宿の庭にテントを張って、寒中でのビバークに慣れるための訓練をした。会社に行くときは、いつも石ころを詰めた10キロの重さのリュックを背負って通った。計画も、山の天候の読み方も、いつも自分一人が頼りだから慎重の上に慎重を期した。そんな加藤が、一回だけパーティを組んだことがあった。そうせねばならない成り行きが有った。そのパーティ山行が仇になり、加藤は遭難してしまう。小説はそういう筋書きだった。

 考えた。ある事をするときに、それが危険がどうかは、全て、それをする人の熟練度合いを勘案して判断すべきことではなかろうか。

 自動車で高速道路に入り、時速100kmで走る行為は危険なことだろうか。それは普通のドライバーにとっては危険でも何でもない普通の行為だろう。でも運転免許を持っていない、ハンドルを始めて握る人にとっては危険どころの話ではない、死に直結する行為である。

 ではレース専用のサーキットを時速300kmで走る行為は危険か。これはF1ドライバーにとっては普通のことだ。でも普通のドライバーにとっては、いくらサーキットとは言え、極めて危険な行為だと思う。

 冬の日本アルプスに一人で登る行為は危険か。これは普通の登山者にとっては危険極まりないことだと誰もが思う。でも、加藤文太郎にとっては普通のことだったのだ。(ちなみに、5月上旬の雨の日に神奈川県の丹沢山に一人で登る行為はどうかというと、これは加藤文太郎にとっては朝飯前の行為だろう。でも登山初心者のひぐらしにとっては、大冒険だった(笑))

 小説に一貫しているのは、西部劇に出てくるアウトローのような、しびれるようなカッコよさ。しかも恋愛のエピソードも適度に織り込まれている。歴史的な背景も明確で、ストーリーに深みを増している。もちろん山岳の描写も素晴らしい。最後の遭難の場面は圧巻で、本から片時も目が離せなかった。でも、これから読む人もいるだろうから詳しくは語るまい。

 よい本を読み終えた後というのは、いつまでも興奮が尾を引くものだ。

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(注1) パーティを組んでも助け合えないケースもある。例えば10人のパーティで、リーダー1人が登山歴40年のベテラン、残り9人全員が初めて山に登る人だったとする。そこで運悪くリーダーがガケから転落してしまったとか、体調が急変して倒れてしまったらどうなるか。残り9人は右往左往して救助することもできず、また道がわからないから自力で下山することもできない。結局全員が遭難する。極端な例だが、要するに定跡も、その意味がわかっていないと全く無意味ということだ。
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井上靖 「氷壁」 [読書]

 今年の初めに、丹沢の大山に登ったことを書いたが、先週4月5日は、2回目の丹沢に登った。場所は、弘法山というところで、まあお花見ハイキングと言ったところ。弘法山そのものは、特別高い山ではないけれども、リーダーが簡単すぎないように途中のコースを考えてくれたおかげで、そこそこの疲労感と達成感を満足できたように思う。実は、前の日に、新しいザックやら、スパッツやらガスコンロなどを買い込み、それなりに装備を充実させて気合を入れて行ったのだった。

 新しい装備を揃えてひとつわかったこと。ちゃんとした装備はそれなりに重い。ということは、ダイエットが必要ということだ。仮に10kgの装備を背負ったとしても、自分を10kg減量すれば、差し引きゼロ。荷物が重いと嘆く前に、自分の抱えている贅肉を落とした方が何かにつけて都合がいい。ということで、会社の行き返りは、歩くようにした。片道65分。往復で130分。これだけ歩いていれば、夏までには5kgくらいは痩せるだろう・・・甘いか?

 今週の土日は、プラモをやろうと思っていたが、昨日偶然にも本屋さんで井上靖の「氷壁」を見つけてしまい、読み出したら止まらず、結局、今日は読書で終わった。もともとそんなに読むのが速い方ではないと思うが、物語の展開が面白く、ハラハラドキドキの連続で、結局2日で読み終えた。あらすじに興味のある方はウィキペディアで検索されたし。

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 物語の中の、ある登場人物のセリフで非常に印象的なものがあった。山で、ある人が遭難して死んだときに語った言葉だった。

 「登山というものは生死をかけてやるものではなく、近代的なスポーツだという人がいるが、間違っている。毎年のようにたくさんの命が山で失われるのは、登山をスポーツだと思うからだ。あらゆるスポーツにはルールがある。登山がスポーツだというならルールを作るべきだ。そしたら少しは遭難が減るだろう。それから、もうひとつ、あらゆるスポーツにはプロとアマチュアの違いがあるが、登山にはそれがない。アマチュアが一、二度、山に登ると、もうプロにでもなった気になる。」

 実に本質を衝いていると思う。登山には守るべきマナーはあるが、ルールというものはなさそうだ。例えば、10m以上の絶壁は登ってはならない、などというルールが作れるのだろうか。多分無理だ。そもそも「絶壁とは何か」を定義しなければならない。角度が何度で、表面は岩で・・・などという定義が仮になされても、それが絶壁かどうかは、そのときの登山者の判断に委ねられるに決まっている。その判断がいけないというのなら、日本中の絶壁らしいところに、ここを上ってはいけませんという標識をつけなければならない。しかし絶壁らしいところなど、無尽蔵にある。

 プロとアマの話にも説得力がある。普通のスポーツでは、初心者と熟練者の違いが明確にわかる。しかし、登山の場合、これがわかるのは、多分、道に迷う、ケガをする、と言ったトラブルに陥ったときなのだろう。つまり、熟練者は、トラブルを事前に予想して、これを回避したり、実際にトラブルが起きたときに、的確な対応したりするもので、トラブルが何も無いときは、初心者も熟練者もないのと同じなのだ。つまりはトラブルを実際に経験しなければ、熟練者にはなれないということだ。そうしてみると、登山の熟練者になるとは、随分と危険なことのようにも思えてくる。

 いずれにせよ、この小説を読んだ最大の収穫は、文学的な価値云々ではなく、山の怖さをまざまざと味わったことだった。山は地形も気候も自然がむき出しだ。普段人里で暮らしている人間が、その感覚を、そのまま持ち込んではいけない場所なのだと、いまさらながら痛感した。

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飛行機の本 [読書]

 そそられる飛行機の本を買ってしまった。ディアゴスティーニの「FIGHTING AIRCRAFT DVD Collection」 第1巻はF-14。やっぱしかっこいいわあ。

 DVDを食い入るように見てしまった。模型を作る上での、貴重な資料映像になる。映像を見たら、過去に自分の書いた記事に誤りがあることがわかってしまった。F-14で、パイロットの頭上にある、緊急脱出用装置のスイッチ。これの位置が、プラモでヘルメットに近すぎるのではないか、と書いてしまったが、実際、頭に着くくらいの位置にある。(ハセガワさんごめんなさい)

 ちなみに、このシリーズ、予告では、次のようなラインナップになっている。
F-15イーグル
F-22 ラプター
F-4 ファントム
F/A-18 ホーネット
SR-71 ブラックバード
JAS 39 グリペン
ラファール
B-52 ストラトフォートレス
F-117 ナイトホーク
パナヴィア トーネード
F-16 ファイティングファルコン
B-1B ランサー
B-2 スピリット
MiG 29 フルクラム 
Su-27 フランカー
シーハリアー
・・・・・


博士の愛した数式 [読書]

 小川洋子さんの「博士の愛した数式」(新潮文庫)を読んだ。小説を読んだのは久しぶりだった。 

 実はこのブログを立ち上げたばかりの頃、今年2006年の3月21日の記事(カテゴリは映画)にこの小説を原作とした映画(題名は同じ)に関する記事を書いた。(観てはいないけど面白そうだと書いただけだったけど) オイラーの公式を紙に書き、写真に写してアップしたりなんかもしたが、これは実は単にブログに写真をアップする練習だった。

 映画は結局まだ観てはいない。ただ文庫本はいつでも読めるようにと思って買っておいた。今日、時間ができたので読み始めたら、すぐに没頭してしまい2時間くらいで一気に読んだ。

 ミステリー小説のようなどんでん返しがあるわけでもなく、SF小説のような派手さもない。純文学として淡々と物語が進行していく。博士と家政婦とその息子の心のふれあいが温かい。

 ひとつだけ印象に残った場面を紹介しておこうと思う。家政婦の息子が博士の家で問題を起こし、仕事の依頼人である未亡人からクレームをつけられる場面。博士がその場でオイラーの公式を書いて去っていく。それで言い争いが収まってしまった。
 自然対数の底 e と円周率 π と虚数単位 i 、そして整数の1。一見全く異質なこれらの数字が美しく調和するこの公式に、博士が何をなぞらえようとしたのか、それは明らかなのだが、作中ではそれを言葉で敢えて説明していない。そこに作者の小川洋子さんの芸術性を感じた。

 良い作品だった。感動した。しばらくは余韻に浸れそうだ。

 


滝の白糸(6) [読書]

■判決
さて、判決である。

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 検事代理村越欣弥は私情の眼をおおいてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩をかさねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したるなり。さるほどに予審終わり、公判開きて、裁判長は検事代理の請求は是なりとして渠に死刑を宣告せり。
 一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、遂に幽明を隔てて、永く恩人と相見るべからざるを憂ひて、宣告の夕べ、寓居の二階に自殺してけり。
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 欣弥は恩人を殺人犯として起訴し、判決で滝の白糸は死刑となった。そして欣弥はこれを苦に自殺してしまった。このいきさつは、淡々と書かれており、それ以前の詳細な情景や感情の描写にくらべてあまりにあっさりしている。
 この作品の価値が認められ、これが新劇の舞台で公演されたとき、興業者が作者に無断で脚色を行ったため、尾崎紅葉が抗議したといういきさつがある。(尾崎紅葉は泉鏡花の師)新劇の舞台で脚色された部分とは、想うにこの最後の部分ではないだろうか。
 この裁判の場面は、欣弥が苦しみを隠して白糸を尋問する場面、白糸が欣弥に影響が及ぶことを恐れて彼をかばい嘘をつき通す場面に、もっと悲しく切ない男と女の心の彩が描けそうな気がしてならない。
また、現代人の感覚からすると、「犯行の動機」ってものが詳しく調べるはずだから、供述の中に欣也とのいきさつが必ず出てくるはずで、これが一種のスキャンダルになって、そう単純にはいかないはずだと思う。これはひとつの「突っ込み」どころ。でも、それはそれ、泉鏡花の描きたかった不条理の世界を楽しむためには、そういう勘繰りは邪道なんだろうなと思う。

■追記
 そのスナックに翌週行ったとき、またもやその客に遭遇したので、私は思いきって、彼に「この間歌っていた『金沢情話』という歌をもう一回歌ってくれないか」と頼んでみたところ、その人は喜んで歌ってくれた。そしてまた感動してしたった。
「(せりふ)欣弥さん、東京で一所懸命勉強して下さい。学費はきっと、この滝の白糸が工面いたします」

 あまりにも感動したので、この小説を現代文に訳してみたらどうだろう、と考えたことがある。しかし、すぐに無意味であることに気づき、やめた。これほど美しく完成された文語体をなぜわざわざ現代文にする必要があるのだろう。このような文体は我々現代人には敷居が高いが、苦労しても読む価値のある作品であると思った。
                           (終)


滝の白糸(5) [読書]

■裁判

 強盗殺人現場に残されていた浴衣の片袖と出刃包丁から割り出された犯人は、滝の白糸から金を奪った賊であった。しかし、彼らは、自分たちが金を取ったのは滝の白糸であり、殺人など犯していないと主張した。また、一方、滝の白糸は金など取られていない、と主張した。裁判の争点はここにあった。
 あろうことか、滝の白糸を告発する役目を負ったのは、金沢地方裁判所、新任検事代理、村越欣弥であった。この物語のクライマックスであり、最も重要な場面である。

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 はじめ判事らが出廷せし時、白糸は静かに面を上げて渠らを見やりつつ、憶せる気色もあらざりしが、最後に顕れたりし検事代理を見るや否や、渠は色蒼白めて戦きぬ。この俊爽なる法官は実に渠が三年の間、夢微にも忘れざりし欣様ならずや。渠はその学識とその地位とによりて、かつて御者たりし日の垢塵を洗い去りて、今やその面はいと清らに、その眉はひときわ秀でて、驚くばかりに見違へたれど、紛ふべくもあらず、渠は村越欣弥なり。

 白糸ははじめ不意の面会におどろきたりしが、再び渠を熟視するに及びて己を忘れ、みたび渠を見て、愁然として首をたれたり。白糸は有り得べからざるまでに意外の想を為したりき。渠はこの時まで、一箇の頼もしき馬丁としてその意中に渠を偶せしなり。いまだかくのごとく畏敬すべき者ならむとは知らざりき。或点においては渠を支配し得べしと思ひしなり。されども今この検事代理なる村越欣弥に対しては、その一髪をだに動かす力のわれにあらざるを覚えき。ああ、闊達豪放なる滝の白糸! 渠はこの時まで、己は人に対してかくまで意気地なきものとは想はざりしなり。渠はこの憤りと喜と悲にくじかれて、残柳の露にふしたるごとく、哀に萎れてぞ見えたる。
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 悲しい再会である。。自分が、三年の間、片時も忘れず仕送りをして、仕送りのために殺人を犯してまで「立派な人になって下さい」と念じ続けた人が今、自分の思い通り立派になって、しかもその罪を裁こうとしている。このときの白糸のショックは、察するにあまりある。
 ショックを受けたのは欣弥も同じであった。欣弥の視点から見た白糸の様子がこの後に書かれている。

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 欣弥の眼は、密かに始終恩人の姿に注げり。渠は果たして三年の昔天神橋上月明の下に、肘をとりて壮語し、気を吐くこと虹の如くなりし女丈夫なるか。その面影もあらず、いたくも渠は衰へたるかな。
 恩人の顔は蒼白めたり。その頬は痩けたり。その髪は乱れたり。乱れたる髪! その夕の乱れたる髪は活溌々の鉄找を表せしに、今はその憔悴を増すのみなりけり。

 渠は想へり。闊達豪放の女丈夫。渠は垂死の病辱に横はらむとも、決してかくのごとき衰容を為さざるべきなり。烈々たる渠が心中の活火は既に消えたるか。何ぞ渠のはなはだしく冷灰に似たるや。
 欣弥はこの体を見るより、すずろあわれを催して、胸も張裂くばかりなりき。同時に渠は己の職務に心着きぬ。私をもって公に代へがたしと、渠は拳を握り眼を閉じぬ。
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 三年前の美しかった恩人が被告席につき、顔は青ざめ、頬はこけ、髪は乱れ、すっかりやつれてしまった。自分を助けてくれた恩人に恩返しもできず、その恩人を告発しなければならない、胸も張り裂けんばかりの、このやりきれない気持ちはどんなであったろう。
 予審の時から、裁判長を始めとする誰の尋問にも罪を認めなかった滝の白糸は、欣弥の尋問を受け、ついに罪を自白した。

 次回、最終回。


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