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ひぐらしのルーツ(6) [雑文]

(つづき)
 吹上の家というのは、今風に言えばシェアハウスみたいなもので、一軒の家を複数の夫婦がルームシェアの形で借りていたらしい。夫婦二人で住むにはそれでもよかったが、昭和38年に僕が生まれて以来、子供が2人になり狭くなってしまったので、社宅(推定、借上げ社宅)に引っ越すことになった。つまり僕にとっての吹上時代は1年に満たない、ごく短い期間であった。

 さて次の家の場所である。グーグルの地図でJR五井駅と養老川の河口が同時に入る範囲を示してみる。国道16号線の南側、養老川の東側、吹上橋(五井大橋付近)よりも北側でだいたい特徴的な急カーブのあたりまでの地域はかつて「カシ」と呼ばれていた。「カシ」には今回、とりあえず「川岸」という漢字をあてておく。(注1)
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 急カーブのあたりを拡大する。旭硝子の千葉工場があり、国道16号線を挟んで反対側にガソリンスタンドがある。
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 このあたりをさらに拡大すると、下図になる。同じエリアを写真にもしてみる。この赤く塗ったところに「川岸の家」があった。当時は家のすぐ近くに小川が流れていたが、現在はかろうじて細い水路になって残っている。
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 下の写真は、おそらく川岸の家に引っ越した直後と思われる。服装と僕の顔つきからみて昭和38年の秋ごろではないだろうか。
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 それからもう一つ、こちらは着ているものから推して昭和39年の1月とか2月の寒いころだと思われる。お袋によると、この頃はそろそろ伝い歩きができるようになっていたが、歩くより這う方が速く、しかもスピードが尋常ではなかったという。掌にタコができていたそうである。
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 この写真のときから少し時間が経過して、外に出て歩けるようになった頃のある日に、僕の人生の最初の記憶がある。これ以後は、両親の話だけではなく、自分自身の記憶として残っている話が中心になるのだが、そういう話は「ひぐらしのルーツ」というタイトルで語る範囲を逸脱している。よってこのシリーズは物心がつく前までのところで閉じようと思う。

 地図の中にある、国道16号線、ガソリンスタンド、急カーブ、水路、送電鉄塔、これらはすべて記憶の手掛かりであり、なおかつ自分の心の中に残っている原風景である。今後、「ひぐらしの幼年日記」を書く折りがあると思うので、そのための布石を打っておいた。

 長々とお付き合いありがとうございました。

*****
(注1)
 「カシ」という呼び名も吹上(ふきあげ)と同じで、今は正式な地名としては残っていない。「カシ」の漢字は「川岸」と「河岸」の2通り考えられるのだが、昔、五井の町を走る小湊バスの、この地域にあった停留所で「川岸(かわぎし)」という所があったので、案外これが「カシ」の名残をとどめていたのかもしれない。
 ただ、僕の考えでは、元々は "魚河岸" の "河岸" だったのではないかと思う。というのは、この辺一体は、かつては漁村だった。つまり東京湾で水揚げされた魚介類が、養老川を通して内陸に持ち込まれて商取引が行われていたのではないかと思うのである。そして "河岸" が、地元の人の習慣でなんとなく "川岸" に置き変わってしまったのではなかろうか。そもそも昔の地名なんていい加減なものだ。政府が公式に決めていなければ、時代とともにどんどん変化していく。
 なお、小湊バスのバス停「川岸(かわぎし)」を走っていた路線は、今では廃止されてしまったようだ。

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ひぐらしのルーツ(5) [雑文]

(つづき)
 前の記事に書いた通りの縁で知り合った親父とお袋は、1960年(昭和35年)11月、勤労感謝の日に結婚した。そして最初に住んだ所が、吹上(ふきあげ)という所だった。現在この地名は、住所などに使われる公式な地名としては存在しない。「吹上通り」という「通り」の名前としてかろうじて残っている。
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 JR内房線の五井駅からこの道を北西の方向へ歩くと、15分くらいで養老川につく。ここには、五井大橋という大きな橋が架かっている。この橋の五井駅側の一帯が、かつて「吹上」と呼ばれた地域であり、親父とお袋の当時の家は、ここにあった。
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 1961年(昭和36年)11月に姉が生まれ、その1年半後、1963年(昭和38年)5月、僕が生まれた。昔のアルバムの中には、服装から見てすべて同じ日に撮影したものと思われる一群の写真がある。そのうちの3枚をお見せする。おそらく昭和38年、つまり僕が生まれてすぐの夏と思われる。

↓。姉が昼寝している横に寝かせて撮ったらしい。(子供のこういう姿ってかわいいよね)
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↓。破れ障子がいい味を出している。
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↓。ピンボケなのはお袋が撮っているからと思われる。(当時はオートフォーカスなんか無かったので)
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 さて、吹上に関連して、地元の人しか知らないトリビアを語りたい。五井大橋から川の上流側を眺めると、近くに小さな記念碑が建っている。この記念碑は、昔ここに架かっていた吹上橋(ふきあげばし)という橋の跡に建てられたものである。
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 碑文を全文抜き書きする。

吹上橋記念碑
吹上橋は昭和八年十二月、此処養老川に架設され五井地区の発展に寄与してきた
平成九年四月、養老川の河川改修事業に伴い撤去されることになり
六十三年間の歴史に幕を閉じることとなった
この橋への地域住民の愛着と親しみが、永く後世に伝わることを祈念し此処に標す
平成十一年三月  市原市

 僕は、自分が生まれてすぐに住んだところが吹上橋の近くであったことを、幼い頃に両親から聞かされていた。もちろん、生まれてすぐの記憶など残っていない。それでも、吹上橋を渡るときには、いつも自分の生まれたときのことを、なんとなく想像する癖がついていた。

 僕が吹上橋を一番よく使ったのは中学生の頃だった。もうこの頃は別のところに住んでいたが、成長して活動範囲が広がり、自転車であちこちに出掛けるようになったから、この橋もよく使った。欄干が非常に粗く、端を走ると落ちそうで怖かった。記念碑に書かれているように、幅は3.4メートルしかなく、車一台がすれ違えるかどうかという細さだった。昭和8年と言えば自動車がまだあまり普及していない時代だったと思う。人が歩いて渡ることを前提にした橋だったのかもしれない。

 吹上橋の隣に五井大橋が作られたのは、橋のたもとの銘板によれば1974年(昭和49年)である。この時点で実質的に吹上橋の役割は終わったことになる。しかしその後も撤去されずに残っていたのは、やはり地元の人の愛着ゆえであろう。僕が就職で千葉を離れた1987年(昭和62年)にはまだ架かっていた。撤去されたのは碑文によれば1997年(平成9年)4月である。五井大橋が架かって役割を終えた後も、実に20年以上も存続したというのはすごいことではないだろうか。(注1)

 神奈川に移住してもう30年近くたつ。故郷に帰るたびに、その姿が少しずつ変わっていくことに気付くもので、それは寂しいことだが仕方ない。しかし吹上橋が無くなったことを知ったときは、特別な寂しさを感じた。無くなってしまうと余計に恋しくなる。写真を撮っておけばよかった。自分の頭の中に吹上時代の記憶が全くないにも関わらず、吹上橋が、自分の吹上時代の象徴のように感じていたのだった。
(つづく)

***
(注1)
 五井方面から吹上橋を渡るとその辺一体は玉前(たまさき)という地域になる。お袋の話では、子供の頃(おそらく昭和20年頃)吹上橋は大雨が降ると、川の水の力でほぼ必ず橋桁が壊れたのだという。そうなると橋が傾いてしまって使えなくなる。修復に1週間以上かかるので、玉前に住む人たちは五井の町に出掛けるのに、上流の養老橋まで大きく迂回して川を渡らねばならなかった。もしかしたら設計からしてダメな橋だったのかもしれない。
 僕の記憶の中にある中学生時代の吹上橋も、いかにも弱々しく、しかもだいぶ老朽化していた。それを考えると、1997年まで存続していたとは言え、実際には早くに通行止めになっていたのではないだろうか。事故が起こってからでは遅い。しかし大金をかけてメンテするのであれば、すぐ隣に五井大橋を架けた意味がない。


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ひぐらしのルーツ(4) [雑文]

(つづき)
 M建設の仕事は、京葉工業地帯の造成のための海岸の埋め立て工事だった。時代が時代だけに、顧客(つまり千葉県)はイケイケでどんどんお金をつぎ込んでいたらしい。つまりものすごく忙しい時期だったということである。人手不足のM建設(親父を含む)は、いきつけのガソリンスタンドに「事務員を探しているんだが誰かいい人いないかね」と、相談を持ち掛けた。

 前の記事に書いた通り、このガソリンスタンドには、お袋の友達のMっちゃんが勤めていた。ある日、Mっちゃんは、うちのお袋と町で出会ったときに、この ”M建設、事務員募集” の話をした。このとき ”お袋自身が応募する” という選択肢も当然あったわけだが、お袋はそのとき、海産物の商いが楽しくて、会社勤めをする気は全くなかったと言う。結局お袋は自分の妹(つまり僕の叔母)(注1)を紹介した。

 当時は高度経済成長期だったから、M建設だけでなく、世の中のどの会社も目が回るほど忙しかったと思う。現代のようにワークライフバランスなどという概念は無かったはずだし、これからの日本を作るという志を持ってみんながむしゃらに働いていたに違いない。当然残業も多かっただろう。仕事の帰りが遅くなると、M建設の社員が叔母を家まで車で送り届けるのが慣例になっていた。その送り届ける人の中に、うちの親父がいたのである。

 母方の祖父は、M建設の若い衆が叔母を送ってくると、歓迎していつも食事を振る舞ってもてなしていたそうである。これは、娘が世話になっているからという理由ではなかったようだ。祖父はただ純粋に、人と一緒に食事をしたり、酒を飲んだりするのが好きな人だったらしい。たぶん若い衆を可愛がって、「おおよく来た、まあ飯でも食っていけ」、と呼び入れ、若い衆は遠慮しつつもその迫力に負けて、ついつい上がってしまったのではないだろうか。

 さて、その家にお袋がいた。こうして親父とお袋の運命が繋がった。
(つづく)

***
(注1)以前、叔父が亡くなったときに書いた記事に登場したあの叔母である。
参考URL。
叔父の死(2008年の記事)
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2008-12-21

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ひぐらしのルーツ(3) [雑文]

(つづき)
 うちの親父は昭和8年(1933年)4月、静岡の金谷(当時は榛原郡金谷町、現在は島田市に統合されている)で生まれた。金谷といえば蒸気機関車の動態展示で全国的に有名な大井川鐡道が走っているところである。親父はここで商業高校を卒業し、職を求めて上京、四谷にあったM建設という建設会社に就職した。高卒で就職しているから、このときの年齢を19歳とすれば、就職したのは1952年のことだった。

 この頃の日本は、朝鮮戦争(1950~1953年)による特需景気に沸いていた。また前の記事で書いたように、国土総合開発法が施行されたのが1950年、ちょうど千葉県が京葉工業地帯の造成に着手した頃と一致している。つまりこの時代は、就職活動をする学生にとっては売り手市場だったと思われる。親父は就職してまもなく千葉の営業所に転勤した。この人事が、京葉工業地帯の造成のための人員補強であろうことは、まず間違いない。

 一方、お袋の方はというと、昭和10年(1935年)4月、千葉県市原市生まれではあるが、ルーツは新潟(現在の新潟市西区)の五十嵐(いからし)というところにある。祖父と祖母はともにここの出身で、ここで結婚した。新潟でとれた海産物(主にわかめやこんぶ)を千葉に運んで売る行商人だった。

 地元の産物を個人で関東に運んで売るというのは、流通の発達した現代ではあまりピンとこない話であるが、昔のやり方としては普通だったのだと思う。つまり新潟が特別なのではなく、海産物が特別なのでもなく、千葉に来るのが特別だったわけでもない。地元の産物を、個人が、他所の土地へ運んで売る。特に首都圏の人口の密集した地域は良い市場だったのではないか。そして、こういう商いがどこの土地でも普通に行われていたのではないかと思われるのだがどうだろう。

 祖父と祖母が新潟と千葉の間を往復していたのは大正時代だった。やがて昭和になり、子供ができて、それまでのように自由には動けなくなった。その頃、ちょうど東京に海産物の問屋ができて商品をそこから仕入れることができるようになったので、千葉県市原市に定住するようになったということらしい。

 商売のやり方としては訪問販売ではあったが、知らない家にいきなり飛び込んで売るわけではなかった。すでに開拓された得意先があって、そこに行けばたいてい買ってくれたのだという。つまり祖父と祖母は顧客に近いところに居を定めたということである。うちのおふくろも中学校を卒業したあと、高校には進学せず、両親の商いを手伝っていた。主要取引先は、成田山新勝寺の近所の旅館だったという。

 さて、お袋にはMっちゃんという小学校以来の友達がいて、この人は独身時代、S井さんという人の経営するガソリンスタンドで働いていた。そのスタンドで給油するお得意さんの中に、親父の会社があった。
(つづく)
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ひぐらしのルーツ(2) [雑文]

(つづき)
 1950年(昭和25年)の国土総合開発法から、時代を下ること10年、1960年(昭和35年)12月、池田勇人内閣が国民所得倍増計画という政策を打ち出した。この時代、日本は高度経済成長期に入っている。つまり映画「Always 三丁目の夕日」の時代である。

 この政策の中に、当時の既存の四大工業地帯(京浜、中京、阪神、北九州)の中間の地域で新たな工業地帯を形成し、太平洋側に帯状に配置しようとする構想があった。これを太平洋ベルト地帯構想という。

 少し話がそれるが、小学生時代、社会見学の授業で、京葉工業地帯にあった極東石油(現在の東燃ゼネラル石油)の工場見学に行った。そのとき担任のN先生が事前の授業で力説していた言葉が忘れられない。「太平洋ベルト地帯という言葉はおかしいんだ。ベルトというのは帯という意味だろう。ベルト地帯ってなんだよ。こういう言葉を使う奴の教養を疑う」 ・・・N先生はいいこと言ったと思う。(笑)

 さて実際に所得倍増計画の中で、政府がこの構想を具体的に推進したことはなかったらしい。しかし現在、工業地帯は現実に太平洋側に帯状に並んでいる。政府が国家プロジェクトとして積極的に推進しなくても、最初の方針を示しただけで、成るべくして成った姿のようだ。特に京葉工業地帯の開発のいきさつは2013年の「はまぐりの碑」の記事に詳しく書いておいたのでしつこいようだが、下記URLを参照されたし。
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2013-05-17

 京葉地域は、京浜地域とは対照的に、昔はのどかな漁村であった。これが昭和30年代、高度経済成長期に工業化に向かって大転換をしたのである。京浜工業地帯が電気・機械系の工場が多いのに比べ、京葉工業地帯は石油・化学系の工場が圧倒的に多い。こうした産業には広い敷地が必要になるから、国や県などの政府の介入がどうしても必要になる。その点をみても京浜と京葉の両工業地帯は、成立の仕方が根本的に違うことがわかるのである。

 さて、この京葉臨海工業地帯で、ひぐらしの父と母はどういう縁で結ばれ、結果、姉と僕が生まれたか。それを次回以降にお話しする。
(つづく)
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ひぐらしのルーツ(1) [雑文]

 湘南キット研究所の開設10周年を記念して何かやりたいと思い、この機会に前から書きたかったネタを書くことにした。題して、「ひぐらしのルーツ」シリーズである。2013年に書いた「はまぐりの碑」という記事の中で、自分のルーツが京葉工業地帯に密接に関係していることを書いたが、これをすこし詳しく掘り下げてみたいのである。2013年の「はまぐりの碑」の記事は、下記URLを参照。
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2013-05-17

 さて。例によってまず歴史のお話をしたい。学生時代は歴史の勉強は苦手だったが、学校を離れて自分の人生に絡めてすると結構楽しいものだ。京葉工業地帯ができたいきさつは、簡単に言うと、首都圏にすでにあった京浜工業地帯が過密状態になっていたため、それを緩和するために、千葉県の沿岸部に工業地帯を作ったということらしい。だから、まず京浜工業地帯から調べてみた。
 
 話は江戸時代まで遡る。徳川家康が征夷大将軍になって幕府を江戸に開き、そして日本橋から現在の神奈川県を通って、京の都に至る東海道が整備された。明治時代には、横浜港が国際港として開かれ、日本初の鉄道は、新橋から横浜の間に敷かれた。江戸時代からの歴史的な流れからみて、東京~横浜のいわゆる「京浜」と呼ばれる一帯に、人が集まり産業が発達するのは、きわめて自然なことだった。

 90年代の話になるが、僕は東京の大田区の六郷(品川と川崎の間)という所の事業所に勤務しており、京浜工業地帯を自分の目で見ていたから自信をもって言える。この地域には、電気機械関係の中小企業が非常に多い。もちろん大企業の大工場だってあるにはある。しかし、この中小企業の町工場の多さがすなわち、自然発生的に、つまり人が自然に集まって形成された工業地帯であることを端的に物語っているとは言えないだろうか。

 そんなわけで、京浜工業地帯は、政府の意図とは関係なしに自然に形成されたわけだが、京葉工業地帯の起こりについては、ちょっと国のてこ入れがあった。1950年(昭和25年)に、国土総合開発法という法律ができ、京浜工業地帯への過度な集中を防ぎ、分散させるために千葉県の臨海地域を工業地帯にする方針が示された。千葉県は、これをもとに、京葉臨海工業地帯の造成に着手したのだそうだ。

 1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約が調印され、翌年1952年に発効。これにより占領政策が終わり、日本は主権を回復した。だから昭和25年とは、まだGHQの占領下の時代だったことになる。GHQは占領政策を日本政府に施行させる機関だったが、この国土総合開発法が占領政策だったとは思えない。おそらく日本政府が独自に作った政策だと思われる。GHQの承認は必要だったと思われるが、占領政策も終わりに近づいた時期でもありたぶん何の問題もなく承認した、という程度だったのではなかろうか。
(つづく)
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鉄人28号のブリキのおもちゃ [雑文]

 ここに1枚の家族写真がある。アルバムから剥がしたら、裏には昭和40年1月15日という書き込みがあった。昭和40年とは1965年、つまり今年2016年から数えて51年前である。場所は、当時住んでいた家の玄関の前。親父とお袋、親父に抱かれているのが僕(1歳8か月)、そしてお袋の前に姉(3歳2か月)が立っている。両親が結婚したときに仲人をしてくれたSさんという人が正月に遊びに来たときに撮ったものだという。
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 前の記事にも書いたように、最近の僕はレトロ指向が前にも増して一層強くなっていて、僕自身の生い立ちを時代背景と共にいずれ書いてみたいと思っている。ただ今回書きたいのはそれではなく、写真の中で僕が持っているおもちゃの話である。Sさんがおみやげに買って来てくれたのは、当時テレビで人気のあった鉄人28号のブリキのおもちゃだった。

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 残念ながら僕はこのおもちゃで遊んだ記憶がほとんどない (* )。貰ったのが1歳8か月。幼すぎた。おそらくすぐに壊してしまって動かなくなってしまったのでないだろうか。お袋によるとこの家から引っ越したとき(僕が幼稚園生の時)に、壊れて動かなくなっていたから処分したという。

 昨年2015年の暮れ、東京の「中野ブロードウエイ」に行く機会があった。ここは、アニメとかゲームとかトレーディングカードとか、いわゆるサブカルチャーのお店がたくさん集まっている。ブリキのおもちゃに代表されるようなレトロ玩具専門店もあって、そこでこの鉄人28号が、なんと10万円で売られているのを見つけてしまった。「じゅ・じゅ・じゅ・じゅ~まんえん!」

 数千円なら「懐かしい!」と思って衝動買いしそうである。しかし10万円!? そう簡単に手を出せるようなものではない。

 家に帰ってからヤフオクでも調べてみたら、このおもちゃは結構頻繁に出品されていることがわかった。しかも僕が子供の頃(1960年代)に売られていた古いものと、1990年代に復刻された新しいものの2種類がある。古いものは、錆びが出ていたり傷がついていたり、腕や鼻が取れていたりするものもあるが、それでも数万円は下らない。程度のいいものは、古い方、新しい方問わず、中野ブロードウエイで見たように10万円くらいで売れていく。

 このオークションを見続けて、だんだんわかってきた。つまり、これが商品の相場というものなのだ。慣れない人が見て「高い!」と驚くようなものであっても、「その値段で買います」という人がいれば、その値段で売れていく。逆に、その相場を高いと感じている限り、その人はその物を買うことが出来ないのだ。実際に競りに参加して、欲しいものを他人に取られてしまって、初めて相場というものを実感し、心理的なハードルがだんだん下がってきた。

 もう一つ気づいたこと。落札される価格には、ある程度の変動がある。10万円で落札されることもあるが、たまに同じ程度のものが、7万円で落札されることもある。安く買おうと思ったら、この変動を利用するしかない。まだ10万円を出すほどの踏ん切りはつかないが、数万円なら・・・この心境に至るまで4か月かかった。

 ゴールデンウイークの帰省直前、程度のよいもの(復刻品)が●万円で出品されたので、清水の舞台から飛び降りる気持ちで入札した。そしたら奇跡的に僕以外に入札がなく、そのままその値段で落札してしまった。みんな行楽に出かけてしまいPCを見ている人が少なかったのかもしれない。嗚呼・・・とうとう買ってしまった。ちなみに●は公表できないが、この品物の相場を知った後となっては、安い方の金額だと思っている。

 手に取って眺めて動かしてみて、このおもちゃはかなりの高級品だということがわかった。1960年代の当時でも結構高額な部類だったのではないだろうか。おそらく可愛い坊や(=僕)の喜ぶ顔を見たくて、Sさんは奮発してくれたんだな、と今更ながら感謝してしまう。51年前のSさんの気持ちを推して知ることができただけでも、入手した甲斐があった。

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 動いているところの動画を取ったので、興味のある方はご覧あれ。これを1歳8か月の赤ん坊に与えるのはもったいない。



**********

【おまけ】よくある質問
Q そんなもん買ってどうすんだよ。
A たまに取り出して動かしてニヤニヤ笑っていたいのだ。骨董品を買う最大の目的はこれ、すなわち所有欲を満たすことである。わかるかなあ。わかんねえだろうな。

(* )記憶がほとんどないと書いたが、実はかすかな記憶がある。このおもちゃは、足に電池を入れるようになっているのだが、ある日蓋を開けたら、電池が液漏れを起こしていて、あまりの汚さにショックを受けた。これがお袋のいう、処分した時だったのかも知れない。

【おまけ2】YouTubeでかっこいい動画を見つけた。外国で映画化のプロモーションとして作られたらしいが、映画そのものは企画がつぶれてしまったらしい。この動画がいつまで見られるかわからないが、参考まで。

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祝! 開設10周年 [雑文]

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 うっかりして忘れておりました。湘南キット研究所は、おかげ様にて、2016年3月21日で開設10周年を迎えました。いや~~~。あっという間でした。もう10年経ってしまったんですね~~~~。(5月に入ってやっと気づくなんて・・・)

 この機会に、最近考えていることをちょっと書いてみようと思います。人間は年を取ると、昔を振り返って懐かしむことが増えるとよく言われます。僕もそうです。もしかしたら平均的な人よりも、その度合いが強いかもしれません。

 以前は、「昔の話ばかりしているのは年を取った証拠だ」と言われるのが嫌でした。でも最近は、「思い出に浸れることは幸せなことだ」と思えるようになりました。今が楽しくて、なおかつ昔を懐かしんで楽しんでいるのですから。つまり思い出に浸る楽しみが、人生経験を積めば積むほど増えていくということなのでしょうね。

 このブログを立ち上げたとき、最初はプラモ作りに勤しんでおりました。でもよく考えてみると、最初に組んだ「赤とんぼ」という飛行機のキットは、小学生のときに挫折したもので、それのリベンジでした。つまり開設当初から、すでに思い出に浸っていたことになります。

 ということで、これから先、書く記事の端々に、僕の中にある懐古趣味が現れると思います。もしかしたら、同じ年代の人にしか共感されないかも知れない、なんて思ったりします。しかしその一方で、僕の昔話は元々かなりマニアックなので、同じ年代であっても、全く共感できないかも知れません。(笑)だから、いずれにせよあまり気にしないことにしました。

 以前も書きましたが、僕のブログを喜んで読んでくれる人は僕の理解者だと思います。最近は、筆が進まないことが多いのですが、ネタがないわけではないのですよ。いくらでもあるのです。ただ単に筆不精になってしまっているだけなのです。まあとにかく、今後ともマイペースで書いて行きますので、よろしくお付き合い下さい。

湘南キット研究所  ひぐらし

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母の車椅子(1) [雑文]

 2015年3月の、僕がうつを患っていた頃の話である。症状がだいぶ良くなって来たので、リハビリを兼ねて両親と一緒に広島旅行に行った。僕個人としては、広島には過去に一回旅行したことがあった。その経験から、平和記念公園と、原爆投下の目標になった相生橋を、両親には是非見て欲しいと思っていた。そして実際その通り案内できたのだが、歩く距離が長かったせいで、相生橋で、お袋が歩けなくなってしまった。平和記念資料館では、車椅子を借りて見学した。

(そのときのいきさつは、下記の記事に書いてあるので、興味のある方は参照されたし)
広島の旅(2) お好み焼きと平和記念公園
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2015-05-24
広島の旅(6) エピローグ
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2015-08-13

 その時以来、お袋専用の車椅子を作ってみたいとずっと思っていた。お袋は普段は歩ける。自転車にも乗れる。しかし、年をとっているし、太っているから長距離を歩けない。だから旅行にも消極的になる。ならば、折り畳みのできる車椅子があれば問題は解決する。しかし市販品はどれも「帯に短し襷に長し」。

  THPメディカルクリニックでリワークプログラムを受けていたときに、フリーの時間に車椅子の設計を始めた。実際にものを作り始めたのは、会社に復職してからだった。最初はオール金属で作っていたが、絶望的な重さになることに気付いてしまい、方向転換を余儀なくされ、結局、木材を主体に作ることにした。

 最近ようやく、どうにかこうにか形になったので概略をお見せしたい。まだ未完成だが、お袋がたまたま遊びに来たので、有給休暇をとり、車椅子にのせて辻堂海岸まで散歩に出かけた。

 まず、下の写真は、折りたたんだ状態。この状態で、電車に持ち込めば遠くまで旅行に行くことができる。
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 下は広げた状態。
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 携帯性を重視しているので、ひじ掛けは諦め、代わりにシートベルトをつけて滑り落ちないようにした。座が未完成なので、別の板を敷いて、その上にクッション代わりにタオルを敷いている。
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 自宅から歩いて辻堂海岸まで行ってみた。耐久性に特に問題なし。しかも、いい車輪を使ったおかげで、実に滑らかによく走る。サイクリングロードで江の島をバックに。
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 シニアカート(老人用手押し車)としても使えるようだ。
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 総行程で2時間くらい一般道路の歩道(ガタガタを含む)を走らせたが、どこかが壊れることもなく、よく走った。まだ完全に完成したわけではないし、若干、剛性の不足するところも見つかったが、試運転としては大満足である。お袋は、「よくぞ、こんないいものを作ってくれた。大学を出してあげてよかった」と喜んでいた。その言葉を聞いただけでも、作った甲斐があったというもの。

 完成に向けてもう少しやることがあるので、進捗したら、また追ってご報告したい。


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2015年ラジオ音響技能検定試験・受験体験記 [雑文]

(ちょっとタイミングがずれていますが、これは昨年2015年秋のお話です)

 2014年の秋に、ラジオ音響技能検定試験の4級を受けたときのことを書いた。

興味のある方は下記URLを参照
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2014-11-14
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2014-11-15
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2014-11-15-1
http://shonankit.blog.so-net.ne.jp/2015-03-31

 正解発表のとき、この検定試験は2015年の秋で休止になるというお知らせがあった。僕は、この試験を1年で1級ずつ受けて行こうと思っていたのだが、あてが外れてしまった。翌年2015年(最後の機会)は3級と2級を同時に受験するのが精いっぱいである。それで、気合を入れて問題集を買い込み、勉強を始めた。・・・と思いきや、例の心の病にかかってしまい、勉強どころではなくなってしまった。

 やっと頭が働くようになり、復職したのが2015年7月。しかしその後、低血圧で倒れて病院に担ぎ込まれたり、それが原因で、頸椎を傷めたり、酷い肩こりになったりして、もう秋まで全く勉強できず。買ったテキストは3級をざっと読んだだけで、2級は手つかず。問題集は3級も2級もどちらも手つかず。

 こんな状態のまま当日を迎えることになってしまった。もう、「自分の健康状態が悪くなったのも運命であり、つまるところ神様は、今の実力でチャレンジせよと言っているのだ」、と割り切ることにした。

 さて当日、2015年11月8日。試験会場は前年と同じ、蒲田の日本工学院である。3級が午前、2級は午後だった。3級のときは、教室で日本工学院の学生らしい若者たちがにぎやかに談笑していたが、2級のときは、学生らしい受験生がほとんどいなかった。こちらは社会人の方が多いようだ。

 その週の週末11月13日に、正解が発表されたので、自己採点してみたら、3級は8割、2級は6割とれていた。結果どちらも合格。ほっとした。決して立派な成績ではないが、何しろこの試験が最後なので、まぐれでも何でもいいから合格したかったのだ。1級が受験できなかったのが心残りだが、こちらはもうアマチュア無線の試験で代わりにしようか、と考えている。

 というわけで、青春時代に受けたかった検定試験、終わってしまう間際に受験できてよかった。これにて、青春の忘れ物、ひとつ取戻し完了、ということにしておこう。

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